旧優生保護法は日本社会党の遺産だった | 岩本龍弘のブログ

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1964年、愛知県半田市に生まれる。イスラエルから発信される英語の記事が伝えるイスラエルと、日本のメディアが伝えるイスラエルがまったく違うことに気づいたことがきっかけで、イスラエルを応援する記事を書いている。今はアメリカに関心がある。

今朝の中日新聞によると、旧優生保護法 (194896年) に基づいて知的障害を理由に不妊手術を強いられたのは憲法違反だとして、宮城県内の60代の女性が、国に損害賠償を求めて来年1月に仙台地裁に提訴することが明らかになったそうだ。この法律の下で、同意がある約8,500件を含む約25,000件の不妊手術が全国で行われた。


中日新聞によると、旧優生保護法は、精神疾患や遺伝性疾患、ハンセン病などの男女に対し、人工妊娠中絶や本人の同意がない不妊手術を認めた。1996年に障害者差別に該当する条文が削除され、母体保護法に改定された。


この悪名高い旧優生保護法は、いったいどのようにして制定されたのだろうか。


ウィキペディアの「母体保護法」の項によると、1946年(昭和21年)410日に行われた戦後初の選挙である衆議院議員総選挙で当選した革新系の女性議員らは戦後の第1回国会において国民優生法案を提出した。日本社会党の福田昌子、加藤シズエといった革新系の政治家は母胎保護の観点から多産による女性への負担や母胎の死の危険もある流産の恐れがあると判断された時点での堕胎の選択肢の合法化を求めた。


ウィキペディアの「福田昌子」の項によると、福田昌子は社会党から福岡県第1区で立候補して衆議院議員総選挙に当選した1947年、優生保護法を自ら執筆し、同じ社会党議員であった、加藤シズエと太田典礼の3人で法案を提出した。


さらにウィキペディアによると、この法案を提出した加藤シズエは1919年に渡米し、産児調節運動を指導していたマーガレット・サンガーに出会った。1922年、帰国した加藤はサンガーを招いて、産児調節運動を日本に普及させた。


このマーガレット・サンガーこそ、プランド・ペアレントフッドの創立者であり、ナチスの考え方に影響を与えた人物である。プランド・ペアレントフッドは現在もアメリカ全土で妊娠中絶を実行しながら、過激な左翼の運動を支援している。


写真:加藤シズエとマーガレット・サンガー (ウィキペディア「加藤シズエ」より) 


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