　キエフの白い花

　生暖かい潮交じりの風が、格子扉をわずかにきしませ、白いカーテンを揺るがせている。かすかに頭痛がして、胸を打ち震わせる懐かしい映像が巡っていた。

・・傍らの人の透明な頬が白く眩しい。　ベッドに目を閉じて横たわるその姿は、生き生きと懐かしく光り輝いていたあの頃の姿とまるで変わらない。いや、これは現実からかけ離れた悪い夢の出来事だろう・・。そんな意地悪な夢なら、いつものように苦しんだ挙句、きっとすぐに覚めるだろう。そして、ほっと胸をなでるだろう。でなければ、この理不尽は、どうやったら天が準備し得るのだろう。願いがかない、やっとの思いで再び会えたのに、・・なぜ。　

　あの夜、帰国の便で感じ取った不穏な金属質のにおい。雪の教会での花嫁衣裳の少女。その表情は重く目に涙を浮かべている。広い草原にたたずむ一軒の家。そよぐ風はなぜか音が途切れている。そこに伏せるまばゆいばかりの人影。近いようで手を伸ばしても捉えきれぬ狂おしく愛おしい光。それは少しずつ自分から遠のいていく。
大丈夫、病はきっとよくなる。　自分の不徳を顧み、自分が身代わりになり、神がよこした何かの大きな試練さえ超えれば、１００に一つの幸運が得られ、元通りの幸せに戻り、これから先はずっといっしょにいられる・・。

悠は目を閉じるあの日の少女に、そして自分自身に、そう言い聞かせた。

　・・ふっと一息して瞼を開き力のない瞳が、誰かの姿を求め、一瞬不安げに周囲を見まわしたようだった。

そして、ベッドの傍らでひとりうつむく悠を見つけ安心したように微笑む。

白く細くなった腕をゆっくりと伸ばし、悠の頬の涙をぬぐった。

悠はそのまま黙ってその温かな腕を頬に抱いた。大学街の屋根裏部屋でふたりささやかな幸福に浸っていたあの頃と同じように。

世界は一方通行であり、先はやがて細くなり、その見えぬ先は固く冷たい石の壁に閉ざされているのだろうか。

この場限りの、血の通った愛するひとの、最後の命の温もりの感触だった。

　・・まるで同じシーンがあった気がする。しばらく前のことだ。

母親の由紀がベッドの前にひざまづく悠のこうべをなでていた。ひとことふたこと、やっと、力なく言葉を悠にかけながら。　長崎の聖堂のマリア像の前で、理解できぬ何ものかの重圧に怯える幼い悠を抱きしめ、いつかそうしたように・・。かすかな音を立てて窓の白い格子扉が風にきしんでいる。

人生の劇場に登場する掛け替えのない語り部が、またひとり、悠の手に届かぬところへといま離れていこうとしていた。

　すぐに疲れたようすで、そのまま少女は目を閉じた。涙に濡れる少し紅をさした頬に、悠は軽く口づけをして、ドアの内側に立てかけてあるギターを手にして部屋を出た。森で出会った日のエミーナはまだ少女の面影を残していた。

　その出会いの森をしばらく歩いた。あの日行き倒れになった悠が、細い少女の肩に頼りたどった道筋だった。途中、シダーの古株があり、そこに座ると大粒の涙が、しとしとと胸の前のギターの上にこぼれ落ちた。

　一人きりで、この世に取り残されることへの痛みを、再び受け入れねばならないのだろう。生きていく虚しさと苦しみが、エミーナを喜ばせる為だけの道具だったギターの旋律に込められ　森の中を響き渡り、涙に濡れる木の香りが悠の周囲を取り巻いていた。

　北国の陽も傾き、寒さの中、抜け殻のようにその場を動かない悠のからだの長い影が森の雪の上に伸びていた。小枝の上から、緑の小鳥が囁きかけている。
　恋人の前で、重い表情は見せたくなかった。
ここぞとばかり、いまひとりでしゃくりあげ涙は涸れることがなかった。
エミーナは、一人旅立つ自分のことより、あとに残される悠のことを気遣っていた。

“ 悠、今はもう一人ぼっちじゃない。・・これから先もずっと。
貴方の奏でてくれたその美しい音色は忘れない。
・・二人きりのクリスマス、あの日の聖堂のマリア様は、ずっとあなたを守ってくれるわ。

クラクフの街での貴方との素敵な思い出も・・。窓の向こうにいるいつかのあなたに声をかける。あなたは私に気づかない。そして幸せそうに大切な家族の待つ我が家へと帰っていく。いつも私はひとり待ちぼうけ。どれだけの長い年月が廻ったのでしょう。そしてやっと本当のあなたに再会できたの。でもやはり私の人生の舞台には引き寄せることはできなかった。遠い昔と同じ、何度かめのあなたとの出会い。今度はとても短かったけど・・。

いつか行った街はずれの寂しいホテル、覚えてる？　・・ Rond

時計は早送りで、多くの美しい人生の舞台を記憶にはぐくみながら、いつか静かに朽ちていく・・。あなたの国の美しい桜の花びらのように。

　・・悠、もう私のもとから去っていいのよ。

きっと、不思議な時のめぐりあわせだったのね。ささやかな神様の用意してくれたご縁・・。

　私は、きっとあなたに出会う為に再びこの世に生を受けた。やっと会えた。

・・嬉しかった。

ずっとあなたのこと見守って上げられなかったけど・・。

でも、こうして今眼の前にあなたを感じながら、いまふるさとへと旅立っていく。
　

　この蒼い草原で、私の小さな命の時計は止まるわ。・・悠、悲しまないで。
　　フフ・・私、貴方が素敵な黒い瞳の奥さんをもらっても恨まないわ。
いいの、いつか又・・きっとどこかで別の魂の出会いになって、あなたと再会できる・・。

　素敵な晩ね。　窓の向こうは透き通るようなキエフの空・・。
銀色に星が瞬いている。
・・私は、小さなあの青い星の瞬きになってあなたの幸せを祈っている・・。”

　微笑むエミーナの青白い頬に一筋の涙がこぼれ落ちている・・。
　
　

無題 Kiev

　・・それから何年もして、悠はエミーナの母親の一人住むキエフのその白い家を訪ねる。
’リザ’という名のその母親は、悠を強く抱きしめ迎え入れてくれた。　いつの間にか体は細くなり、エミーナに似た美しい横顔に刻まれた小さな皺は、その後の孤独の日々を物語っていた。

　若い頃に彼女の母であるもう一人の’Emina’という名の女性を捜し求め、パリのアトリエから南仏まで訪ね歩いた。

　かつての恋人の寝室はそのままだった。　小さなベッドの傍らには一輪の白い花がさしてあり、外に開け放たれた格子扉の窓から緑の季節の草原の風が注ぎ、遠慮気に小さな頭を揺らしている。　今は、ぽつんと清潔で寂しげな部屋になっている。　クラクフで過ごした日々、いつも悠の傍らにいた少女の髪の香りがどこからか悠の中に蘇っている。

　リザは、あの日のユウのギターをもう一度聴きたいという。
　今はこざっぱりと整って、温もりの失せた部屋の壁に、大小二つの額が並んでいた。
　小さな一枚は、悠がいつかクラクフ郊外のホテルRond前で撮った、まだ少女の面影の残るエミーナの写真だった。

　そしてその横の大きな一枚は、もう一人の、’Emina’という名の女性の絵だった。

パリのカフェで見たものと同じく、こちらは背景に青を基調とする、燃え上がるように今天空に跳びたたんとする白い妖精を思わせる。
　黄金色の聖なる光が渦を巻き、孤独な瞳を持つひとりの女を天へと導こうとしている・・。
　絵の下段には　　" Emina'1940　 Paris "と金色の手書き。そしてその下には小さくJanと署名してあった。

　この絵は、行方知らずだった母親の消息を遠い北国の大地まで知らせに来た黒いスーツの男が、腕に携えてきたものだという。　そして、母親の居場所を告げ、壁にこの絵を掛けてしばらく眺め、一言二言述べてそのまま立ち去って行ったという。　悠にとり、それらの肖像は、若い頃から課せられてきている’Dejavuの記憶の一つなのかもしれない。窓の外から風が注ぎ、花瓶に挿した”待雪草”の一輪の花が揺らいでいる。

　絵の前の椅子に腰掛け、悠は暫く目を閉じた後、ギターの弦をゆっくり爪弾き始める。
＂カッチーニのアベ・マリア”だった。

　どこまでも青いキエフの空、悠の繊細なギターの音色は空高く冷ややかで透明な空気の中に吸い込まれる。　
林の中で、いつかの日の小鳥達がさえずっている。
リザは、ギターの音色に窓から遠くの空に流れる一筋の雲をじっと見つめている

その瞼には、草原の向こう、あの日のままの娘の面影があったのだろう・・。

　”ユウ、娘はね、あなたに会えてとても幸せだった・・､て云っていたわ。
あの美しかった娘が、最後は可哀想なほどやせてしまったけど。

　髪に私が櫛を通してあげるとね、少しずつあのきれいな髪が抜け落ちるの・・。
でも､鏡に映った自分の姿をみて、あの子は笑ってこういったわ。

’　・・ママ、ユウには内緒よ。
私が聖フランシスコにひとり恋をして、
ユウに内緒で、天に仕える修道女になっていたなんてね・・。

　短い間の東欧での思い出・・。クラクフでの教会、真っ白な雪の中、私は花嫁衣裳の夢の中で悠と愛を誓ったの。　大好きだったお婆さまの心のありかを訪ねる旅の途上、
素敵な出会いを、お婆さまは自分が生まれ育った街で私に授けてくださったのよ・・。

　きっと、神の与え給うささやかな出会い・・、だったに違いない。
だからママ、不憫な娘だなんて、泣かないで。　・・私はとても幸せ。
悠と二人、おじいさんとおばあさんになるまで、小さな草原の家で一緒に暮らすのが
夢だった。
　それからね、悲しませるだけでママのために何もしてあがられなかったけど、ごめんなさい。
　こうして今、ママがそばに居てくれるのがとても嬉しい・・。
天の嘆きで、大きな災いが大地に降り注ぎ、私は小さな子羊として選ばれて召されるんだとおもうの。　パパも病に苦しむ気の毒な人たちのために尽くされた。・・誇りに思うわ。

　だから、そんな愛する両親に恵まれて、とても光栄よ、ママ。
　たとえ神様の用意した災厄だったとしても、誰も恨むひとはいないし、私に良くしてくれた誰もが、そして大地の生あるすべてのものが、今はいとおしいわ。
又、優しいパパの笑顔に会えるし・・。
・・さびしくはない。
でも、ユウはきっと純粋だから、私よりずっとずっと遠くで悲しんでる。　だから、ママ、
エミーナは不幸なんかじゃなく、ユウに出会えてとても幸せだったって、
そう伝えて・・。　’

・・けなげで優しい子だったわ。
　私の母が晩年、こんなふうに窓から草原の上に浮かぶ白い雲を見つめてね、
傍らで眠る小さな孫娘を抱きながら、時々、誰かを恋するような笑みを浮かべていたわ。
でも、その笑みは控えめで、どこか寂しそうだった。小さく年老いても美しい素顔。
きっと、私の知らない何処かで、この子と同じような寂しくても素敵な境遇があったんだろうと思う・・。
　娘は、幼い記憶の中にある私の母の、言葉をなくしたそんな控えめな笑顔が好きだったわ。
　母の満たされぬ愛を叶えてあげたくて、この子にその愛を託し、母から'Emina'という名をもらったのよ、ユウ。

　残り少ない命のともし火が消える前に、あなたが
自分のもとにやって来てくれることを祈ってね、エミーナは
ベッドから窓の外をいつも見ていたわ。’待雪草’の可憐な花。
あなたとの短くても大切な思い出の日々を胸に温めて・・、
　

　その白い花の向こうに、小さなあなたのかげが現れて、自分の名を呼んで手を振っているのを、力ない瞳の中でいつも夢見ていたの・・。　
窓際にゆっくりと流れる白い雲を見つめて微笑む幸せそうなその横顔。
なにかの美しい回想にふけるあの日の母の面影と同じだったわ・・。
ありがとう、ユウ・・。”

エミーナの声を聴くこともできなくなった今、悠はまたいつかの森の場所にきていた。ひとりになり、誰にも遠慮せず、絞り出すように慟哭する。　

　・・母がいなくなったあの夏の日。涙の枯れ果てた父・徹の姿を思い出した。その果てしない孤独をその日わかった気がしていた。

　夜の静寂の中、遠くに波のうち寄せる音が聞こえている。薄っすらと窓を揺らぐカーテンの向こう、おぼろげに銀の月のシルエットが映っている。

EMINA 無題 Kiev キエフの白い花

EMINA 　無題　Kiev 　キエフの白い花