希 望

          

 

                 

 

 

   館 に て   

                
 “フリース、・・処分するんだ。”
 暖炉の火に照らされた寝台の上、青白い顔で唇から血を流して気を失っている女の姿が目に飛び込んできた。

 青年は、痩せた女のその大理石のように透き通った白い身体を、自分のコートで覆ってやった。まだ温かみのある柔らかなその身体を両腕で抱き上げると、壁に掛けられた裸婦像の額の絵をそっと一瞥して、無言で部屋から出て行った。 
 ’ Emina'1939  Paris ’

女は壁に掛けた肖像画の裸婦像と瓜二つだった。

絵の中の裸婦の周りには、なにがしかの情念の黄金色の炎が螺旋に取り巻いている。

 

フリースは東部戦線で負傷して、その後’感染症’の蔓延するこの施設に軍医として配属されていた。

ハイデルベルグ大学を出た、ゲーテの好きな文学青年だった。

 

 ここでは単調に、非人間性が日常的になりすぎて、人が人たる尊厳をも失っている。

フリースは、そんな人としての恥ずべき惰性に自分が染まりつつあるのに抗えなかった。

女が自分で噛み切った舌の裂傷を、ひとりで手術して手当てした。

・・女は生き延びた。 それでも衰弱し、病への抵抗力のなさから感染症を併発して美しい顔を腫らして、幾日も死地を彷徨った。 激しい痛みと高熱、そして幻覚と悪夢に怯えていた。

 

 時々意識が戻り、瞼を開くとおぼろげに、自分を見つめる見知らぬ白衣の青年の姿、そして時として物寂しい目で、窓から外の光景を呆然と見やるその横顔が見えた。

 ワイシャツのまま、本を抱えソファに寝そべり目を閉じている青年を、時々呆然と横目で見つめていた。女は青年がこまめにシーツを取り換えたベッドの上で、もう何週間も熱にうなされた。 

 医師らしい青年は、女を介抱して薬を点滴し、震える身体を擦って温め、ストーブで沸かしたお湯で身体の汗を拭ってやった。 か細い女の腕の脈をとりほっと一息すると、またソファでしばらく眠り、朝早く将校服を羽織りひとり部屋を出て行った。

 

 女は細い身体で奇跡的に一命を取り留めた。 まだ名も知らぬ青年の不思議な優しさを、眠りに落ちるたびに舞い戻る恐ろしい幻覚の中で、穏やかに感じ取っていた。


 柔らかい朝の陽ざしのなか、青年が微笑んで静かにたずねた。
 

 “君が、あの肖像の絵の人・・Emina かい?”
 

 心なしか気分がよくなっていた。 

 女はかすかに頷いて、細い腕を力なく伸ばすと、書くものを求めた。

 口が利けなかった。

 “どうして死なせてくれなかったのですか・・。
苦しみの中、愛する伴侶とも引き裂かれ、
虫けらのように死を待たねばならない日々・・。
理由は何であれ・・、人の尊厳すらいつか
どこかに失せてしまっている・・。いっそ、・・。
何の為の・・私の命?”


 青年は、温かな両手で女の力なく差し出された白い掌を包んだ。
 

“ Emina, ・・今は何も考えずに生きるんだ。
生き残ったあとに、ゆっくりと時間をかけて、その意味を問えばいい。


僕は、もう二度と後戻りの出来ぬ宿命を負ってしまっている。

どう足掻いたところで、この不幸を何千分の一も拭い去ることは出来まい。

僕は、君たちに課したこの禍の罪を、いつか購うことになる。

 エミーナ、神の計らいで君はこうして生き延びた。 

僕の今のこの’仮そめ’の命が消え果てた後も、ずっと君は生き続けるべきだ・・。 ”
 

 女は、何か言いたげだったが、再び意識が薄れていった。

 

 体調が徐々に回復する兆しが見え始めていた。数週間後のそんな或る深夜、フリースはある決意をして、衣服を着せた女の細い体を腕に抱き部屋を出た。 濃い霧の夜だった。

 

 

  

   夜 霧    西へ向けて

 

 女を抱いてそっと助手席に座らせると、女の体を毛布でさらに覆い、静かに車のアクセルを踏んだ。 将校用のその黒く光るベンツは、周りに悟られぬように主人を乗せたままゆっくりと動き始めた。 女は虚ろな目で後ろを振り返る。広大な施設だった。

  空には氷のような月明かり。 先ほどまでの雨に濡れ、月光にうっすらと照らし出された永遠に続くかと思われる壁と鉄条網に沿って、車は静かに滑らかに走りすぎた。

 女は男の腕にすがり、震えていた。
 鉄柵の遠く向こうに何かの煙突の火煙がぼんやりと見えた。

 魔の宴の匂いが夜霧に漂っていた。 ブロンドの髪を風になびかせて、青年は前方を見つめ無言でハンドルをきっていた。

 しばらく走った。やがてエミーナのほうを振り向くと、流れる風の中、わずかに微笑んでいる。そして、愛と自由の詩でもそらんじる様に語りかけた。

“ もう、ここまでくれば大丈夫だろう・・。

 

白き可憐な一輪の花、・・エミーナ。

君は香しき″希望”という名の花だ。
銀色の白き雪が野の水になるのをじっと待ち、

やがて来る黄金色の春を迎える為に

 ・・君は、生き続けねばならない。
さあ、エミーナ・・、もう君は、自由だ。”


 髪を疾風に流され男は女にそういうと、月明かりに黒光して映える愛車のアクセルをぐっと踏みこんだ。

それに答えて一瞬うなると、二人を乗せたまま生きた黒豹のように車は疾走し始めた・・。

 

 夜明け前、女は長く忘れかけていた何処までも連なる緑の森の樹々を見つめていた。

そっと身を寄せる女の腕は、男の腕を放そうとしなかった。

その青白い横顔は、男の知らぬ遠き記憶の日々の幻に囚われていた。

 女は、小声で何か囁(ささや)いたようだった・・。

 

 

 


  街道脇のホテルにて

 


 やがて、どこかの街の鐘楼の響きが遠く二人を迎えた。

早朝の薄もやの中、二人は街外れの湿った石畳を温かなランタンの灯の漏れる石造りのホテルの扉へと歩いた。女は腕をとり、不安げに男に寄り添っていた。 そこには、シックな金色の文字で、’hotel ROND’と記したプレートがある。 ドアノブをひねり、厚みのある大きな窓ガラスから、明るい光の漏れる固い扉を開ける。蝶番の軋しむ音がした。

 ホールは一面、穏やかなオレンジの灯に包まれていた。疲れ果てた様子の女の腕を取り、そっと暖かなソファに座らせ、心配しないよう目くばせすると、フリースは人のまばらなフロントに向かった。かすかに眩暈がして、眩しい光の中に、男が埋もれて消えていくような気がした。

 

 女は正面の大きな木製の柱時計をやっと見上げた。針は午前6時5分前をさしていた。

古くから多くの人々の人生の物語を見つめ、ゆっくりと時を刻み続けてきたのだろう。

厳かな低い歯車の響きが、静かな古いホールいっぱいにこだましていた。

 

 オレンジの心地よいランプの灯に照らし出される、何年振りかの、’塀’の外の自由な世界。そこに生きる人々の、無垢な笑顔だった。

 今のエミーナには、もはや自分にはふさわしくない場違いな世界にいる気がしていた。ブラウンの柔らかな皮のソファの上に掛けても、身が不安定に思われ落ち着けなかった。

ホテルのロビーを兼ねた 広いホールの端で、女は、そっと深呼吸をしてみた。

どこか懐かしい、暖かな暖炉の薪の燻る香りがした。パリのアトリエの日々を想い出した。ところは異なっても、時代を経た木造の建物に焼き付いた、同じ人の営みの薫りだった。

 かつて、平和な時代、あのあたたかな灯に照らされ、室内楽が流れる中、ダンスに興ずる人たちがいたんだろう・・。

 

 ほんのしばらく前まで身を横たえていた、木の板一枚の固いベッド。エミーナとともに、そこに言葉なく寝そべる人々・・。同じ檻の中に生きるカポ(監視)たち、灰色の番号で標識された弱者を見る冷たい目も、もうここにはなかった。

今の彼女には、そんな世界で生きる人々の無機質な目、その匂いや気配は、すぐに、遠くからでも敏感に肌で感じ取ることが出来た。・・ふと、一瞬何かの寒気を感じとった。

 ロビーの遠くに、光を背景に、黒の帽子とオーバーに身を包む男がこちらを向いて立っている。

氷のように冷たい視線が自分に注がれていた。・・忘れもしない、あの目だった。

女は、おさえても隠し切れぬほどに、突如体が震えだした。

そして、その冷たい視線に射止められるかのように、そのまなざしを外せぬまま、すくんでいた。ほんのしばらく前までの、いつもの慣れ切ったあの灰色の’無機質’の世界が、いま再び目の前に戻ってくるのを感じていた。

 女は、永遠に続くかと思われる辛い時の歯車にもはや疲れ、すでに諦め果てたかのように、ひとつため息を漏らすと、長いまつ毛の美しい目を悲しげに細め、うつむいた・・。

 

 

  黒衣の使者
 

柱時計が鐘を突き午前6時を告げていた。 

女の薄いコートを動かずじっと見つめる執拗な黒服の男の目であった。
その額(ひたい)には何かの傷跡が残っていた。決して忘れることのできぬ、あのいつかの氷のような笑みだった。 男が目の前に近づいていた。


 “ ・・ご婦人、以前お見かけしましたかな。

失礼だが、その美しい腕のグローブを外していただけますかな。”


 女は身体が凍てつき、蒼白の頬を引きつらせた。

男が女の華奢な腕からグローブを拭い取ると、そこには青く数字の刺青が彫られていた。


 男の氷のような目が、不穏にゆがんだ。
“ ああ・・、やはりお会いしてましたな。

 たしかスペイン国境で、著名な画家のご主人と一緒に・・。

失礼、私はルドルフ・クンツと申します。

 はっは・・、 もう、ご存知ですな。”

 

クンツと名乗る男は、胸から葉巻のケースを取り出すと、’失礼’といって、金色のライターで灯をつけて、宙に向け一服した。女は、この煙の臭いに、遠い昔の恐怖の記憶がよみがえっていた。

 

 ” 貴方の絵は・・、美しかった。 我々の基準からすると、いわば退廃的な作品でしたがね・・。

でもあの時は、総統の命で、フランス各地に’ナポレオン・ボナパルト’によって収奪された我らの帝国の芸術的資産を、合法的に回収する栄誉に預かりましてね。 

 私事ながら、学生時代に培った美への憧憬が、・・こんな形でむくわれるとは皮肉なものですね。

 そんな不穏な美の中にこそ、実は神々の息吹に触れることのできる神秘が隠されている。

 

 あなたとご主人の愛により結実した世にもまれな美の結晶は、人の魂を揺さぶらずにはいられなかった。霊的な幻の美しさを探し求めていた私にとっては、捨てがたい、天界から舞い降りたような高貴な輝きを放っていた・・。いや地の底の’ルシフェル’の冷たく妖しい閃光とでも呼んだ方がふさわしいのかもしれぬが・・。

 今後、時を超え、異界からの虹色の息吹を放つあの美しい絵は、数奇な運命をたどり、それを手にする人々の命すらも、秘められた光と闇の神々の意思に委ねられるよう運命づけられていくのが、私には見える・・。

人の世の、そしてその無数の魂の明暗が、あの絵の中のあなたの幻惑の瞳の物言わぬ声となり、それに触れる人々の心に照らし出されるだろう・・。

 

 確か、その一つは、貴方と伴に、あの’夜の霧’の館に私の指図で移してあったはずだが・・。

  そのあなたがどうしてここに・・。

 自由の身ということで?  ハッハッハ・・、まあいい。
 私の車の中でゆっくりとお話お伺いしましょう。 さあ、Mm. Emina、お供しましょう。”


 振り返ると、フリースはどこにもいなかった。

 女はいつもの、あの慣れ切った塀の中の、無表情な人形のような眼をした女に戻った。

 黒服の男に腕を挟まれ、もう一人の男の待つグレーの車に連れられていった。

外は、やはり暗闇のなか、霧があたりを覆っていた。

 冷たくかたい車の、後部座席に座ると、エミーナはそのまま気を失った・・。

 

 


 ふと我に返るとそこはどこか見知らぬ寝室のベッドの上だった。

少なくともあの住み慣れた’灰色’の場所ではなさそうだった。

シャワー室から人の気配がする。

女は傍らの果物に添えてあったナイフを手に取った。衝動的に、自分の刺青の彫られた腕を横一文字にグッサリと引き裂こうと思った。

でも、今は生きたかった・・。誰かの為に・・。

そのまま刃物を手にすると、女は浴室の扉に身を寄せた。

しばらくしてドアが開き、明かりを背にして細く長身の男の姿が現れた。
思わず女はナイフをその場にすべり落とした。 男は、女の顔を両手で引き寄せると、その震える唇にキスをした。 女は身体の力が抜けていった。


    ” さあEmina, もう怖がらなくていい・・。”