EMINA  時を越えた4つの絵物語   悠 青春Ⅱ

 
                                            
                                         


 

 

 当時、年間ほんの数万円ですんだ文系の国立大学の学費と家賃は、海外からの父親の仕送りの口座に頼った。 入学初年度の夏と次の春の長期休暇には、若き日のゲバラに及ばぬが、取り敢えず貧乏旅行を決行した。その為の資金を、週数回の夜間の道路工事の肉体労働で貯めた。危うく死に損ねた過酷な旅に向けての体力をも同時に養うこともできた。

大学2年生になった。その後も深夜のアルバイトは続き、おかげで昼間の大学の授業は心地よく眠れた。

"おい、そこの・・気持ちよさそうな音を立てている奴・・。外の中庭で寝てきなさい。天気もいい・・。"

 かくして、時々いびきをかいては教室をつまみ出されたりもした。悠をよく知る教官はそんな若者の無邪気というか、無軌道な、何かへの情熱、無鉄砲さをほほえましく思い、生身の若者の旅の話を教室で話させては楽しんでいた。そして時々、そんな若者に向けて様々な問題提起をしてきた。

 "で、・・・君はそれを見てどう感じ、その後どう行動しようとした?

そのまだ未熟で、何も蓄えのない風通しのよさそうな頭で、・その背景をどう君は理解している?
恵まれた学生の身分で、教室での昼寝同様、ただ傍で呆然とそうやって見ていただけかい・・?"
"・・・。"と、悠・・。
 問われた質問の本質もつかめずに返答できず、だだっ広い教室の一番後ろの席で’木偶(でく)の坊’のように突っ立って、皆の視線の中、くだんの教官の前で、ただ手も足も出せずにいた。確かに自分には、旅先で精一杯の親切をしてくれる人々の置かれた日々の過酷な状況すら理解できず、由来のわからぬ不幸に同情することしかできていなかった。

孤児ナディのこと、そして東欧で命を救ってくれた少女の背負った歴史の重みが、今はこの若者の心の楔(くさび)となってもいた。

 悠はその背景を把握するため、関連する本を後ほど教官に教えてもらって、図書館で探して読んでみた。本を買う金はあまり無かった。教官は、ああ、これあげるから大事にしなさい・・。などといって貴重な絶版本などをこともなげに、少しは純粋で見込みのありそうなこの若者に手渡してくれることもあった。

" 取りあえず、試験までには帰ってくるんだぞ。だが、私の授業の単位は君の旅先でのレポートだ。何かテーマを決めてそれに沿って体験をまとめてきなさい。君のような変わり者は学校に出るより、外に出て行って学んだほうがよっぽどいい。

 理屈やイデオロギーを超えたところで、人の魂に訴えかける生きた映像をその頭の中の隙間に写し取ってきなさい。誰のものでもない、未熟ながら君自身の感性と、DNAに刻まれた日本人の記憶をフィルターにした、たった一つのオリジナルな映像だ。それに君なりのエッセイを加えればいい。それが、人の心を惹きつける、稀有で魅力的な光を放っているかどうかだ。

・・ま、将来は物になるかどうかはわからないが。 ハッハッハ・・。"

 若い悠には、この白髪混じりの教授は不思議な魅力を持つ人だった。いつもの教室での大胆不敵な昼寝のお説教に、教授室に引き留められることが度々あった。でも、なぜかお茶付きで、話は延々とどこまでも広がり、人生論や海外の歴史や文化、文学などの多岐にわたる話題をまるで個人授業であるかのように疲れを知らず聴かせてくれた。そして最後に彼は、自分の若かりし旧制高校時代の話を聞かせてくれた。

” ・・・、今の君たちはある意味、不幸だ。 我々の若かった頃のような、貧しくはあっても、場合によりあの波瀾に満ちた刺激的な日々を君たちは知ることもできない。あの同じような学制を今の世で若者の間に復興させることは望ましくとももう難しいだろう。 古き良き時代、貧しくとも、世は不穏でも、隔離された恵まれた環境で、汚い寮生活だったが、文学、哲学に純粋に没頭でき、友愛と青春の日々はセンチメンタルでもあり、この上なく美しかった。

 今の純な君のように、メッツェン(乙女)にリーベ(恋す)ることも、全身全霊だったよ。

戦争による出陣の空気が迫っていて、命はどうなるかもわからなかった。そんな中、仲間は皆、寮といういう空間を大切にして、自由と自立、そして我々が縁あって受け継いだ日本の誇るべき文化伝統を尊んだ。

よく巷に揶揄(やゆ)される軍国主義や、戦後の植民地政策以来、思想的に脚色された自虐史観とは異なる世界観を、誰もが周知のものとしていた。自分の生まれた国と民族を誇り、家族を大切に考えた。海外の新しい思潮と動向を学んで世界を眺め、同時に自国の置かれた外圧による脅威を認識し、自分にもできることを各々が夢想したもんだ。

道義に悖(もと)るおこない、’卑怯’と、いつの時代も同じだが権威主義と金権政治を’恥’ずべきものとして憎んだ。次の日本をになって生きていくことへの自負を持ち、この国のあるべき姿を皆で考え議論もした。 いわば、方向性を無くした世俗への思考実験的な浄化装置としても機能していたのかもしれない。我々の寮生活は、それらを純粋培養できる特異な空間だった。最近の世界市民のゲバルト左翼とは違った、明治期まで残されていた日本の武士道の静かな矜持をも持ち合わせていたよ・・。

 

 ・・ハハ、だから君みたいなのは、外に出るに限る。・・風通しの良い空虚な頭も、いずれいつかは満たされるだろう。

何が待ち構えていようとも、いまは見聞し、そして思索することだ。とりあえずはモラトリアムの身分だ。今は、その若さだけが・・何よりの特権だ。

貧乏旅行の次は小留学して、少し時間をかけてその地の歴史と異文化に触れてきなさい。日本人としての’アイデンティテー’に改めて目覚めるだろう。世の現実や悲哀をしっかりその目に焼き付けて帰ってくるとよい。 ・・考えるのはそれからでもいい。”

 

 そんな風に、その教授は自分自身の若い日々を懐かしむように、”出家とその弟子”など、昔読んだ数冊の本を悠に渡した。そして戦後間もなく日本でも出版されたドイツのレマルクの小説’凱旋門’もそれらの内の一冊だった・・。そしてそれを手にを取って、こう付け加えた。

 ”・・君に、作家の描くこの二段仕立ての美しき’虚構’が読み取れるかどうかだ。

 ・・お手並み拝見、といこうか。”

 悠は、とりあえず有難くその気持ちを受け取った。 欧州で青春の日々を過ごした自分の両親、そして旅客機で出会ったプラハに住むというあの紳士のように、この穏やかな老教授は、若い頃、廃止間際の旧制高等学校で過ごし、そして旧制帝大へと進み、海外を遊学、ひとり広い世界を旅して自由に思索し、哲学したんだろう・・。 などと、悠は若い頭でひとり想像した。そのうえで自分の無謀な旅の顛末をも何とか美しく正当化し、納得しようとこころみた。

 

 アルバイトの後の残りの時間は、裸電球の下、せんべい布団の中で汗と泥にまみれたまま、もらった本を読んでみようと試みてはみた。感謝しながらも若者には、なかでも古書や専門書はいい睡眠導入剤の価値しかなく、毎晩ほんの少し読み進めては、ありがたく枕にしてぐっすり眠った。夢の中、頭に染み入るようで、少しは旧制高校時代の学生の粋(いき)と青春の情熱の何たるかを体験したような気分になった。深夜のバイトで銭湯にも間に合わず、大学のどこかのサークルのシャワー室を借りて、石鹸を持参して身体の汚れを落とした。そして広い大学の中庭の芝生に寝転んでは、昨夜の本の残りを読んだ。教授の研究室での貴重な個人レクチャー同様、悠にとり心地よい陽の下での青空教室だった。

 

 でも、それ以来、悠の読書欲はなぜか旺盛になり、やはり階段教室の一番後ろの席に陣取り、静かに何かに夢中になっているかと思えば、授業のテキストでない何かの本だった。

ジャンルは、開発経済から東欧の文学、西洋史、かなりきわどいクラシカルな欧州の恋愛本にいたるまで、何でも読んだ。中でも若い悠にとっては最後のが、やはり最も若い情熱をかき立てたが、その類の本の、教室での読書は先の教授への遠慮から、とりあえず控えておいた。だが、時として悠はそこに、これまで目にしたことのない近世ヨーロッパの高尚な哲学、芸術性らしきものを発見することもあった。それに、そこには、恋する場面でも実用的な、豊かな文学的隠喩がちりばめられていたからであった。

悠はいつか、母親の由紀自身のある若かりし日のパリでのエピソードを聞かされてから、文庫本を持ち歩いては江戸期の近松門左衛門の作品も読み始めていた。どこか心地よい韻をふむ美しい戯曲だった。そしてそれ以来、森鴎外の’舞姫’など、どこか格調高い近現代の作家の文体にも惹かれ読むようになっていた。

 方向性がないが、どこか夢想的なロマンテイシズムに取り付かれたような、純粋そうで孤独の影を漂わしている。その若者の優しい目に、思いを寄せる女子学生が周囲にちらほらと現れては消えていった。 だが、あの日以来、悠の中には東欧に残したエミーナだけしかいなかった。  

健康的な美しさを持つ理知的な日本の女子学生が、それらしい想いを込めた眼差しで悠に近づいてきても、彼女を傷つけない様に、いまの悠にはそっとその娘の情熱の矛先をそらすしかなかった。 

そんな贅沢な身分でもあった・・。

 


  
                  

 

  

                 
 1985年 春、2度目の海外旅行にあわただしくエミーナと東欧で過ごした悠は、異国気分の抜けきらぬまま日本に戻り、しばらく先の東欧留学の心の準備と、夜のいつものアルバイトで資金の確保に努めた。

先ほどの教授の勧めもあり、日本の大学を休学して、クラクフの大学に短期で単位留学するつもりだった。その為の事務局との相談にも通い、語学のテストも受けてスコアも稼いだ。留学と生活費の一部は、東欧にいる父親の徹を手紙で何とか説得して、無事承諾され、援助を受けることになっていた。父親の勤務地とも、列車で数日で行ける距離だった。

 

 涙ぐましいほどの揺ぎなき青年の決意だった。大学では今度はロシア語の文法書と辞書片手に、エミーナに手紙を書いた。情感を込めて恋文を書こうとすると、自ずと高尚で洒落た文句を模索せざるを得ない。こうして若者は、凝った言い回しを数時間、深夜の下宿の机の前でひとり辞書と格闘しながら蓄積するうち、少しずつそれなりに味のある外国語をひとつ習得していった。
 いつかのように、エミーナの耳元でそっとささやけるような詩も覚えた。

 

 大学の授業の最後列で珍しく昼寝もせずに、辞書片手にペンを舐めては、講義の板書を見る代わりに、宙を見上げては、なにやら神妙な顔で考え込んだかと思うと、直ぐに又一人にやけて机に顔を沈める。 理由も無く、階段教室の最後列で宙を見上げては夢想に呆(ほう)けている男の姿は、くだんの昼寝する姿同様、演壇からはよく目立つ・・。

 "おい、そこで何やら嬉しそうにしているやつ・・。また、お前か。
何か、講義の内容に格別の関心か、それとも大胆に無視するだけの大した理由があるのかな。
・・見上げた根性だ。 まあいい、後でまた教授室に来なさい。"
 
 かくしてまたしても呼びだされ、別室でしっかり絞られることもあった。 唯、ほとんど授業の内容は上の空で、要するに’恋に盲目’で周囲が目に入らないだけで、恐れ多くも悠に取り門外漢の、この愛すべき教授の講義に、格別の興味や異論などあろうはずも無かった。

 ぎっしりと便箋に暗号のように書き込まれたスラブ文字の恋文も時々未完のまま、押収された。その熱き思いを込めた秘密の暗号文も、幸い諦め顔で微笑まれただけで、教授にも専門外で解読されることも無かったが・・。 

 素朴な青年の言動が、臆せず、意外と未熟なりに着眼点も鋭く、期せずして社会や文化構造の課題をも浮き彫りにしている。父親譲りであった。悪意はないが、場所をもわきまえぬ野放図さがその純粋さゆえ面白がられた。話が長引き、教授室で助手たちとまたお茶をごちそうになり、大いに応援され、ついでに恋の参考図書まで賜って帰ってくることもあった。そして短期の留学のためのアドバイスや手続きも研究室で経験のある院生に有難く教えてもらった。

 やがて、紹介された東欧の作家の小説や、現地の新聞をも読むようになっていた。左翼の党の独特な政治的言い回しはわかりにくかった。誰もが理解できる言葉にしてほしいと悠は思った。目下、中道ノンポリティカルな、恋する若者の論理であった。

 この頃、東欧ポーランドでは、ワレサの率いる連帯など自主管理労組が組織され、社会主義体制下でも党の支配の及ばない領域が存在することが多くなった。対外債務の圧迫で経済状況が悪化し、ソ連の軍事介入も懸念される中、結局、軍人出身の首相ヤルゼルスキが戒厳令を敷き、ワレサは逮捕され連帯は非合法化された。再度、国内に反動の嵐が吹き始めていた。悠はそんな政情不安な場所に向け、留学を望み、何の因果か恋文を送ろうとしていた。

 


 
 ・・てんやわんやのあわただしい学生時代から遡ること5年、ほんの高校生の頃のことだった。 悠は、青春真っ只中、入部したての柔道部のしごきのような練習を終えて、夕餉の支度をする母の横でテーブルに新聞を広げ、睡魔と闘いながら夢見心地に記事を追っていた。 悠が誕生する前、若い父と母が静かに時を過ごした土地だった。やがて悠が生まれ、両親は悠を連れ日本に戻った。
 疲れで朦朧とする半開きの悠の眼に、外電の大見出しの写真入の記事が飛び込んできた。
   

 1981年5月13日、ローマ法王ヨハネパウロ2世が
トルコ人青年メフメッド・アリ・アグカに狙撃され重傷を負う・・。

 悠はこのポーランド人の法王が何故かヒーローのようで気に入っていた。
 1年前、ローマ法王からブレジネフ書記長に宛てた書簡の中で、

”もし、ソ連によるポーランド侵攻が強行されれば、私は聖ペテロの冠を外し、教皇の座を投げ打って、自国に戻りレジスタンスを指揮するつもりでいる・・。”とそう書き送っていた。

 母親の読みさしたいつもの新聞の記事で知った。この取りようによっては’勧善懲悪’の名言は、悠の未熟な頭にもわかりやすかった。 ポーランドでは反政府運動″連帯”の活動がその頃活発化し、侵攻をうかがうソ連との動向が注目されていた。

 

 

 

  母の想いで  1968 春
 

 ふと眠気眼で見上げると、母の由紀が悠の肩に手を置いて微笑み、後ろから記事をのぞき込んでいる。その背後の壁に、むかし外国で母の描いた絵があった。どこかのカフェのテラスの前で、黒い盾と制服に身を包んだ軍隊らしき集団と多くの人々がもみ合っている。その真ん中あたりに何か場違いに黒いシルクハットをかぶった男性が印象深い眼差しでこちらを見据えて立っている。喧噪のさなかのはずが、何故か時を忘れたような静寂が漂っている。あの人物は若き日の父 徹だろうか・・。悠は以前から不思議に思っていた。

 

”ねえ、お母さん、あれは何の絵なの・・?”

母の由紀は、背後の絵を振り返り、しばらく黙って見つめていた。

白いうなじにきれいな黒のほつれ毛がこぼれた。細くなった母の横顔が微笑んだ。


 ″早いものね。あなたもそんな記事に関心を持つ年齢になったのね・・。

悠もそのうち若い頃のお父さんのように、夢見るように世界中を駆け回る時が来るのかもね・・。  あれはね、昔パリであった5月の暴動の日を描いた作品よ。

 

 いつも髭ずらで黒のサングラスの似合うダンデイなお父さんのあとを、その腕にぶら下がって、ついて回った若いあの頃が懐かしいわ・・。 

 世界中で何かの若い変革のエネルギーが満ち溢れていた頃、パリに留学中のお父さんと出会い、ふたりで時々大学の集会やデモにも参加したの。

3月頃かしら、メトロでパリの郊外の当時開校間もなかったナンテールの大学まで出かけて、その頃注目されていた”赤毛のダニー”という愛称のコーン・ベンデイットという弁の立つ陽気な学生の演説を聞きにね。そこで若い人たちと議論したり、自主上映の映画を見たりもしたわ。

 それが、五月のあの絵の大規模な騒ぎに連なる、最初の学生運動のきっかけだったみたい。パリ郊外のナンテールの大学の周りは生活に追われた労働者の住宅区で殺風景で何もなかった。 中でも、独立間もないアルジェリアからの出稼ぎ労働者の貧民区がまだ残っていて、人種的な差別があって彼らの目はすさんでいたわ。

 理想だけを唱え、聞きかじりの哲学でインテリ気取りの恵まれた家庭の若い学生たち。

それに比べて、現実の苦しい歴史を背負ってきた海峡を隔てたフランス旧植民地の人々とは、異国人の私たちが見ると、やはりどこかかみ合わないものがあったわ。たとえ未熟で純粋な若者が、何かの変革と自由を訴えたとしてもね。 過去の長いアルジェリアの反乱では、既に現地人の100万人もの犠牲者が出ていた。

 

 美術学校では、生徒たちが学校を占拠したわ。そして”人民のアトリエ”といって、芸術家と共同制作でいろんなポスターやビラを刷ったりした。皆に混じって、私も少しは粋なポスター作りをしたわ。 そしてその後の多くの学生たちによるパリオデオン座の占拠。

 大学の壁にはちょっと粋な落書きがされていた。 

”夢は現実”、 ”幸福の永久状態を宣言する”、

”私たちが欲しいのは野生的で一日限りの音楽・・”  なんてパリの学生らしい標語を大きく掲げたりしてね。 

 

”禁じることを禁じる、自由を侵すことを禁じて初めて自由が始まる”

当時の有名なセリフ。

 

 街角の壁にも、

”恋をするほど革命がしたい、革命をすれば恋をしたくなる・・”

 

”石畳の下は砂浜だ” 

 

”怒れ、警棒の雨、育つのは無関心・・”

 

 従来からの権威や伝統、規則に対する反抗。そして世界の帝国主義的覇権国の暴力を打ち破ろうという主張を掲げ、反戦的な強いエネルギーが若い学生たちを突き動かしていた。

 

 しばらく前に、反乱の激しくなっていた植民地アルジェリアへの強硬策を期待して再選された高齢ドゴール将軍の政府は、現地のフランス系富裕層・コロンの期待を裏切って、軍費の漏出していた長年の泥沼化したアルジェリア戦争を、自ら終息させようとしたの。その後、現地に残っていた独立反対派から恨まれ、彼は暗殺されそうになったわ。

 

 68年の学生暴動は、やっとフランス国内の経済が好景気になってきた矢先だった。

すでにフランスインドシナ植民地の独立を経験していたこの老獪の国家指導者は、独立を成し遂げようとする現地人の結束の力強さを既に十分に経験済みだった。だから泥沼のアルジェリアの反乱でも、現地のフランス系移民富裕層の期待に反して、再選後こともあろうドゴールは、その大きなお荷物をさっさと手放して早期解決を図ろうとしたわけ・・。

 だから彼にとって、革命騒ぎはもううんざりで、さっさとおしまいにしようと考えていたのかもね。

 物価上昇で、低所得層のひとたちの暮らし向きが厳しくなっていたところに、そんな左寄りで無政府主義的な青いお尻の半人前の若者たちが、火に油を注ぐように労働運動を背後から焚き付けて、当然のことながら彼も苦々しく思っていたようね。 あの対ナチス・レジスタンスの英雄だった老獪な将軍も、しぶしぶ労働者たちの賃上げは認めても、学生たちの地に足のつかぬ理想主義、或いはバックにいる他国や無政府主義者の扇動とでも考えない限り理解できぬ若者たちの変革の主張に、耳を貸そうとはしなかったわ・・。

それより、その先拡大する内乱状態で、自らに託されたこのフランスが崩壊するのを恐れた。

それでその後、6月には民意を問うため、総選挙にでた。

結局、そこでドゴールが勝利して、それ以来、学生たちの運動の盛り上がりに終止符が打たれるの。例の運動の主導者ナンテール校の”赤毛のダニー” 我らがコーン・ベンデイットは国外追放になる・・。

 

 その騒ぎの盛り上がりのピークに達していた5月頃には、遂には、100万規模のデモが起きるまでになり、運動の拡大と暴走を食い止めるため、ドゴールの政府は共和国機動部隊(CRS)を組織したの。

学生たちはナチスの親衛隊をもじって”CR・SS”と呼んだわ。

 そんな学生たちの体制への不満は、私たちも若かったし、共感するところは多くあったわ。・・でも、やはり私たちは日本政府に守られたパスポートを持つ異国人、少し気持ちを抑えて距離を置かざるを得なかった。

 旧宗主国フランスからアメリカに引き継いだベトナム戦争のナパーム弾による無差別殺戮の残忍さや、かつてのアルジェリア戦争でのフランス軍の植民地での人を人とも思わぬ暴挙にも憤りを覚えていたから、自分と同じ学生たちの反戦への真摯さにおおいに共鳴もしたけれど・・。

 

’あの日本の民間人無差別爆撃の次は、ベトナムか・・’

と、徹さんは言っていた。

 

 その頃、ちょうど日本の文楽がパリで公演されていてね。

近松の”曽根崎心中”だったかな。石畳を歩き二人でみに行ったの。

懐かしいふるさと、古くからの日本人の心を、あの三味線の音色が詠っていたわ。

 ’・・恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音。’

醤油屋の徳兵衛と遊女お初が悲恋の末、已むを得ざるあの世への道行きを選ぶ。・・現生の延長にいつか死別せねばならぬ日が来る。ならば、今の恋人同士の絆を保ったままともに冥土へと。遊女お初は何を願ってか、四国観世音巡礼の旅にでていたの。俗世の事件のからみで、徳兵衛は死をもって身の潔白をはらさざるを得ぬ身の上、お初は得心し、ふたりは永遠の恋を貫くため一緒の死を選ぶ。それが’心中道行き’。

’七つの時が六つなりて、残るが一つ今生の、鐘の響きのきき納め。寂滅為楽と響くなり’

’鐘ばかりかは草も木も、空も名残と見上ぐれば、雲心なき水のおと、北斗はさえて影うつる星の妹背の天の川。・・ちぎりていつまでも我とそなたは女夫星。’

 ’・・未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり。’

観音様が恋する彼らを菩提 悟りの道へと導いてくださるの・・。

私は、幼いころから体が弱くて、生きることの不安の中で、日一日を過ごしてきた。

大自然の中に溶け込むような境地で死への道行きを歩む二人を、どこか美しく感じたもの・・。

なんだか涙が流れてきてね。あなたにも、いつかわかる日が来るでしょうけど、形はどうあれ、’愛’とは’過酷な約束事’なの・・。時は永遠にめぐりゆき、愛が節目になる・・。 私たち日本人に秘めた感性だと思ったわ。

 

 それがね、パリのひとたちにも受け入れられ、とても好評だったの。かつて江戸期の北斎や広重の浮世絵が、当時パリにジャポニズムの熱狂をもたらしたようにね。

そんなとき、ふと、いつも徹さんといくモンマルトルのカフェ’パサージュ’絵を思い出したの。西洋の女性を描いたものだけど、どこか聖母というよりは身近な観世音の表情にあるような温かな命の宿る雰囲気を秘めている。私たち日本人のもって生まれた感性にも通じるそんな深い情念が伝わってくる・・。

 

 あの哲学者のサルトルも、当時学生たちを擁護していた。’アンガシュマン’といってね。既に亡くなっていたアルジェの作家のカミュの’不条理’の沈黙・・。 学生に交じって、知識人の間でも哲学的な論争が繰り広げられていた。

その日私たち二人がいたのも、むかしサルトルが妻のボーヴオワールとよく来ていたという’カフェ・ド・フロール’だったの。あの絵にあるカフェ・・。

 

 今から思うとね、私たちが居合わせた パリの’5月革命’は自由に向けての世紀の’お祭り’だった気がする。身分や国籍、年齢・性別を超えて、堅苦しくなくファッションもまちまちの皆が一緒になって、自由にそれぞれの立場で議論しあった。議題は広範・・。

でも、権力側がそれをひっくるめて、暴力で押しつぶそうとしてね。

 政治家は自由な話し合いを装って、いつも通りの代わり映えのしない理屈で学生や労働者たちに対応していた。話し合いはコーン・ベンデイットなどの明らかに若い学生のほうに分があったわ。

徹さんと若かった私も、日本人として、自分の国の今おかれた地政学的な位置、そして歴史、文化を背景に、パリでのあの燃えるような日々を伴に過ごし、自分たちの視点で考えたわ。”

 

由紀は、懐かしそうに遠い青春の日々の話に夢中になっていた。

 

 ”煙突の煙舞うパリの屋根の下・・といった、どこかロマンチックなだけの’ふたりのパリ’じゃなさそうだね・・。

何かきな臭い空気のなかで、父さんと母さんは、異国の春を過ごしたみたいだ。”

悠は、生意気に口を挟むと、由紀は悠の頭を撫でて微笑んだ。

 

” 徹(とおる)さんが、いつかこんなことを言っていたわ・・。

 ・・第2次大戦を契機に、かつての植民地だった多くの国に独立運動の機運が盛り上がった。

それは、遠く離れた小さな島国の黄色い肌の小柄な日本の軍隊が、ヨーロッパの宗主国から搾取されていたアジアの植民地を縦断するように南下してひっかき回して、抵抗する意欲も力もなかった現地の人々の目を覚まさせる”火種”をまいていたんだ・・。まさに彼ら偉大な欧州文明国にとり日本は’黄禍’だったんだと。

 植民地からの富で美しく壮麗な文明の街並みを築き、潤ってきた欧州の列強諸国は、ずいぶん余計なことをしてくれたものだと、この極東の端の島国の民族を憎々しく思ったことだろう。そうでなければ、国際法違反の米国による民間人の婦女子をも巻き込む焼夷弾(しょういだん)によるせん滅的な都市空爆や、2度までの残虐非道な原爆投下など、無差別大量殺戮をたとえ同盟国とはいえ、’人’として’黙認’はできまい・・。

だから、今頃になって、あの戦中戦後のアジアでの’抵抗’の余波が巡り巡り、遠くこのアルジェリアの独立にまで影を落としているのかもしれない、ってね・・。

 

 戦争に負けても、同朋を失った戦地南アジアを離れず、自らの意志で現地住民の独立運動のために身をささげた旧日本軍の兵隊さんたちが多くいたらしい・・。もちろん中には共通の仇敵に負けを認めたくない人たちもいたと思う。

 自ら志願して黙って特攻で南洋の海に散っていった若い人たちの心の内と、敗戦してなお、誰に強制されるでもなく、自分の為でない何かの”義”のため、差別と搾取から地元住民の独立運動に身をささげた人たちの心の内は、日本人であれば黙しても同じ魂なんだって・・。そう信じている、って・・。

 

 彼は遠い東の空のかなたを見て、そう言っていた・・。

私も黙って彼の話に耳を傾けていたわ。無性に涙がこぼれてきていた。

私たちの世代は、まだ先の戦争の傷を誰もが残しているの・・。”

 

”・・・。”  悠は茫然と宙を見つめた。悠の知らぬ祖父は、特攻で南洋に散っていた。

 

 由紀は、そんな悠の想いを察してか、そっと微笑むと話を続けた。

 ” でも、いつもそんな胸苦しい話ばかりしていたわけでないのよ。 ソルボンヌで映画委員会ができてから、政治的なものから、ヌーベルバーグの若い監督の手掛けた当時の映画もたくさん二人で見たりもしたわ。 

徹さんのお供で、デッサンに美術館を巡り、枯葉舞う石畳の坂の通りを二人一緒によく歩いた。

 徹さんは黙って、いつも青白い顔をして異郷の地で不安そうにしている私のそばにいてくれたわ。 ずっとそれまで一人孤独に生きてきて、そんな風になってしまっていた私のことを、気遣ってくれていた。時々空しそうに宙を見つめる私をそっと腕に抱き寄せたりしてね・・。

 本当の幸せってこんなことなんだと思ったわ。 信じ愛し合える人と、ともに一緒にいられること・・。 お母さんの心の中で、何か騒然としていても寂しくて空虚な留学先のはずのパリが、一度にロマンテイックでエネルギッシュな街に変わったの・・。”

 

 悠は、頬を赤くしてちょっと照れて見せた。そんな両親の若き日々がどこか羨ましかった。

”ねえ、あの絵の中のひとは、その愛する・・トオルさん?”

悠の言葉に、由紀は笑うと頭を振った。

 

 

 混乱の中で  

 

” ・・本当ならマロニエが薫り緑に色づく、のどかなはずの5月半ばのサンジェルマン・デ・プレ。

その日は、多くの群衆がただならぬ雰囲気で集まっていた。1000万人規模の大きなデモがあってね。 夜半過ぎ頃、興奮が頂点に達して、何処かで小競り合いが起こり、遂に機動部隊が一斉にこちらに向けて突進してきたの。石畳、砂のレンガでパヴェと言っていたんだけど、一枚一枚剝がして学生たちはバリケードを築いていた。狭い道に横付けしてあった車も横倒しにして火を放ってね。一般市民やマスメデイアはそんな一見無秩序な動乱に見える学生たちのいわば象徴的な行為を何故か非難しなかったわ。 動くものとみれば襲い掛かる機動部隊の暴力には、もうその頃は目に余るものがあったのね。人々は走った。

 学生たちと一緒にデモに参加していた年老いたアラブ系の労働者が、ひとり逃げ遅れてね。 私たちのいたすぐそばで転倒し、そこに追いついた盾と黒のヘルメットの屈強そうな機動部隊の数人に取り囲まれて暴行を受け始めたの。気の毒に・・。混乱のさなか周りの人も悲鳴を上げたわ。何が起こっても不思議でない。

 

 そしたら、徹さんが突然カフェの椅子から立ち上がり、私の目の前から走り出して、警察の前に立ちふさがり、自分の身を盾にしてその老人を守ろうとした。

 白人機動隊員の東洋人の彼を見る目は、何か蔑すみを伴った軽薄さと不遜さがあったわ。二人でいつか見た”アルジェの戦い”の映画の旧植民地での一シーンを思いだしていた。彼らのメンバーの中には旧外人部隊だったり、悪い前科のあるものもいて、戦争が終わって目標をなくした彼らなりのうっぷん晴らしになっていたらしいわ。だからCR・”SS”ってわけ。

 ここぞとばかりに彼も取り囲まれ警棒で殴られた。そうこうするうちに血だらけになって、最後に後頭部を後の警官に打たれて、失神しそうになって老人の上に倒れこんだの。ほんの数分のこと。

 思わず私も飛び出して、倒れた二人の前で両手を広げて身をさらして無言で訴えた。一瞬若い警官たちの動きが止まってね、お母さんの真剣な眼差しが怖かったみたい。きっと鬼のような形相をしていたんだわ、・・うふふ。 もう必死だった。大事な人をこれ以上傷つけてなるものかと。

 でもね ふと彼らのうちの一人が、目を三角にして私の前で薄ら笑いを浮かべるや、持っていた警棒を私に向けて振り上げたの。人はこんな混乱の極限状態になって、心の中に隠れた獣のような本姓が現れるものなのかもね・・。

 もう観念して目をつぶったわ。あたりが静かになった気がした・・。でも何の衝撃もない・・。

瞼を開けると、警官の振り上げた腕をつかむ長身の男性がその背後にいたの。

黒い山高帽の紳士が、後ろからその警官の腕を取り、そのしかと目を見すえている。この世の奥底をも知り尽くした深く冷たく鋭い無言の目ざしで・・。

時間が止まったような空気がほんのしばらく周囲を覆ったの。 でもすぐに我に戻った仲間の警官たちが、好戦的に彼にたち向かおうとしたわ。私は血だらけで倒れていた二人を抱きかかえた・・。

 でも、カフェで事の顛末を見ていた一般の多くの人たちが、自分の国のそんな警官たちの度を越した理不尽な行為を大声で非難し始めたの。それまでは軍人以外に、外に知られることもなかった数年前までの植民地での自国軍の非人道的な拷問や殺戮の不名誉な実態が、その頃世間に漏れ始めていた・・。 学生たちはそんな情報に敏感だった。

 くだんの”CR・SS”の黒服の警官たちは、自分たちをやじり始めたその場の多くの人々を振り返り、遂には互いの顔を見合わせると、悪びれることもなく後退していったわ。 そしてそこで人々は歓声を上げた。自由と独立の国歌を口ずさむ人さえもいた。 ”自由の女神”の意に背く、愚かで軽薄な権威の暴力に民意で釘を刺し、勝利を手にしたかのようにね・・。

その観衆の数人が、ぼろぼろになった私たちを安全な場所に連れ出してくれたの。

 

 怪我をしたその黒い肌のアラブ系の老人は、自分を助けようとしてくれた見ず知らずの東洋人の私たちを力なく抱き寄せ、涙を流していたわ。

 でも先ほど間に入って助けてくれた白人紳士は、もうどこかに姿を消していた。彼は何処か旅の途上の異国人のようで、孤独な目の寡黙な人、深く澄んだ青い目の上、何故か額を隠すかのように深々とシルクの黒い帽子をかぶっていたわ。 お母さんは、心の中でその方に感謝して、思わず両手を合わせたわ。

 

・・あの絵はね、その時の印象を後で描いたもの。”

 

悠は黙って、由紀の話に聴き入っていた。ふっと暗闇に光がさすような、その壁の絵を見て、ふとため息をついていた。

 

 

  そして東へ

 

” ・・大変なことやら、うれしいこと、素敵なこと、色々あったけど、いつもそこには正義漢で頼りになる、あなたのお父さんがいてくれた。 でも、こんな理屈の通らない場面では、時には、私も少しはお役に立てたのかしらね・・。実はそんなことをする大胆な自分に驚いていたけどね。

 お母さんはそのままもう日本に戻らずに、お父さんのパリ留学後の東欧の赴任先に一緒について行くことにしたの。お国には申し訳ないけど、せっかくの公費の美術留学もどうでもよくなったわ。私はこの人の為だけにこれから残された人生を生きるって、純な乙女心で自分自身に宣言してね・・。

 徹さんの愛車、白のルノー”ドーフィン”の助手席にいつものように乗って、意気揚々と旅立った。小さな車の屋根に、家財のボストンバッグを括り付けてね。 そのルノーの会社も、当時フランスのル・マンで労働者がストをしていた。そんな時代だった。

 パリを出るとまっしぐらに東に向かった。学生の民主化運動の発端となったストラスブール大学にも寄り、さらにそこからドイツ国境に入った。古城が緑の山肌に張り付くように覗くなライン川に沿って車で北上、そしてハイデルブルグへ。朝もやの美しい古くからの大学街。ふたりはその土地が気に入ってね、しばらくネカー川沿いの古城の宿に滞在した。

 近くを散策していると、素敵なパブがあったの。ふたりで入ってみた。オレンジ色の明りに照らされ、壁にたくさん昔の写真があって、学生たちがピアノを弾いて歌をうたっている。カードをしながらアッペル・コーンという林檎酒のグラスをあおり、ジョッキ片手に議論したりして・・。

陽気な学生に誘われるまま、私たちもそれに加わった。ふたりもまだ若くて、彼らと同世代だったのよね。

 そのセピア色の壁一面の多くの写真の中で、端のほうに一枚、ひときわ目を惹くものがあったの。1939年。若い男性と二人の女性を収めたもの。そのうちの若い方の女性の、寂しげで美しい表情が、何処かで見覚えがある気がしたの。想い出そうとしたけどだめだった・・。

そこに撮影日がペンで添え書きしてあってね、まだヨーッロッパ戦線の頃のはず・・。私たちの知るはずもないわ。さらに古い時代のポートレイトに引き込まれるように見入っていた。1915年。この時ばかりと、時代の暗雲に覆われそうな春を謳歌しようとする若者たちの笑顔。そのうちの一人の青年の笑顔に、デジャビュでも見たかのように、どこか懐かしいものを感じていた。

写真は時空を超えて人に、失ってはいけない何かを思い起こさせる・・。

 

 保養地のような大学町でつかの間の休息を終え、それからルノーで二人はさらに東進した。

ニュールンベルグから、いくつかの野山を超えて、長い長い旅路・・。

愛車の白のルノー・ドーフィンは二人を乗せてよく頑張ってくれた。 いつの間にか旅の疲れで逞し気なベージュのドーフィンになっていてね・・時々エンストなんかもして、私がエンジンをかけて、徹さんが降りて後ろから我らが同胞をヨイショと押した。

 そしてやっとのことで、チェコのプラハにたどり着いた。当時は、民主化の波がここにも来ていて、”プラハの春”のひと時の自由に、街の人々は沸いていた。

 美しいこの街で、しばらく小さなホテルを取って滞在した。二人で腕を組み石畳をゆっくり歩いた。さりげなしに優しい微笑で会釈してくれる穏やかな人たち。朝の薄もやのなか、カレル橋を渡って、お城や教会をみてまわったり・・。モルダウのシンフォニーが何処からか流れてきそうだった。

 車に乗り込んで、さらにもう一息、青い夜霧の覆う東欧の小さなまちへ・・。まるで歴史を遡るような美しく幻想的な長い旅路だったわ・・。わたしたちはそこに一軒の小さな家を借りたの。
 それから5年ほどを二人でその小さな町で過ごした。・・幸せだった。お父さんは、そこからきれいに洗濯したあの白いドーフィンで、東欧支局に仕事に通った。

 左翼政権下ですこし閉塞的だったけど、中央から少し離れた緑の森の中のまち、いつも空気が新鮮で、どこか時間が止まったようにゆったりとしていた。 今でも目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ、お母さんの好きな街・・。”

 

” 悠、・・あなたの命の宿った場所よ。 ほらあの壁の絵、町の風景・・、覚えてないかしら?
 小さな家の窓から、遠く夕日に映えていたあのブルタブァの静かな河の流れを、もういちど見てみたいわ・・。
悠が大学生になったら二人で一緒に旅しようか・・。恋人どうしのようにね。

フフ・・。 外国で一人いるお父さんが焼くかもね。


 もしも、悠がいつか一人で旅に出ることになって、青い眼の東欧の可愛いお嬢さんでも日本に連れてきたらね、何も言わずに・・歓迎するわ。

 あなたも、私の愛する旦那さんの子、それはきっといいお嬢さんよね・・。

 もう、・・悠もひとりじゃない、・・お母さんも安心できるかもね、

 

  ・・ねえ、悠、ちゃんときいてるの? ”
 

 悠の肩を、白い手で抱き寄せると、母はちょっと淋しそうな笑みを浮かべてそう言った。
 そんな母の言葉が、悠は少し不安で寂しかった。

 母の寝室の壁には、その絵とは別に、当時母が描いた若き日の父・徹の肖像のデッサンが掛けてあり、そしてその下には、可愛らしいボヘミアン・グラスが二つならべてあった。

 ”・・何いってるんだ母さん。お父さんとお母さんの青春の日々、ごちそう様で申し訳ないけどね、今はそんな事は考える余裕もないよ。

 部活のしごきと、ご丁寧に先々お受験で、わが青春の鼓動も、もう既にへとへとだ・・。

 でも、無事どこかの大学に入ったら、いつかそんな感傷旅行にお付き合いしてもいいかもね。

 楽しみに考えとくよ・・。だから母さんも、今は体に気を付けて元気にして・・。”


 

   戦線の果て   夢のなかで

 


  悠はふと不安を誘うその日の夜、不思議な夢を見た。

 夢うつつに、色鮮やかに現れては消えていく体中を巡る愉悦にも似た懐かしい古い時代の映像に、心は燃焼しつくし、枕を涙に濡らしていた。
 夢の中の自分が、どこか見覚えのひとりの女性に恋をしていて、その想いは、何かの時代がかった争いごとの夢の舞台の中で消え入るように引き裂かれ遠のいていく・・。

今にも忘却の彼方へとその人は消えていこうとする・・。
 でもその面影を、瞼の裏で、せめてもう少しと、留めおこうとすると、甘い感傷の波と伴に、その薄れていく姿が限りない懐かしさを伴い、再び切なく浮かびあがってでくる。

 僕は恋をしているんだろうか・・。あれは誰? でもこの辛い悲しみは・・。

 これが夢であるはずがない・・、と思いつつ、微かな光る糸で結ばれたきらめく結晶のようなその幻の影は、優しい笑みを残したまま悠の視界から薄れ、去っていく・・。

 どこか古い時代の戦場で頭部に負傷をおい、冷たい塹壕の土の上に横たわっている・・。
 ・・やがて頬に暖かで柔らかな感触がある。

 懐かしさに思わず心がときめく。瞼を開けると、うす曇のオレンジ色の空を背景に、あの青い瞳の女性が、自分を両腕に抱き寄せ、温かい手で自分の頬を撫でてくれている・・。

 女医か、看護婦だろうか・・。
 近くに半分崩れかかった古い石造りの教会がある。

ここでは、あまりにも簡単に人が死んでいっていた。昨日の友人も・・。

自分たちは、郷土や家族を守るための英雄だったはずなのに・・。

爆弾の破片や飛び交う銃弾の恐怖はとうの昔に麻痺してしまっても、

来る日も来る日も・・、瀕死の傷を負うまでは、立ち向かい続けねばならない。

ギリシャのシシュポスの神話・・。

一体何のため・・。 でも、もうそれも、やっと今終わろうとしている・・。

 

” ここは・・、どこですか・・。 ・・君は、・・ああ、思い出せない。
 僕は、・・ここで死ぬのですね。”


 ”いいえ、先生がきっと助けてくれるわ。
 だから、どうか安心して。

 あなたはもう一人ぼっちじゃない。そばに、私もいる・・。
 ここはね、あなたの故里から遠く離れた、ボヘミアの東の果てよ・・。”

 

 どこかの教会で見た聖母の面影のようだった。
 傍らには、長身の白い顎鬚の医師が静かに微笑んでいる。
古い時代のドイツあたりの医師だろうか・・。Fritzという名がふと浮かんだ。
でも、自分の手足の感触はもうなく、このままやがて冷たくなっていくんであろうことはもうわかっている・・。そんな自分の運命だったんだ。
 廃墟の淋しげな風の音が、耳元を通り過ぎていく。

遠くに鐘楼の鐘の音が響いている。 そして、空には小さな天使もトランペットの穏やかな音色で迎えてくれている・・。

” 親切にしてくれてありがとう。 いつの日かまた、・・会えるよね。”

 ” ・・ええ、・・お会いしましょ、きっと。 

 だから・・、安心して・・。 ”

目の前で自分を抱き支えてくれる女性の柔らかな腕の温かな感触。
美しい青い瞳が涙に潤んでいる・・。
ふと胸の上に、俯いた女性の嗚咽した吐息が降りてくる気がした。
命の灯を残す自分の最後の熱い涙が 冷えた頬を伝わり、やがて、視界もぼやけてくる・・。


 そんな寂しい夢を見てから数年、世界では冷戦が終息しようとしていた。ソ連でゴルバチョフがペレストロイカ路線を取り、その自由化の影響が東欧にも及び始めるようになる。

 悠は、間に合えば、元気になった母親の由紀を伴って自由な東欧を訪れてみたかった。

悠の中に一つ夢ができた。 微かな記憶の残る、幼いあの日の土地・・。

 

 でも、それから一年ほどして、母親の由紀は、慢性の白血病が悪化していた。徐々に衰弱し、そしてそのまま消え入るように亡くなっていた。付き添っていた病院の無菌室のベッドが静かになった。

悠は、一人ぼっちになった。 しばらくして、別人のように髪が銀色になり、やつれはてた父親の徹が海外から悠のもとに戻ってきた。
 

 

 

  修 行
 

 その後、悠は大学に入り、父親の徹は別れ際、悠の肩にそっと手を添えて微笑むと、黙ってヨーロッパの自分の仕事場へと戻っていった。母親から聞かされたあの話は、今は父親の前では話さなかった。悠の夢が一つ消えた・・。

 東欧へは、ひとり旅になった。でも、誰の導きか、エミーナとの出会いがあった。日本に帰国してすぐ、大学の隣の棟の経済学部の講義にひとり潜り込み、悠は眠い目を擦りながらいくつか聴講してみた。たしか開発経済学の講座だった。

途上国の貧困の原因が、さまざまな複雑な要因が絡んで成り立っているのが、未熟な悠の頭の中でも理解できるようになってきていた。


                        

 

 この間も、山崎老人の下での武術修行は欠かさなかった。

 

”ユウよ、何を思い呆けておる、・・隙だらけだぞ。

武術で相手に対峙するときは、そのような目をしてはいかん。

武術は、神の手合わせじゃ。私心を抜き、無念で真剣に命を張って向かわねばならぬ。でないと、言うまでもないが、大切なものをも、守り抜けず失うことになる・・。いいな。”


  広い屋敷に、もうあの娘の姿はなかった。いつの日かこの家を出てアメリカに渡っていた。

女手の無い冷え切った座敷で、練習の後、侘びしく男ふたりで、老人の暖めたうどんを一緒にすすった。
 老人の大陸で鍛えた簡単で手際よい和華折衷料理も、以外にも中々の味であった。

"どうじゃ、うまいだろ・・。"

老人は目配せしてそう言うと嬉しそうにうどんをすすった。悠はほっとした。 寂しいのは同じだった。屋敷の部屋の所々に、あとに残した老人を思いやる娘 玲の心使いのあとを感じていた。姉を思慕する様に、悠もその面影を追い、いつかの娘のうなじの香が、微かに部屋に漂うような気がした。 ほんのりと温かな一片の思いやりと慈しみの灯が消えてしまったように、屋敷は広々と少しひんやりとしていた。 
 
“ お前は、いずれ諸国を旅して歩くことになるのじゃろうな。
お前の目には、未熟な若い頃のわしのように、純粋さだけに支えられた未来への”志”の芽生えがうかがえる。

 その長い人生の旅の途上、様々な人との出会いと、そしていくつもの別れがあるのじゃろう・・。
 しかしそれとても、全て今のお前自身を、永遠の理につなぐ為、天の導く不思議な縁じゃと想うことじゃ・・。”