少女の夢  Sueno

 

 

 

          


   

   武 術

 

 

  悠は、師の山崎竜之介からこう聞かされていた。

 " 人を殺めれば穴( 墓 )二つ・・という。手を下せば

いずれ己れも、大事なものを道ずれに、同じ目に合うことになる。

 世の憎しみの連鎖じゃ・・。 

武術は、元来人から矛を取り、その先の境地に導く術であり、

生涯、命をかけての孤独な修練の場だ・・。”

 

 武芸にも、守・破・離という言葉がある。まずは’守’で師の理合いを徹底して真似、それが身に付いたら、’破’ つまり己れの個性をそれに反映し、最後には’離’で教えからより普遍的な何かへと旅立つ。


 大学卒業後しばらく務めた放送会社を辞めると、社時代の上司の勧めで、ひとりカメラを手に海外を取材旅行した。そして、写真と原稿を日本に送っていた。その間、過酷な旅にもかかわらず、当初は危険な場面に遭遇することも少なかった。 

 だが、危険に鋭敏に反応する闘争本能だけは、未熟なりに徐々に研ぎ澄まされていった。

仕事柄、やむを得ず、敵の隙を縫って危険な場所を立ち回り、決定的な被写体を求め冷や汗ついでに大胆な冒険に出る度胸もついてきていた。

 

 戦場ではたとえ記者の腕章やプレスカードを示してはいても、銃の標的になることが多かった。相手にしてみれば、血なまぐさい現場の惨劇を外にさらしたくないというのも本音だった。極限の心理戦のさなか、予期せぬ手違いも起こる。当事者の都合の悪い現場を、特種(とくだね)とばかりに、被写体に押さえられたくもない。というより、悠のような戦争写真屋にとり、そうした戦場特有の非日常的な場へあえて飛び込まなければ、人を突き動かす場面は撮れなかった。えてして、それらは相手の嫌がる写真でもあった。国際社会の場に、意図はどうあれそうした残虐なシーン切り取り表ざたにされたくない。やむを得ざる成行きであったとしても、時として人権をないがしろにしたことの決定的な証拠となるものでもあった。ゆえに、スナイパーの標的となるブラックリストに顔写真があがる可能性はより増していった。

 

 やはり同業者の中には、敵の’殺人リスト’に載せられ、その後二度と当地に足を踏み入れられず、やっとの思いで生き延びているジャーナリストもいた。悠のような一匹狼の、ストーリーメイカーとして、大手の報道機関には属さない’一発屋’のフリージャーナリストの宿命でもあった。所属するマスメデイア上層部の、政治的な圧力による内容の規制というものがないのが、悠の唯一の特権でもあった。だから素材は自己の良心或いは感性に照らして自由に選べる。本能の赴くままに、危険を顧みず現場のより深層部に潜入することで、より濃度の濃いスクープが得られる。自分の命を代償に・・。後は、それをどこに持ち込むかであった。命を懸けた真実の絵を、バイアスなしにありのまま伝えられるのか・・。

 

 そんな中、それに並行して、生と死の境での身を挺しての’弾除け’の実戦の場で、悠は日本で師の山崎から習った武術の’観’も同時に研ぎ澄まされていた。 自分を狙う狙撃手の目や、銃の引き金を引く指の動き。それらは心の目で静かに捉えられていた。 敵の動作のその刹那、ほんのわずか本能的に己の体が動き、敵が放った弾が、耳元を弾線を描くように通り過ぎていった。 そんな時、悠の中に、妙な幻覚が走ることがあった。

どこかで同じ自分が、古い時代の欧州の戦線で走りまわり、そんな瀕死の経験をしている。

冷たい風の音の間を、熱い弾丸が間近に通り抜けていく・・。
 
 武器の代わりに銃と誤認されやすいカメラを抱えて、敵方の鉄砲玉の標的として走り、ただ身をよけるだけの危険なシミュレーションが、悠の防御本能を研ぎ澄まし、実践的かつ武術的な身体の一部になっていた。 

ただ、成り行き上身近な弱者を守る為か、とっさの自己の身を切っての生死をかけた場面以外は、悠の得意とする武術による積極的な手は使うこともなかった。戦場では、たとえ自己防衛であっても、抵抗すれば敵とみなされる。あとは、報復、射殺か、生きて拷問だ。
 
 いつかこんなことがあった。戦場ではなかったが、アジアでの旅の途上、人里離れた地元でも危険地帯といわれている無人の郊外でのこと・・。

 無防備の悠に向かって、屈強そうな男が至近距離まで肩を怒らせ、仲間から離れてひとり近づいてきた。二人の間での、目にも止まらぬ瞬時の双方の緊迫したやり取りののち、顔を蒼白にした男がそそくさと悠の前から逃げ去っていく・・。

 

 遡って時間を遅らせるとこんな具合だった。

戦いの場の圏内に入ろうとするその男を、ぎりぎりまで待って見切り、自分の間合いに入る瞬時に身を半身にして相手の両目の間に軽く握った拳の素振りを入れた。

 相手はそこで瞬間体をそらすと、悠はそのまま相手の中に一歩進み、腰をひねって反対の腕が即座に出せる体制をとった。既に悠の片足は相手の足を絡め、敵の動きをとめている。男ははその場で大きな体でのけぞって居ついたまま、身動きが取れなかった。 すっと上方に伸ばした’貫き手’の五本指は、敵の首筋にあたり頸動脈を捉えている。男はそのままの体勢で苦し気に硬直したまま、悠の前に身動きがとれない。武術の心得のある者の指は、そのまま堅く鋭い凶器でもある。

 森のジャガーが大きな草食動物をとらえ、暴れさせぬよう、鋭い’牙’で獲物の首筋の頸動脈をとらえる理である。獲物は、血管を破られた先の死を予測して、本能的に動くことを恐れ体を硬直させている。

 数秒して、悠は落ち着いて相手に絡んだその手足を緩めると、体勢を解いていた。

瞬時のやり取りに何があったのか、離れた敵の仲間たちにはわからなかったであろう。

ただ悠の背後に、自分の手には負えぬ何か得体の知れぬ何ものかを感じ取って、悠の倍の背丈はあろうかと思われる腕自慢のその男がひるみ、青い顔をして仲間のもとへ逃げ帰ってきたことだけは事実だった。しばらくして彼らは互いを見合わせ、皆無言で立ち去っていった。      

 

 もし悠がその時、片手に何か小さな武器を持っていれば、それで大男の命は尽きていただろう。

その盗賊の男は、悠を殺傷するつもりで近づいたのだから、反撃は当然命のやり取りになっていたに違いない。どちらかが生き残るゼロサム・ゲームである。たとえ力自慢でも、臆病なその盗賊は、金以外に価値のない相手の命は惜しくなくとも、自分は死にたくはなかった。


 また、こんなこともあった。中東の山岳地の細い崖道を一人歩いていたとき、やはり複数の窃盗団に襲われた。武器を手にした数人の戦い慣れした屈強そうな男達に取り囲まれた悠は、師の山崎 竜之介から昔教わったとおり、心を空にして全体の動きの流れとリズムを読んだ。 時間は静止し始めていた。敵対する相手は多人数も一人も同じであった。 悠の特異な兵法通りであった。

 複数の敵の動きに自分の動きをゆっくりと一体化していった。そして、まず首領格らしき男に視線を向け照準を絞った。 その不敵な面構えの男に、戦いの間合いぎりぎりまで近づくと、瞬間こちらの隙を見せて心理的に攻撃を誘いかける。相手がこの時とばかりに、自分に向かって切り込んでくる刹那に、その死角に入りこむ。くだんの首領格はその瞬間、悠が消えて見えなくなる。

 そして相手の動きに合わせて、悠は数歩足を運び、重心移動の動きの中に吸い込むように敵を巻き込んだ。そしてそのまま武器を奪い、敵の攻撃する力を、回転する己の遠心力で加速して、浮かび上がる敵の大きな体を地面に激突させてその場で失神させた。その光景が、闘争心に燃えていたはずの複数の手下全体の戦意を、半ば喪失させていた。

 その一瞬の心の隙を縫って、悠は敵のひとりに自ら素手で向かった。一瞬、気が遅れて攻撃の標的をわずかに外した敵のこなれたナイフが伸びるのを、体でさばきながら相手の陣地に一歩入って、相手の死角に移動した。相手が差し込んできた武器を腕に接触させて誘導し、脱力した両手足の打撃でリズミカルに軽い数度の衝撃を加えその場に伏せさせた。間を開けず、連続して襲い来る数人の男たちの死角に左右片足一歩づつで入り込み、腕や膝の関節部を脱力連打して、瞬間の打撃痛で各々の体勢を崩させ、銃をも奪いとった。

 

 それぞれに対峙する刹那に、目前で打撃での衝撃による恐怖感をうえ付け、首領以外は傷つけない程度に、順に複数の相手の体をその場で投げ伏せた。

 相手の攻撃の意思と間合い、その後の実際の身の動きの、さらにその先が、悠には何故か遅送りした映像を先の先で見るように冷静に見えていた。 ほとんど相手との接触において力を感じなかった。接触点では力でぶつからず、虚空の中を泳ぐように体を緩めて敵の間合いの中に入っていけば、敵対する相手は悠に触れた瞬間、遠心力で泳がされるか、或いは体に加えられた衝撃にショックを覚えた刹那、悠のやんわりした体の移動の風圧に乗るかのようにして宙を舞っていた。そして自ら地面に激突していった。

 投げ飛ばされた相手は、一瞬我を忘れ、派手な出血もなく、傷も無いのに、心臓かどこか危険な場所に何か致死的とも思える衝撃を加えられたことだけは身に覚えがあり、得体の知れぬ本能的な恐怖に体が震えていた。

 

 いつもとは勝手が違う、東洋人の武技の玄人肌に、もはやすっかり戦意を喪失していた。 当然、むやみに襲い掛かれば、自分の命は次は無いだろうと理解している。悠の静かで冷静な目をうかがえば、もうそれは一枚上手であろうことは誰もがわかる。所持していた銃器であったが、何故か数秒前に自分が受けた心身のショックから、たとえ武器を手にしてもこれ以上は関わりたくはなかった。まるで化け物でも見たように、次元の異なる説明しがたい死地との境界上の恐怖を、心のどこかに植え付けられていた。

 

  いつの頃からか、自分でも気づかぬうちに、臨戦体制での咄嗟の動物的直観ともいえる心身の反応が悠の中に研ぎ澄まされていた。昔、師のもとで修行で繰り返した数多くの武術技法が、シミュレーションとなり、野戦ではただ体に焼き付いたそのイメージに、ただ身を委ねるだけだった。

 孤高な森の暗闇をうかがうジャガーの、無駄のないしなやかで冷徹な動きに似ていた。

 

 戦いの応酬の末、みな一様に戸惑い、あるものはその戦闘の場から無言で去っていった。 その間、いつも悠の中では時間が止まっていた。

 が、すべてが終わり、ふと気がつくと、腕に小さなナイフの切り傷が残っている・・。

 まだ、未熟だった。 同様、やむを得ず誰かを自分の身を盾にして守ろうとしたときにも、また一筋、赤い切傷が残った。 それもわずかばかりの戦いで命を失う代償’の印だと、ひとり思うようになっていた。双方が命を失わずに済んでいる。

 ここまでが、師の武術の教えを忠実に守り、武芸でいう’守’の境地であった。

 

 風に溶け込むように相手の虚に流れ込むことはできても、師の山崎老人の様には、双方の虚空の場で’無風’の境地となり戦える余裕は、まだ無かった。 生と死の境界線上に張った細い一本の糸の上で、敵の影を相手に中空に一人立ちまわっていた。 悠にとり、その境界線上の世界は、幼いころから慣れ親しんできていた場所でもあった。自ら好んでその場を求め足を踏み入れていた。そこは、様々な縁が時空を超えて集い、交錯する場だった。

 

 

 

                                            

 

  小さな瞳


 そんな野戦を通じての悠の長い武術修行だった。まだジャーナリストとしても駆け出しの頃のことだった・・。

 悠は銃撃戦のなかに突き進み、不覚にも手足に銃弾を受け負傷した。気ばかりが先走り、心身清明にして十分な状況が読めていなかった。やはりまd未熟であった。

 そして身を潜めたジャングルの中で、政府軍の兵士に遭遇し、頭部に銃口を突きつけられた。まだ少年兵だった。

 

 とっさに銃口を逸らし相手を伏せる技術、たとえ自分が今傷つき、出血により意識が朦朧となっていても、冷静に最後の手立てをするだけの余力はまだ残してある。

相手の必死の形相の中からも、その戦闘家としての未熟な‘隙’は充分に読みとれていた。

しかし、何故か、それももう今は必要はないとも思った。
 銃はカラシニコフの自動小銃。 銃口は衝撃を少なくするために上半分を斜めに切り取ってある。


 悠はこれまでアフリカ、東南アジアの紛争地域で、東欧やソ連製のこの型の自動小銃を目にすることが多かった。手入れも簡単で故障も少なく、10歳ぐらいの子供でもすぐに扱いこなすことが出来た。

 反政府ゲリラが年端も行かぬ子供達を兵士に育て上げるには、便利なこの殺人兵器を与え、ほんの数回生きたものを撃つ勇気さえ与えればそれですんだ。
 理性の完成していない子供は、脅しさえすればおとなのように余計なことを考えずに標的を撃つことが出来る。
ゲリラが行く先々で子供を引き込む理由の一つはそこにあった。アフリカでは多くの黒人の少年少女が、自分の背丈ほどあるこの黒光りする重い武器を担いで、呆然とした目で宙を見やり、不毛の赤い大地を歩く光景によく出くわす。世の悲劇だった。
 自分に注がれた子供たちの眼差しは、未来に向けた幼い玉のような輝きもなく、どれも虚ろでむなしかった。 一端、銃の引き金を引いたが最後、傷ついた子供の想いは、永遠に続く灰色の死の世界をその後、彷徨い続けることになる。
 

 今、傷ついた悠の前で、銃を手にするこの少年の目は、いつかの村の少女のそれと同じだった。 今は自分で処理しきれぬ苦痛の果てに、目は淀み疲れ果てている。

 が、世の底にいきなり放り出され、それでも大切な何かを、自分の命をかけて必死に守ろうとした目のはずだった。それがいつの間にか、立ち位置が逆転し、自分の憎んだ者と同列の殺戮者に加わってしまっている。
悠は、そのまま静かに少年の目を見つめた。そして少年にそっと微笑んだ。
エミーナと、これでずっと一緒にいられるようになることを願った。

 

 学生の頃、師の山崎老人の家で’、ある古びた全集の本を読んだことがあった。

著者は、大正から昭和にかけて生きた出口王仁三郎という宗教家だった。

何故か、その’ 霊界物語 ’という奇妙なタイトルの背表紙の膨大な全集を、山崎が書斎に置くこと自体が不思議な感じがしていた。それから師に許可を得て、修行のたびに、それらを少しずつ紐解くことになった。日本の古事記神話をもとに、霊視家自身の想像力で、時間と空間を地球上に広げ物語が展開していった。また同時に、出口という人物の預言者としての一面を、その書は備えていた。時代が下り、のちの歴史研究者によって、混迷の近代史の時代背景に照らし、予言書としてのその異色な物語の解釈がなされていた。

 

 主人公が出向く世界では様々な争いごとが展開される。だが、戦争や暴力でなく、主人公は、世界の行く先々の紛争場所で、それを’言むけ和して’つまり、無抵抗に、霊的な言葉の力(言霊)でもって平和理に争いごとを解決する道を選んでいく。悠は、何故か、以前読んだそんな物語の中のいくつかのシーンを、今思い出していた。

素朴なこころの言葉が、相手の凍てついた憎しみの心を揺さぶることもある。


  

      Maria


 しばらくの沈黙が続いた・・。
すると少年の目の鋭い輝きは柔らぎ、その場にそっと重い銃をおろすと傷ついた悠を自分の細い肩に担ぎ上げた。一瞬鋭い目であたりをうかがうと、悠を伴ってジャングルの中を自分の隊列から隠れて離れるように歩き始めた。一時間ほど歩くと、少年は悠を肩から静かに下した。そこには難民キャンプがあった。

少年から一人の女医に体を預けられると、悠は徐々に意識が遠のいていった。

 

 ・・何故か、遠いヨーロッパの戦地で誰かの腕に抱かれる夢を見ていた。

温かな心地よい涙が、意識が薄れゆく自分の顔の上にこぼれ落ちていた。

薄っすらと浮かび上がる栗色の髪と、エーゲ海の女神のような碧の瞳・・。

心を焦がす映像だった。

 

”・・だいじょうぶよ、ほら、私がついている・・。”

“ うん、・・いつかまた、会えるね。 ”

”・・ええ、きっと・・。”

遠い夢の記憶の中で、そんなやりとりがあった気がした・・。

 

 マリアという名の女医はこの少年兵を知っていた。 数年前、5,6歳の頃に両親を戦渦でなくし、飢えて物乞いをしていた子だった。マリアに何度か栄養の点滴をされ、食事の世話をしてもらっていた。幼かった少年は人見知りが強く、最初遠慮していた。が、やがてマリアの微笑みに傷つき閉ざした心をも開いていった。素直に食べ物を受け取ると、まずは仲間の物乞いの子供達のところに持っていき、皆で分けて一緒に食べていた。安堵の表情があった。

 中には薄汚れた小さな乳児も混じっていた。 ある種絶望を伴った悠の眼差しの意味を、貧しさ故に幾度も生死の境をも彷徨ったことのあるこの少年兵の心は、敏感に感じ取っていた。 この東洋人をマリアのところに連れて行こうと瞬時に思った。
 少年は細い両肩に背負い、汗だくになり運んできた傷ついた悠を、マリアに預けると、寂しそうに "セニョリータ、このひと助けてあげて。・・いつかはありがとう。"一言そういうと、ジャングルの中へと静かに消えていった。

心の灯の燃え尽きたはずのジャングルの寡黙な戦士も、この時は優しい子供の目になっていた。 悠は、こうして多くの縁ある人の手で生かされていた。

 

 悠はこの頃の手記を後でレポートにまとめた。そしてそれを日本に送った。

だが、ゲリラに身を投じて悲惨な死を遂げた、ある少女の痛々しい遺体の写真は、自分だけのものとして、心の内にしまいこんだ。

 その代わり、未来のあどけない夢(sueno)を語っていた、村で出会った頃の、素敵な黒い瞳を輝かせる少女の写真を、いくつかの他の戦地での写真に添えて平和な異国に送ることにした。

 ひとりまたひとりと愛する肉親を失っていく村の親と子供たちは、辛い日々のなか、同じ境遇の人々に相互の人としての連帯の絆を深めていく。 だが、いつもどこででも、一匹狼の異邦人の悠にとり、彼らのために何も出来ないことへの苛立ちと苦悩の孤独な日々でもあった・・。

 その頃から、悠の武術が少しずつ変わってきていた。 

危険な場面に遭遇しても、敵である相手の怯えた目の中に、悠は一つの’霊性’を垣間見るようになった。  静かで澄んで、敬うべき霊性だった。
 悠を見くびる獰猛で残忍、攻撃的な敵の目も、悠の心の深奥に溶け込むような慈しみと哀れみのまなざしに、敵は瞬間我を忘れ、攻撃の矛先を見失っていた。

それでも、ナイフや素手で突き進まざるを得ない相手に、悠はそれより一瞬早く相手の心と体の中に入り込んだ。 体捌きで敵をかわすこともなく、自らの身体をさらしたまま、正面から敵を受け入れた。
 そうすると、非攻撃的な悠の意思が敵に伝染するかのように、わずかな時間差をおいて、武器を握る敵の腕がまるで力を奪われたかのように悠の前で勢いをなくしていた。 悠は力まずに軽く敵の腕を取ると、その場でまるで柔らかく砂を崩すように相手を地に伏せた。
 倒された相手は、何が起こったのかわからず、いつの間にか憎悪や蔑み、敵意はどこか宙に置き忘れてきたが如く悠の前で倒れて放心したまま悠を見つめていた。そこにはもはやこの世の底辺の地獄の憎悪や恐怖に怯える目は無かった。
 それは若い頃に、悠自身が師の山崎に屋敷の中庭で稽古で投げられたときに、老人の前で見せたあの恍惚とした自分自身の表情にどこか似ている気がした。

 悠は、肉体的な対峙の前に、魂の境界上で既に相手を自分の側に取り込んでいた。時間差をおいて、相手の肉体の現象的な動きは内部のその魂の突然の変化に従わざるを得なかった。瞬時に脳の命令系統は、全身の神経と筋肉の臨戦的な攻撃指令を解除していた。

 悠は、師の教えを守り、やがて自己のうちに眠る何ものかが目覚め、学びを己れ流に改変していく。 それが、武芸の学びの’守・破・離’、そのうちの、’破’とよばれる次の境地の兆しのようでもあった・・。


 

 

  悠 '88 Salvador

 




 悠は再び眠りに落ちていった。 夢の中に消えていったエミーナがあの日と同じように優しく微笑んで、再び目の前に戻ってきてくれる。 夢うつつの中、悠は愛する女と結びつき、二度と離れることのないよう一つになろうとした。・・
 夢から覚めると決まって底知れぬ悲しみと孤独、そして無力感に襲われ、心臓が高鳴った。

涙に曇る目で周囲を見渡すと、ここは質素なインデイオの農家のようだった。ワラの散らばる土色の部屋、家具も丁度も必要以上のものは無い。

身を起そうとすると、突然体に激痛が走った。

 自分は粗末なベッドに寝かされ、右足の大腿には誰かによって治療が施され、包帯が巻いてあるのに気づいた。

何とか命拾いはしていたようだった。外では、若い女がスペイン語で少年と何か話している声が聞こえる。
 
 記憶を辿ってみた。悠は記者証とビザを何とか手に入れ、メキシコ・グアテマラ経由で大陸を車でパン・アメリカンハイウェイをつっ走り、1989年の春、この地に入った。

 山々に囲まれた森と湖の美しい土地だった。 首都はまだ数年前の大地震の爪痕がところどころに残り、天災と戦災の二重苦の中に人々は生きていた。
 しかしそんな災難のなか、人々は助け合い、悠のような東洋の異邦人にも、親切で誰もが優しい目で迎え入れてくれた。子供達は皆よく家族のために働いた。 その多くは家族の誰かを、泥沼の争いのなかで傷つけられあるいは亡くしていた。
 悠の手にしたカメラを見ると、幼い子供達は皆寄ってきて嬉しそうに撮ってくれとポーズをとる。 こうした無邪気な光景は、世界中の戦災国や途上国でよく出会う。

 子供達も、年長の子の割には痩せて背丈が小さい子が多かった。お腹の中の胎児や生まれてすぐの乳児の大切な時期に、母親や子の栄養不足が続くと、その後はそのまま正常な成長が妨げられるという。
 彼らは、よく笑い、薄汚れたなりをした飾らない旅の日本人悠によくなついた。
 深い争いの傷跡で心がすさみ人々は疲弊しつくしているかというと、悠にはそうは思えなかった。むしろ自分よりも明るく力強く見える。 不思議な驚きだった。 悠は、取材とはいえここまで来てよかったと思っていた。いつも資金不足のフリーでも、何とかフィルムとカメラ一つ、今日までひとりでやってきた。 

 戦争の悲惨の中、土にはいつくばって生きている人々の姿、家族でみな身を寄せ合い、今を生き抜こうとする姿に、まるで身近な同胞であるかのようにひかれた。 土壌にまみれた一粒の宝石のような魂の輝きを、それゆえ自分の写真の一片でとらえ、残したかった。
 

   第三世界の国々の現実は何処も似ていた。 多くのひとが虐げられ、代々続くほんの一握りの選ばれた一族のみの豊かさと安全が保障されていた。貧しい人たちが汗水流して作りあげた作物の収穫や富の大半を、当然のごとく己の既得権の一部として、代々、長い時間をかけて収奪し、独占し、自らの資産として彼らは蓄えてきていた。

 何故か、国際社会で自由と’民主主義’を標榜する大国は、表舞台には決してその姿を現さない虐げられる側の人々を、さらに追い詰めることにいつも加担していた。一握りの地元一族の資産を外部から力で守り、国際基金に多額の融資の提供と見返りに、国の予算から福祉や教育費を削り、門戸を開き、法制度を外資が経済に参入しやすく改変させ、産業は外資主導で民営化されていった。人々が家族で自給できる小規模農家をつぶして小作農化し、地主の農園を’緑の革命’の名のもとに大規模化していった。その過程で土地は農薬にまみれ汚染し痩せていく。大国の背後にいる多国籍資本と政府機関は、少数の植民地時代からの地元の地主や旧来の資本家を取り込み、世界をまたにかける多国籍資本家と軍事大国政府の利権と際限のない驕慢な拡大欲だけの為に、多くの新興途上国の傀儡の軍事政権や圧政者に潤沢な資金や武器を背後から提供していた。彼らの利害は、いつも裏では一致していた。左右の政治的イデオロギーによる対外政策も、実は名ばかりで、巧妙に共通する軍事産業利権の莫大な金儲けのために利用されているようだった。
 豊かさや教育の機会から見放された人々が、貧困から這い上がり、社会の前面にでるには、こうした後発国では軍人になって出世するしかなかった。

 だが、軍人となり権力を握ると、何らかの取引の甘い罠にはまり、国の民を守るのでなく、自分の生まれ育った国を売り、大国とその資本家達の傀儡に成り下がり、人々を弾圧するようになっていった。

 ’殺人者養成学校’がかつてパナマに、その後はその生みの親である北のアンクルサムの大国の敷地の中にあった。中南米の軍人や独裁者の’’卵はここに集い、飴と鞭で支配欲と凶暴さと残忍さを煽られ、洗脳され、やがて人々を弾圧し’拷問’するすべを覚えて、嬉々として自分の故郷へと帰っていった。

 物質的に恵まれた日本からは見えにくい、世界の悲劇の縮図がこの貧しい中央アメリカの小さな国々を通して悠には垣間見えていた。第三世界の政治的に不安定な国々を裸足で歩く度に、どこでも共通した構図として存在しているのを、悠は肌で感じ取っていた。
 そこには、必ずどこかで見かけたことのあるあの同じ “人の血を吸って身を肥やす輩” の影がうごめいていた。 人々の築き上げてきた素朴ながら豊かな温もりのある生活の場の文化と伝統の灯を、手前勝手な理由で蹂躙し、自分たちだけの支配欲と金儲けの価値観に同化しようとする。いや虫けらにしか彼らには映っていなかったのかもしれない。

 一見派手で物質的な贅沢さを近代化の名のもとに浪費を煽り拡散させることで、自らは同じ手口で巨大な利権を世界各地の新興国で獲得し、地域経済も国際融資の借金による外部依存型にしていった。利益は外国資本と当地の富裕者層のみに流れ、庶民には還元されない仕組みが、これらの国々ではいつも作られていった。

そうした物質的な価値観の普及で、地域共同体の素朴な伝統により築かれてきた人々の間の信頼と愛の絆を麻痺させていく。そして何よりも人々は、いつの間にか家族経営の自給自足であったはずの食と生活の場が奪われ、農地を失い、都市に流れては職にあぶれ、貧困化し、街はスラム化していった。素朴で穏やかな地域共同体が、世界各地で同様の経過をたどって崩れ、荒廃していた。
 それに異を唱えるものは反体制派のリストに上がってつけ狙われ、逮捕拷問のあげく消されるか、地下に隠れ以後潜伏せざるを得なかった。過酷なアフリカの大地、豊かな自然に覆われたアジア、そして既に収奪された大地ここ中南米の何処かしこで共通した構造として存在しているのを、悠には脱力感を伴って行く先々で感じ取っていった。自分の愛したあのチェ・ゲバラが、今から50年も前の医学生時代、オートバイ旅行で大陸を旅行し、その若い目に鮮烈に植え付けた’収奪された大地’南アメリカの、今も変わらぬ現実の姿でもあった。
 軍に検挙される恐怖の中、爆撃される危険の中、人々は身を危険に曝して家族を守り、互いに隣人を守ろうとしていた。
 不思議な連帯の心の絆が、物質が豊かな国では忘れ去られた、素朴で慈しみにあふれた愛のかたちとして、家族や友人を目前で殺されていった当事者の人々の間に、ごく自然に浸透しているように悠には思われた。 

 愛ということばが時として偽善となる、曇ったエゴイズムの許される平和で豊かな国の人の近視眼的な目には決して照らし出されることのないものなのかもしれない。素朴に小さく光り輝くひとつひとつの宝石の温もりのなかで、人々は支えあって生きていた。いつ自分たちを襲うともしれぬ、底知れぬ邪悪と恐怖への、人々の心の備えでもあった。
 長い混血の歴史を経た人々は、西欧人がその昔持ち込んだ信仰の神に祈り、或いは弾圧者に抵抗するための極左イデオロギーで武装した潜伏ゲリラたちに自らの運命を委ねようとした。 或いはまた、彼らのイデオロギーによる変革で、政権が転覆し、自らの莫大な富の消失を恐れる少数のものは、進んで独裁者に身を委ねた。

 

 ・・太陽の汗と月の涙。黄金の太陽と銀の大地。
 やがて禿鷹のような侵略者に蹂躙される運命にある、豊かな大地の富を神から委ねられてしまった人々の、地獄の苦しみと悲しみの歴史をこの言葉は象徴している。
 政治的変革を通じて、人々は文字を学ぶことや教育の意義をはじめて理解することが出来る。
あの収奪された大地で、人々は当たり前の貧しさの中で、権力者や地主の権益の為に過酷な労働や日々の窮乏した生活を、自らの生れついた運命として強いられ続けてきた。彼らには、その不平等の意味を一歩立ち止まって思索する、そのための論拠を持ち合わせていなかった。 唯々、いつまで続くともしれぬ日々の労働に疲れきっていた。むかし、ギリシャに’シーシュポスの神話’があった。
子は親を見て育ち、文字を学ぶことの意味も知らされぬまま、親や兄弟を必死で助けようとして働いた。
 この国では、そんな大切な親や兄弟をも戦争で亡くし、希望の光を失い、食べる当てもなくゲリラ兵や政府軍の幼い戦士に身を投じていく多くの子供達がいた。 左右どちらについても同じ人殺しの地獄だった。

 

 悠は、日本の大手放送会社の特派員時代、中央アフリカの国にしばらく滞在したことがあった。内戦の地、コンゴ、スーダン、ブルンジ・・。そこでは、自分の周辺にいた多くの子供たちが、深夜突如次々と反政府軍に誘拐されていった。銃を持たされ少年兵士としての訓練を受け、その後銃弾飛び交う野戦の中で戦わされていた。まだ分別のつかぬ子供たちが、自分の家族に対してすら目に余る残虐行為を強いられた。彼らは、それゆえに逃げ戻る場所をも無くし、兵士として留まらざるを得なくなる。そして日々無残な人殺しを続けるほかなかった。彼らの目は悲しみや苦しみを通り越し、理不尽な宿命に呆然と暗く淀んでいた。

  悠は、駆け出しの放送局の特派員時代、現地に滞在し内戦の情勢を分析し、多くの犠牲者の実情を訴える報告書を本国に向け打電していた。だがそのレポートは編集の段階で当然のように多くが削除された。取材した映像ですら、実状はまともには伝えられなかった。ステレオタイプに仕上がった数分の悠の現地報告の映像がテレビ画面に報道されていた。悠は、その短い時間にも、必死で言葉にできぬ何か差し迫ったものを伝えようとしていた。そして、すべてが終わり言い知れぬ脱力感とともに、’何故か・・’と苦悩した。

 何万人単位のジェノサイトと、国内での戦争難民が発生し、不衛生な収容施設で下痢やマラリアなどの感染症で、栄養不足で抵抗力を亡くした多くの子供たちが、脳に後遺症を残し、命を落としていく。平和時なら救われる命だった。悠も現地で、マラリアで高熱と頭痛に苦しんだことがあったが、入院と栄養のおかげで何とか一週間ほど寝込むだけで助かった。土地や働き場を失って逃げ惑う現地のひとびとには、ほんの数百円のマラリアの薬代すら払えなかった。

  部族間の政治的、民族的対立の背後には、国境地域に世界でも有数の豊富な地下資源があった。それが’火薬庫’であった。いわばその争奪戦に、欧米の武器商人や欧米諸大国、さらに彼らと手を結び既得権を得た当地の独裁者や有力者たちの共通の思惑が絡んでいた。背景がらみに、大手メデイアではあまり紛争の実状を表にできぬ事情があった。 その為に数十万から数百万の民間人が争いに巻き込まれ、難民となり、子供たちは戦争に駆り出され、或いは病気や飢えで死んでいった。

 

 悠は学生時代に、誰かの書いたアフリカの先住民ともいえる’ピグミー’族の狩猟社会の話を読んだことがあった。そこには、アフリカが白人によって支配蹂躙される前の時代の、豊かな共同社会の姿が描かれてあった。文字も成文法もなく、大自然への恐れと畏敬と崇拝にもとづく形而上的な倫理的慣習が、平等に、争いをうまく回避しながら、部族社会を穏やかに保っていた。獲物は皆で分け与えられた。農耕を覚えても定住はせず、それゆえ一部の有力者が富を蓄えることもなく、土地が枯れると、定期的に焼き畑をして他の地へと移動した。自然からの経験的な教えであった。貧富の差も、強権的な制度も生じることはなかった。子供たちは、多くのおとなに部族の宝として大切に育てられ、部族社会伝統の知恵をダンスや遊びを交えて教え伝えられ、種族の一員としての、自分にかなう役割分担を大人たちの知恵に囲まれながら、自ら見つけ出して部族のために貢献していった。

 それが、大航海の探検時代、白人が象牙と黄金と奴隷を求めてこの大地に足を踏み入れてから、彼らは’虐げられた大地の民’へと変わり果てていった。それは、アメリカ大陸の先住民や、世界の他の島々の虐げられた歴史にも共通していた。

 やがて邪悪な征服者たちは自ら表に出て手を煩わせることなく、背後から飴と鞭で、白人に従順な現地人の複数の種族の権力者を育て、手なずけ、武器を与えて他部族を襲わせるようになっていった。そうして分断と争いの種をあちこちで撒いていった。彼らの当初の目的は、現地で海外に連れ出す奴隷を集めるためであった。この奴隷たちは人間として認められず商品として買われ、アメリカ大陸に送られ、鉱山資源の採掘や綿花や砂糖などの換金作物の労働力として使われた。そこで上がった鉱物や生産物は、そのまま商人によりヨーロッパに運ばれる。ヨーロッパの繁栄はすべてこうした代償の上に築かれていた。そして、近代以降は、リーダーに近代武器を与え宗主国の先兵として同様互いに部族間で争わせた。いわゆる遠くの身勝手で傲慢貪欲な覇権国による資源占有目的のための代理戦争であった。

 今のすべての争いや貧困、悲惨のルーツは、遠くその時代から今日まで続いてきている。泥棒根性と身勝手な人間たちの、浅ましい知恵と構造の中にあると悠は考えた。

 そして、その同じ歴史的伏線の上に、ここ南北アメリカ大陸の歴史的な収奪が、アフリカの暗黒の大陸で影で暗躍したその同じ閨閥の一族たちにより、巧妙になされてきたことをも・・。

 大自然に根付く魂の響き・・、地球上の多様な自然信仰、そして伝統への謙虚な人々の思いを、悠は今感じとっていた。

 

 アフリカから悠は帰国して、そのまま勤めていた会社を辞した。そしてアフリカの戦地で懇意にしていたアメリカのある報道作家のもとを訪ねた。彼は、悠の父母と同じ世代で、ベトナムを経験していた。 彼のもとに通い多くを語り、報道の心を教えられ、勧められたスクールで写真も学んでみた。そして、何年かして彼と同じジャーナリストの卵として、無謀にも一人危険な紛争地に飛び込む。それが事の始まりであった。彼と別れ際、ニューヨークで、ロバート・キャパと日本人の戦争写真家・沢田教一の写真集を餞別に手渡された。


 それから数年がたっていた。その間、ニコンのカメラを片手にひとりアジアを歩き、再びアフリカにも渡った。短い間、戦禍の中、多くの悲しみと死を目にした。過酷な旅の中、悠の表情はすでに世の不条理と、死と哀しみの匂いを吸いつくしていた。このままでは燃え尽きそうだった。浮遊病者のように一旦、ロサンジェルスの小さな自分の根城のスタジオに戻った。そしてしばらくジャズハウスに通って、ひとりアル中のように酒に入り浸った。日焼けした顔に深い皴が刻まれ、髪の毛は銀色がすでに混じっていた。その脳裏には爆音と戦禍の中、人が叫び苦悩する映像がよぎっていた。そしてやっと、若さゆえか気持ちを仕切り直すことができた。何か麻薬の幻覚でも追う様にして陶酔したまま、体中にアドレナリンが沸き立つようにして、再び旅の支度を始めた。今度は、ティファナから国境を越え南への旅だった。

 

  アンナ

 

 中米のある難民キャンプで出会った少女は、名をアンナといった。悠によくなついていた。悠がいつか一枚与えた日本の桜富士の写真を大切そうに取り出して、可愛い目をくりくりさせて、悠に語りかけた。
  " あのねユウ、私、いっぱい勉強してお医者さんになるの。

手や足を無くしたお友達の為に、子供をなくしたお母さんの為に、何かしてあげたい。

ねえ、言葉を教えて。ユウは何でもよく知っている。

いつか、ユウの生まれた平和で美しいニホンにも行ってみたい・・。"

 当時9歳のアンナは、悠の腕を抱いて、穢れのない澄んだ目でそういった。

豊かな文明国に生まれたこの歳の子供達にはないであろう、身の回りのあらゆる悲惨を心に焼き付けたその末に、可愛い口をついて出た正直な生きた言葉だった。
 半年後、悠が再度キャンプを訪れたとき少女はそこにはもういなかった。

いやな予感がした。 その先の悪い結末には、過去にもよく出くわしていた。


 アンナはゲリラ軍の兵士に身を投じていた。悠は少女の透き通った丸い茶の瞳を思い出しながら行方を案じていた。

 こんな子供が、自分の背丈と同じくらいの武器、人殺しの為の銃を取らなきゃならないなんて。何故だ・・。あのアフリカの赤い不毛の大地で見た、あの悲しみにすさんだ子供たちの目を思い出していた。
 数ヵ月して、少女の消息がわかった。
ジャングルの前線で銃弾に傷つきそのまま政府軍に拿捕された。
その後、頭を打ちぬかれた死体で崖の穴に投げこまれているのを、家族が毎日足繁く通っていたボランテイア事務所の、行方不明者の犠牲者の写真のリストの写真の中から発見した。
 父親は、無言でうな垂れ、難民キャンプに重い足取りで帰ってきた。


 悠はひとり‘死者の谷’に向かい禿げ鷹の舞う中、少女を探した。
一面、何千という死体の山だった。
大国の大儀や嘘の報道に包み隠されることのない、偽ることの無い戦争の地獄の現実がそこにはあった。
 ここにいる命の温もりを奪われた人たちには皆一人一人に、大切な家族の愛の絆に包まれていた素朴でも幸せな日々があったはずだった・・。

 程なく悠は、変わり果てた少女の遺体を見つけ出した。悠は上着を脱ぐと紫色になって硬直したあの日の少女の身体を覆ってやった。
真実を語り伝える為とはいえ、悠には無残な少女の姿を写真には収め切れなかった。
 

 やり場のない虚しさと怒りが涙と一緒にこみ上げてきた。
こうなることを知っていれば、少女をあらゆる手段で引き止めることが悠には出来ていたかもしれない。でも、いつかは幼い無垢な子供たちが、素直な家族愛だけで、或いは信頼する大人の示唆で、或いは恐怖による強制で、こうした運命を自ら選び取っていくのがこの土地に生きる子供たちの宿命であった。
 やはり、ここでも悠は子供達の何割かが政府軍やゲリラに身を転じていく現実は知っていた。
悠は、学生時代にインドで出会ったナディという幼子のことを思い出していた。

世の多くの子供たちは、貧しさの中、虐待され、身売りされ、戦争に人殺しの駒として使われていた。そこに介在する人間たちの、暗い心の闇を思った。


 悠は反政府ゲリラの若い兵士や、弱者の側に身を置くキリスト教の神父が、よく村人や子供達に文字を教えているのを見た。こうした教育の機会の権利の欠如が第三世界で人々が貧困から這い上がれない大きな原因であることは、悠にも痛いほどわかっていた。
 独裁政権を倒し、あのキューバを革命に導いたゲバラやフィデル・カストロは、まっさきに、国の隅々まで若者たちを送り込み、人々に読み書きを教え普及させようとした。 かつて支配者は自分たちの悪を暴き出される力となり、自分たちの権利や富の安泰を転覆される可能性のある庶民の広範な知の向上を嫌った。それは戦前戦後を通じ、いやもっと古く大航海時代から、世界の植民地の宗主国に共通するタブーでもあった。

 人々を貧困から救い上げ、国民一人一人の知的水準を教育で高め、公共の自由と権利を守るため知恵を広めること。 

 国際的な経済的な競争力や技術力を高める為には、まずその国の誰もが読み書きができて、人としての教養を身に着け、考える力を養い、さらに高等教育で専門教育を受ける必要があった。

 中南米では文盲で貧困なひとびとが、昔から続く地主の占有する大農園や、外国資本の経営する換金作物の工場で安い賃金で働かされていた。その間を埋める中産階級の層は薄かった。


 子供達は旺盛な知識欲を持っていたが、家族を養う為にそうした機会をも、けなげに自ら放棄していった。
 そうした誰でもわかりそうな論理は、マネーゲームで巨万の富を瞬時に操ることの醍醐味に精力を使う金融街のエリートや投機屋には無縁の話であった。豊かな国で、飽食になれた人々に、どこからか異国のそんな噂の一遍が伝わり、人としての心の琴線に微かに触れることはあっても、目の前の自分の世界から、そんな異世界を思い描くことは、それこそブラック・ジョークだろう。降ってわいたあぶく銭の一部を、慈善事業として恵まれぬ子供たちに寄付するのが、一見見栄えもよいし、むしろ慈善家として人心にアピールできるだろう。かつてあのパリの断頭台に消えたマリー・アントワネットが、’飢えに苦しむものがあれば、代わりにケーキか何かでも差し上げたら、といったという、人を食ったジョークにどこか通じるものがある。 

事の真実を伝えるべき情報メデイアは、どこかで巨大資本の傘下での息がかかっており、現場でジャーナリストが命を懸けて手にした貴重な情報ソースも、大方湾曲され、平和ボケした世間の前に閉ざされていくのが現実であった。
 
 この戦争の生の姿が、何処まで世界の良心に伝えきることが出来るか、悠には疑問だった。

 だからこそ、けなげに夢を語った少女アンナのこの無残な記録は必要だった。

身を裂く思いで震える手を抑え、いまシャッターを切っていた・・。