モンマルトル

                        

 

                            

   

      

 

 ジャンは、 レンヌの街から東に向け街道を馬車で走り、一晩かけてパリに着いた。当初は学生らしく、カルチェラタンに住んだ。比較的裕福な地方貴族の出だった若者は、グランゼコールに籍を置き、優秀な成績で法学を学んでいた。

だが、幼少期から貴族の嗜みで身に着けていた絵画の才能が、あるサロンでのふとした出展を機に、当時の画家の大家の間で知られ、才能が次第に認められるようになっていく。遂には親の反対を押し切り、貴族の子弟として将来を約束された法律家や学者の道を放棄して、先の見えぬ芸術に生きていくことを決心していた。まだ当時ブドウ畑や風車の多い田舎だった’ビュット’(丘)と呼ばれるモンマルトルの見晴らしの良い斜面に、広い平屋の家を手に入れた。そこをアトリエにして、本格的にキャンバスの前に向かうようになっていた。その頃には、多くの浮浪者や貧乏文士や芸術家を集めてきた’マキ’と呼ばれるビュット(丘)のバラック建ての貧民窟も、徐々に解体され始めてiいた。

 19世紀半ば、産業革命で、銀行家と工業資本家がブルジョア貴族となり、地方から稼ぎを求めて人々が流入し、労働者として都市人口が膨れ上がっていく。彼らは資本家に搾取されて健康を害し、やがて解雇され生活できず浮浪者となり、パリの下層を形成していく。都市の一般市民からは、よそ者、落伍者として遠ざけられ、その昔のジプシーから名を取り、’ボヘミアン’(放浪者)などと呼ばれた。その後、戦争や都市の開発で間接税も上がり、コレラが流行するような当時のパリの不衛生な環境の中、極貧の生活を強いられる。そんな人々が、この’ビュット’(モンマルトルの丘)を目指し、集まって木の板材でバラックを建て住み着いたのが’マキ’だった。

 カルチェラタンのクローズドリラなどお気に入りのカフェに仲間とたむろしていた若い学生の頃、ひとりの’ボエーム’として、別の意味でのボヘミアン的な生き方にジャンも憧れていた。文化的に一般社会から外れ、プライドをもち、ほんとうの意味での’芸術(アート)’を目指す。他の若い’ボエーム’(芸術家の卵たち)と、時代と社会の矛盾に立ち向かい、シニカルに何らかの哲学的課題をもって芸術表現をする。一歩アトリエを出ると、仲間のアパートの屋根裏部屋に集っては自由で奔放な生活に明け暮れていた。皆で、街の居酒屋やカフェ・コンセール、ダンスホールに繰り出した。当然金も尽き、自分の描いた絵やポスターで、或いは自作の詩を朗読して飲み代にしたりもした。

 だが思うように芽が出ず、生活に困窮していく若者たちとともに暮らすうち、ジャンの芸術表現の目は、都市の路地裏や場末に向くようになる。そして誰もが避けて触れたがらない、きらびやかな大都市の恥部、文明の軋み、街の裏に這いつくように生きる人々の姿を追い、その情景をありのままに描く作風になっていた。

 かつてオスマン男爵のもとにパリの都市の大改造がなされていた。地区が整備され始めると、都心は家賃が上がり、自称芸術家’ボエーム’や労働者など貧しい者たちはここ’ビュット’モンマルトルの風車のある葡萄畑の丘に、先の’マキ’のごとく、今度は安アパルトマンを求め集まる様になっていた。そしていささかこのアトリエの辺りも物騒になっていた。

 が、産業革命以来の成り上がりブルジョア嫌いだった元来貴族気質のジャンには、程ほどの貧困生活も、若い頃の美術学校時代に充分慣れ親しんでおり、モンマルトルの’ボエーム’らしいひとりの絵描き暮らしも、まんざら居心地悪くもなかった。世は’ベル・エポック’、世紀末の古き良き時代でもあった。

1900年には第3回パリ万博が開催された。エッフェル塔が光に照らし出された。ピカソの絵もそこに出展され、日本館には’貞奴’の芝居一座も招かれ、再び日本ブームに沸き立った頃だった。ピカソも舞台で悲劇を演ずる貞奴のスケッチを残している。

 丘(ビュット)の一角には、詩人や絵描きの集まる老舗のキャバレーや居酒屋が数軒あった。ジャンは、当時’フレデ親爺’が取り仕切っていた’ラバン・アジル’という店によく出かけた。そこには顔なじみの詩人や絵描きや音楽家たちが、ワインの酔いも手伝ってかまびすしく、自らの芸術論を開陳させていた。作家フランシス・カルコ、詩人アンドレ・サルモンそしてマックス・ジャコブ。それにアポリネール・・。

 世紀末、あの紅い風車の’ムーラン・ルージュ’には、ジャンもデッサンによく出かけた。少し前まで、そこに通い詰めていたのがあのロートレックだった。

文学酒場’シャ・ノワール’(黒猫)を人気のシャンソン歌手のアリステッド・ブリュアンが買い取りキャバレー’ル・ミルリトン’を開いた。ロートレックはブリュアンの公演の絵を描き、店の宣伝誌’ル・ミルリトン’にポスターを載せた。ブリュアンは、娼婦やアル中患者、そして囚人などの世間の弱者や日陰者を主題に、詩を書いては、怒り、皮肉り、或いは物憂く語り掛けるように歌った。それらは画家により、シニカルで表情豊かな多くのポスターの絵になった。

 そのロートレックも、最後にはオペラ座近くのムーラン街の娼館で、人目を避け、まるで江戸末期の遊郭での歌麿の浮世絵のように、隔離され世間から遠ざけられるように生きる女たちを描いていた。世の知らぬ彼女たちの悲しみと孤独に寄り添った。 同様の苦しみの中、酒におぼれ、奇習奇癖を罵られ、体の不自由な自分自身を、女たちは初めて人らしく見てくれた。世の場末に生きる女たちへの共感、人間として美しさを彼は理解していた。

 ’ いつでもどこにでも、醜さには美という側面があるものだ。人の気づかぬ美を見出すのはこの上ない喜びさ・・。’ 

彼女たちのささやかな幸福の中に包まれるように、スケッチをしながら晩年の数年を過ごしていた。そのロートレックも、パリ万博の終わる頃には街を去り姿を見せなくなっていた。

 

 ラバン・アジルには、幾人かの芸術家に交じり、作家志望の黒い瞳をした若い美青年が時々姿を見せていた。まだリセ(高等学校の卒業資格)を取り立てのようだった。酒も強くなく、ワインですぐに顔を赤くしていた。店の常連たちは彼を歓迎して、純粋で温厚ゆえに皆に可愛がられていた。詩人や作家は、彼の才能の萌芽を感じとっていた。だが、ドイツとの争いが始まってしばらくすると、その’マリアー二’という名の青年はある日を境にぷつっと店には姿を見せなくなっていた。その日、言葉少な気に、穏やかな目で皆に別れの挨拶をしていた。誰にも別離の理由は告げていなかった。皆は心配したが、青年は自分の住所を皆に告げていなかった。

 

 1914年に始まった大戦も4年ほどで多くの犠牲を払っていま終わろうとしていた。店の常連のひとりで戦いに出征していた詩人のアポリネールが、スペインで負傷して、包帯で痛々しく頭を覆って戻ってきていた。

’ きみはひとりだ やがて朝が来る 牛乳配達が道で牛乳缶を響かせる

 きみは 焼けつくようなこのアルコールを飲む

 そして焼けつく酒のように飲まれていく 君の命 ’  (アポリネール詩 ’アルコール’より)

その後、彼もスペイン風邪にやられて、数年してこの世を去った。

恋人だったマリー・ローランサン、ピカソとオリビエ。 アトリエ’バトウー・ラボワール’(洗濯船)の住人の芸術家の面々も、居酒屋’ラバン・アジル’によく姿を見せていた。そんなときは、店のフレディ親爺が机の空にしたワインボトルの前で、ギターを抱え陽気に歌っていたものだった。彼は若い駆け出しの売れない芸術家たちの味方であり、理解者でもあった。そしてこの店の壁に、親爺の好意で立て掛けてあった新人画家ピカソの青の時代の作品や、孤独な青年ユトリロの絵も、少しずつ画壇でその価値が評価され、値が付き始めるころだった。

 

 かまびすしい芸術家仲間の陰に隠れるようにして、その頃ジャンは、一人の東洋人の姿を見かける様になっていた。狭い店の端の決まった席で、喧噪をよそに、一人黙々と酒を煽っている。ジャンは、どことなく孤独で厭世的なその風貌は、昔付き合った画塾アカデミー・ジュリアンの若いボヘミアンの芸術家やインテリ仲間たちの様子に通ずるものがあったので、臆することなく声をかけてみることにした。ロートレックもよく通っていた店’デイバン・ジャポネ’でも、一人寂しげな背で酒を飲む姿を一度見かけたことがあった。往年のジャポニズムにも興味があり、結局、声をかけたその日以来、今日まで男どうしの長い付き合いになった。彼はパリ大学の研究室にいるYuichi Yuasa;湯浅 祐一という名の日本人だった。それから既に10年以上の年月がたっていた。

 

祐一のひとり娘ジュリアを通じて、彼女の女友達エミーナを紹介されたのも、つい数年前のことだった。

ポーランド人の彼女はパリ大学で文学を学び、片わらジュリアを含む友人と、ブルジョアの金持ち達をまわって資金を集い、場末の貧民窟に食料や医薬品、衣裳を届けたり、子供たちには読み書きを教えたりする活動を続けていた。世界恐慌で、場末や大都市の路地裏に這いつくばって生きる下層の人々は、明日を生きられるかの極貧にあえいでいた。

ジャンは画塾アカデミー・ジュリアンで昔、若い頃に見たことのある、後に一世を風靡した美貌の画学生 マリー・パシュキルツエフの憂いのある横顔に、エミーナが何処か似ている気がしていた。

 

 ・・アトリエの窓からテーブルのコーヒーカップを片手に、エミーナは遠く霧の中、パープルブルーに照らし出されたエッフェル塔を呆然と見つめている。ジャンが絵筆をとっている横で、ユウイチが一服パイプをふかした。暖炉の火が頬を照らしだしている。ユウイチは語り始めた。

”・・古くから日本人は、’もののあわれ’という情感を持ち合わせている。

千数百年前の平安の時代、美しい宮廷文化が日本の京都の地に花開いた。そこに集う貴族たちの間に読まれた’光源氏の物語。そこに現われる言葉でね。

喜び、可笑しさ、美しさ、そして哀しみ、心の哀歓の情をその一言に込める。

 一見、完成された貴族の生活の優美に、まるで取り残されるように人々の心に留まる空しさと何ものかへの諦観。已むを得ざる生老病死・・。宮廷の門の外にある、末法の世の到来を想わせる争い、貧しく虐げられし人々・・。

時は循環し、一瞬の美を放つ桜の花にも、永遠はなく、散る時が来る。

季節は刻一刻と移り変わり、また咲く花の季節が巡る。その自然の変化の中でひとは、一人取り残されるように立ち止まり、今を生きていることを、思い知らされる。それ故に桜花はとりわけはかない憂愁の美しさを人々の心にうったえかけるんだ。

 背景に普遍的に’潜在’する哀しみの宿る現実をふまえ、人は喜びと裏返しの虚しさという心の投影を通して、そこに微やかな美学を見出すようになっていく。

わびしさと諦念があるがゆえに、そこに対照的に映るひと時の華やかさがより彩りを増す。

ある意味・・’滅び’の美学だ。

我々の伝統の芸術には、こうした世の無常観が漂っている。やがて都は平家の武士の時代になる。彼らも宮廷で同様の栄華を極め、そして世のひとの常で、やがて敵対する武家集団に都を追われ、海や山に一族散り散りになり滅亡していく・・。

 

’・・祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす、・・奢れるものも久しからず、唯春の夜の夢のごとし、猛きものもついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ・・。’

後の世に、旅の法師が琵琶(びわ)という楽器にのせ、この武家一族の盛衰を、悲壮な旋律で謳い語った・・。”

ユウイチは、’平家物語’の最初の一節を、フランス詩風に流ちょうに訳した。

 

ジャンは絵筆を下ろすと、ユウイチの言葉に聴き入っていた。しばらくして、エミーナにこういった。

”我らがパリの詩人ボードレールの’美’の定義。ひとつには何かへの’情熱’、またひとつには、ある種の’哀愁’・・。

ユウイチの国の古くからの世界観にどこか通じるのかも知れないね。

僕は、そんな退廃の世に咲いた一片の花の美しさを、いつか君をモデルに描いてみたい。今の君の微笑みの中に溢れ出る慈しみを、時を超える普遍的な愛の現れ、存在の絵物語として描き、この幾世代も先に縁をもつ人々に残したい・・。

でもそこには、ユウイチの言う’無常’、いつか来る限りない別離への悲しみと苦しみを自らに課さねばならない。そのうえで見えてくる、東洋でいう神秘的な美しさなのだろう・・。’

 

エミーナは眉を細め、ジャンに寄り添って言う。

”いいえ、ふたりはこれからいつまでも離れはしない・・。

あなたの愛を、永遠に、くすんだルージュのドライフラワーの薔薇の美しさに込める様にして、残してほしい・・。”

 

ジャンは、エミーナの肩を抱くと額にキスをした。

”・・ユウイチは、先の大戦で大事な息子さんを亡くしている。

細君も、苦しみと哀しみの果て、あっけなくユウイチの前から離れていった。

だけど、ユウイチの不幸は誰のせいでもない。世の争いごとは人を引き離す大きなきっかけにはなる。そこに大きな責任を問われ、かのダンテの神曲のごとく、あの世でも大きな責め苦を背負わねばならぬ者もあらわれよう。

 でも、生ある限りいつかは必ず誰もにおとずれる、大切なものとの別離だ。

それは神が与えたもうた宿命なんだろう。

我々の現実の奥にある’存在’そのものが、既に悲しみを持ち合わせているんだ。

我々はそれに翻弄され、その中で、どうそれを受け入れていくかに思い悩む。

ユウイチのくにの’あわれ’とは、そんな生の不条理を陰に受け入れることから生まれる、永劫なるものへの望郷の思いなんだ・・。”

 

”人は、何のために背を血に染めてまで、そんな重荷を負いいまを生きていくことを強いられるのかしら・・。”

エミーナがジャンの腕の中で囁(ささや)いた。

 

ユウイチはパイプをくゆらせ、暖炉の火を呆然と見つめている。やがて静かに言葉をつないだ。

”・・ここに来るまでにね、私は多くの愛する者との’別れ’にあっている。

幼いころから可愛がってくれた若い姉のと死別。そして思春期の母との別れ・・。

 

’濡れ染めし 袖に舞い散る徒(あだ)桜・・’

学生時代のうぬぼれと不遜な心掛けから、あっけなく恋人にも先立たれた。

さらに異郷の地では、最愛の息子を亡くし、妻を絶望の淵に追いやった。

どれもこれも、間違いなく自分の不徳、至らなさが招いたものなんだろう・・。

 

だが、どんなに神仏に祈り、禅寺に籠り打座に明け暮れ、あるいは世界の果てまで彷徨い歩き、世を疎んだところで、最後に出会うのは、抜け殻と化した情けない自分自身であり、どん底のような孤独と心の空白だ。・・ひとは愛の幻影を引きずり、遂には死ぬまで生きてゆかねばならないのか。愛は個ではなく、他があってこそ成立する。が、永遠に離れぬようどれほど心身を一体化したくても、それはこの世ではできぬものだ。

・・だが、それも執着なのかもしれない。

 

 むかしの日本の武士は常日頃から、死をも超克せんと努めた。’卑怯’を嫌い、そうしたおのれの臆病と意気地のなさを’恥’とした。武士は、一本の’刀’に、その自制的な’無’への覚悟を込めたんだろう。その危うく鋭利な美しさには、武士の澄み切った想いが映し出されている。

武士の子は、いつでもハラキリ(切腹)できるよう躾けられた。それ故に、守るべき’何か’の為に、自己の命をいつでも捧げることができる。その’何か’とは義であり、名誉であり、愛する者、また時として世に虐げられる者であったのだろう。誰もがもち合わす、そんな悲壮な命をかけた武士の魂ほど、誇らしく強いものもない。日本人の魂の中には、今もそんな醒めた心が眠っているのかもしれない。

 限りない修羅場を経て、辛さを超えて、自制的に死と面する境地に近づいていく。

いつのまにか、密かに不幸を背負いそれに耐えようとするひとに対し、敬意を払い、共感できる優しさをも持てるようになるものなのかもしれない・・。

辛い別離をあえて覚悟したうえでの、高次での己れの超克であり、敵をすら含むひとへの畏敬の念、そして慈しみのこころだったのだろう。様々な世俗の現象界の矛盾を、’無’の境地を悟ることで超え、静かな死への覚悟をもって内的な自己を超克、完成し、世界の真理に迫ること・・、それが誰もが共有する諦観の美学にまで行き着いたのだろう。

清明な、死をも恐れぬ覚悟ほど、気高く、怖いものも無い・・。

 

・・だが、生まれ遅れてきた私には、そんな祖先の魂の気高さは、望んでも得られなかったのかもしれない。

 

 ・・冬の夕陽を背に受け、渡り鳥は天から与えられた本能という名の宿命に沿うように、ただ生涯大空を果てし無く飛び続けねばならない。・・多くの仲間の中で、それぞれのもつ’空(くう)’という孤独だ。我々日本人はそんな姿に、静かにわが身を託し、花鳥風月に風情を感じ、能楽の静かな舞いの姿に何かを聴き取り、そして和歌の’わび’の情に想いを寄せてきた・・。

’無常の心’は、日本人の中に、この先永遠に生き続けるものなのかもしれない・・。”

 

 静かにそういい終わると、ユウイチは暗闇の中に隠れ、わずかに瞼に涙を潤ませている。

彼のこれまでの辛い人生が、そこに集約されていた。

エミーナはそっと身を寄せると、ユウイチの手を温かな両掌で包んだ。

 

白壁に暖炉の火が揺らぐのが映し出されている。

時々、薪のはぜる音に、永遠に続きそうな張りつめた静寂の不安が破られる。

窓から遠く、照明に照らし出されたエッフェル塔が、鋭利な月の下、霞のなかに見え隠れしている。