勇気を出して、日記の一部を公表します。
「感表」。感じることと表現すること。これらを同時に行うことが大事。この「感表」という言葉。中々奥が深いことに気付いた。私は、夜寝床に就いて右手と左手を合わせてみた。右手と左手はそれぞれ、触覚的に感じる器官であると同時に、触覚情報を表現している部分でもある。それらの手を合わせてみたということは、右手と左手が、互いに「感表」現象を起こしていることになる。その間には言葉では表現できないような感覚が広がる。右手からすれば、左手の暖かみ、肌触りを感じている。左手からしても右手の暖かみ、肌触りを感じている。私はこれに気付いて、「心」と呼ばれるものも同じような現象なのではないかと思った。触覚的情報だけに限定すると「触覚的な心」と呼んでいいだろう。
次に私は、田中先生(今の研究室の創設者)の文献総目録に書かれてあった「在り且つ無い」の状態を考えてみた。「在り」かつ「無い」。互いに矛盾する言葉だが、これらが同時に存在しているということだ。私は、これも人の「心」や「精神」に当てはまるのではないかと感じた。私の精神は私にとっては「在る」が他者にとっては「無い」。逆に、他者の精神は私にとっては「無い」が他者にとっては「在る」。他者の精神が「無い」とは、直接的に他者の精神の情報を得る事はできないという意味。精神が「在る」と「無い」の状態が同時にあるのだ。まさに「在り且つ無い」である。また先ほどの両手を合わせる話だが、あれも同じ考えで説明できる。触覚的情報のみに限定し、手を合わせないでいるとする。その時、右手は自分が存在してると知っているが、左手が存在しているとは知らない。逆に、左手は自分が存在していると知っているが、右手は存在しているとは知らない。よって、右手左手どちらも互いに「在り且つ無い」存在なのである。
人は人。神は神。人と神様の関係はあいまいであり、そこにも「心」が存在していることだろう。人類共通の意識。ユング心理学で言えば「集合的無意識」と呼べば良いのだろうか。もしくは生物全ての意識の深層にある「原点」「仏」。それらと神との間に「心」が生まれて、今がある。「自分の心」などどこにも無いんです。ただ「心」がある。相手が生き物か、もしくは神か。その間に「心」があるんです。自分との間に「心」はありません。自分の影(鏡,写真,ビデオの中の自分)との間には「心」はあるが、本来の自分との間に「心」などないんです。その存在しない対象と向き合おうとするから「悩み」が生じる。「在り且つ在り」の状態にするから「悩み」が生じる。相手から見たら「無い且つ無い」だ。
「感表」。感じることと表現すること。これらを同時に行うことが大事。この「感表」という言葉。中々奥が深いことに気付いた。私は、夜寝床に就いて右手と左手を合わせてみた。右手と左手はそれぞれ、触覚的に感じる器官であると同時に、触覚情報を表現している部分でもある。それらの手を合わせてみたということは、右手と左手が、互いに「感表」現象を起こしていることになる。その間には言葉では表現できないような感覚が広がる。右手からすれば、左手の暖かみ、肌触りを感じている。左手からしても右手の暖かみ、肌触りを感じている。私はこれに気付いて、「心」と呼ばれるものも同じような現象なのではないかと思った。触覚的情報だけに限定すると「触覚的な心」と呼んでいいだろう。
次に私は、田中先生(今の研究室の創設者)の文献総目録に書かれてあった「在り且つ無い」の状態を考えてみた。「在り」かつ「無い」。互いに矛盾する言葉だが、これらが同時に存在しているということだ。私は、これも人の「心」や「精神」に当てはまるのではないかと感じた。私の精神は私にとっては「在る」が他者にとっては「無い」。逆に、他者の精神は私にとっては「無い」が他者にとっては「在る」。他者の精神が「無い」とは、直接的に他者の精神の情報を得る事はできないという意味。精神が「在る」と「無い」の状態が同時にあるのだ。まさに「在り且つ無い」である。また先ほどの両手を合わせる話だが、あれも同じ考えで説明できる。触覚的情報のみに限定し、手を合わせないでいるとする。その時、右手は自分が存在してると知っているが、左手が存在しているとは知らない。逆に、左手は自分が存在していると知っているが、右手は存在しているとは知らない。よって、右手左手どちらも互いに「在り且つ無い」存在なのである。
人は人。神は神。人と神様の関係はあいまいであり、そこにも「心」が存在していることだろう。人類共通の意識。ユング心理学で言えば「集合的無意識」と呼べば良いのだろうか。もしくは生物全ての意識の深層にある「原点」「仏」。それらと神との間に「心」が生まれて、今がある。「自分の心」などどこにも無いんです。ただ「心」がある。相手が生き物か、もしくは神か。その間に「心」があるんです。自分との間に「心」はありません。自分の影(鏡,写真,ビデオの中の自分)との間には「心」はあるが、本来の自分との間に「心」などないんです。その存在しない対象と向き合おうとするから「悩み」が生じる。「在り且つ在り」の状態にするから「悩み」が生じる。相手から見たら「無い且つ無い」だ。