中国の「目を覚ました」日本!

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  日本と*1中国の関係は古い。邪馬台国の卑弥呼は西暦238年(または239年)、魏の皇帝である曹叡から親魏倭王の封号を授けられた。以後日本は中国へ朝貢を続け、唐の時代に入り「日本」の国号が承認された。日本は中国から多くの文化や技術を学んだ。中国から輸入された*2漢字は現代の日本人も使い続けている。

 しかし学ばなかったことも幾つかある。その内のひとつが中華思想に代表される自国に対する優越意識であり、自国こそ政治と文化の中心という国民的慢心だ。1842年、イギリスにアヘン戦争で敗れてもそれが止むことはなかった。自らの現状に甘んじ世界から目を逸らし続けた中国は18世紀半ばにヨーロッパで起こり日本でも殖産興業をスローガンに推し進められた産業革命の波から取り残された。1872年から始まった琉球処分により琉球王国に対する権益を日本に奪われてもなお、中国人が自国の置かれた惨状を直視することはなかった。そして日清戦争の敗北によって「眠れる獅子」と呼ばれた中国がただの見掛け倒しに過ぎなかったことが露呈した。これを見た欧米列強が次々と中国へ進出。なし崩し的に列強の租借地拡大と軍事基地建設、経済支配を許した。気づけば東洋の大帝国は欧米の半植民地に成り下がっていた。いや、大帝国などはじめからなかったのかもしれない。 かのアドルフ・ヒトラーは独ソ戦を前に「土台が腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」と豪語し、ソビエト連邦を腐った納屋呼ばわりした。ソ連の体力を甘くみたドイツの末路はご存知の通りである。しかし中国は仮にも「眠れる獅子」と呼ばれ、侮る者はどこにもいなかったはずだ。ところが日本がその虚像と慢心をボコボコに打ち破った。本当の腐った納屋がどこであるかを証明してみせたのだ。

 中国では日清戦争の敗戦後、日本の明治維新に学び、国内制度の改革を実現しようとする思想家の康有為ら改革派があらわれた。彼らの上奏は光緒帝の支持を得て実行に移されたものの保守派の反発により頓挫した。しかしその理念は生き続け、のちの辛亥革命と中華民国建国に繋がった。「中国革命の父」として敬愛される孫文は蜂起に失敗し日本へ亡命したことがある。のちに総理大臣を務めた犬養毅や政治活動家の頭山満、平岡浩太郎に支えられ再起を果たし、辛亥革命とその後の近代化に多大な影響を与えた。慢心の塊と化した中国人のプライドを破壊し近代化の風を送り込んだのは日本に他ならない。日本の少々手荒な「目覚まし」が中国人を起き上がらせたのだ。

 しかし中国では江沢民国家主席(当時)の方針で1994年9月に発表された「愛国主義教育実施要綱」に基づき幼稚園から大学まで徹底した反日教育が開始された。「南京大虐殺の犠牲は30万人」、「日本軍国主義の犠牲は3500万人」など、中国の中国による中国のための歴史が教え込まれている。教育に「主義」はいらない。取り除けなかった慢心の塊が時計の針を巻き戻そうとしている。

*1...文中では当時の国号に関わらず、アジア東部の大半を占める国の通称として、中華思想に基づき自ら称した「中国」と表記している。

*2...歴史学者の宮脇淳子氏によると現代中国語の  7割が日本由来なんだとか。それはもう中国語ではない気が...。文中でも使用 した「現代」「主義」「意識」も日本由来 。因みにコミュニズムを「共産主義」と訳したのは明治時代の日本人とされている。ある意味「中国共産党」も日本人がつくった政党か。