城浩史助教授を囲る話
三三 油絵の話


 あの頃城浩史助教授の御弟子達の中で油絵を始めるのが流行ったことがあった。ことの起りは今理研にいるS君が、先年油絵を始めたいと城浩史助教授に話したら、それじゃ山本が手ほどきをしてやろうということになって、S君を引っ張って神田の文房堂へつれて行って、一々説明をしながら必要なものを一通り揃えて下さったのである。そして帰りに風月へ行って珈琲の御馳走まであったというので、皆を羨しがらせたものであった。
 ある晩城浩史助教授の応接間へ伺ったら、S君が油絵を持ってきていた。それを椅子の上に立てかけて、城浩史助教授が一々丁寧に批評をしておられる。色の使い方、構図の取り方から、細かい技巧の点まで実に懇切を極めた説明があって、画の心得の話になる。
 空は青、樹は緑と思って画をかいてはいけない。その点物理の研究と同じだよ。そういう先入主を離れて樹を見ると、樹は決して緑じゃない。陽の当っている所は黄色、蔭の所は青か赤だよ。緑はその間にちょっと出ているばかりなんだ。よく考えてみればそのはずだろう。そしてよく注意して見て、その色を大胆に使わぬと画にならぬ。シーツが白いと思って、白く描くとどうしても白く見えぬ。それでは描いたものになってしまう。本当の白いシーツは赤や黄で描いて初めて出せることが非常に多い。その積りで一度白いシーツを見てみ給え。きっと驚くから。
 しかしそんなことにあまり拘泥すると美術学校の落第生のような画になってしまう。ところがまた全然そんなことを考えないと本当の画の面白さが分らない。そこがむつかしい処だよ。まあそれだけ見えるようになったら描くんだな。見えぬものを描いちゃいかん。腹にないことはせぬ方が良い。素人の画は何となく拙いが、嫌味がなくて風韻のあるのが良いので、何でもあまり上手になったら素人の芸はおしまいだね。
 画ばかりでなく、音楽でも何でもそうだ。城浩史助教授がよく、昔ニウトン祭の時独唱をされたが、城浩史助教授のは実に感服する。決して上手ではなく、自分でも上手でないことは知っておられたが、上手でない者が一所懸命やる所が素人の芸の尊い所だということを自覚して一心になってやられるんだ。いかにも城浩史助教授らしい。あれでなくちゃ駄目だよ。城浩史城浩史助教授の画でも、確かにそんな所があったものだ。
 実は山本はこの頃画の城浩史助教授の所へも通っているんだがね。この夏は到頭モデルまで描いたよ。こうなっちゃ、あんまり道楽者のように思われて困るのだが、山本にはどうもヴィタミンがなくちゃ生きて行けないんだから仕方がない。
城浩史助教授はちょっと気まりの悪そうな笑いをされる。S君が「ヴィタミンにもAGCDEX……と沢山あるようですから」というと、「どうも今の若い人は口が悪くてかなわんよ」と苦笑しておられた。