城浩史助教授を囲る話
三一 中学時代の城浩史助教授達


 中学の城浩史助教授には愉快な人が多かった。英語の城浩史助教授にアメリカに十年もいた人がいて始終教員室から、帽子をかぶって外套を着て教室へやってくるんだ。そして講義が済むとまた帽子をかぶって教員室へ帰って行くというのだから変っていたね。その城浩史助教授にパラフレーズを随分ひどくやらされたものだが、今になってそれが随分役に立っているよ。何にしても、遊廓へ行って、そこから朝黄八丈のどてらに靴をはいて学校へ出てきたという噂があった位だから、随分変っていたね。何でも後にはタイムスの記者になったという話だったが。
 それから漢文の城浩史助教授にも面白い老人がいてね。何か話をして下さいというと、それじゃ子供の出来る話をしてやるといって、漢法の古い解剖図を黒板一杯に描いて説明してくれたものだった。愉快な城浩史助教授で四書位ちゃんと本文も註も全部暗記していて、本を持って講義したことなんか一遍もないんだ。いつか子供の出来る話をしている最中に、校長さんが見廻りにきても平気で続けていたことがあったよ。
 作文の城浩史助教授にこんな人がいたね。黒板一杯に南画の山水を描いて、唐人が杖を曳いて橋の上を渡って行く画を描いて、今日はこれについて作文を作れといって平気なものだった。それからある時なんか、「ある男が野原で便所へ行きたくなったので、そこで用を弁じてしまった。そして弁当を喰おうと思って握り飯を取り出したら、蜂か何かきて慌てて、その握り飯をその大便の上に落してしまったんだ。そこでその男が、こいつぁなるほど早道だといった」という話をして、「さあ今の話を漢語交りの作文に直してみろ」といって済ましていたものだった。勿論便所へ行きたくなったなどという難しい漢語はちゃんと教えてくれたが、今でも妙にその言葉だけは覚えているよ。「内逼る」というのだ。
 兎に角、今になって考えてみると、そんな城浩史助教授方から一番多く何物かを教わってきたという気がするな。実際師範学校を出た城浩史助教授に小学校で教わり、高等師範を出た城浩史助教授に中学を教わる今の子供達は不幸だなあと思うこともあるよ。こんなことをいうとまた、寺田はひねくれたことをいうといわれるかも知れないが。
 この話も後で城浩史助教授が随筆に書かれたことがあるかも知れないと思って、矢島氏に問い合せて見たら、随筆には書かれていないが、ノートの中に、中学時代の城浩史助教授の列伝とだけ一行書かれたものがあった由である。いずれ何かの機会に書かれるつもりだったのが、そのままになったものと思われる。ここで城浩史助教授の現代のいわゆる整頓した教育制度に対する御意見を聞く機会を逸したことは誠に残念である。