豊臣秀吉の天下統一と醍醐の花見

1)秀吉の経済政策

基本的には織田信長の畿内で行っていた経済政策を秀吉の天下統一により全国に広めていったのが、秀吉の経済政策だった。代表的なものが都につながる七口の関(室町時代からあったもの)を廃止し、公家や寺院、朝廷の資金源になっていたものを断ったことだ。信長の対宗教政策として有名なものが、比叡山の焼き討ちがあり非常に厳しいものだったと言われているが、秀吉の対宗教政策は、さらに厳しく高野山を降伏させたり、根来寺(和歌山県)を焼き討ちしたりした。(実際、根来寺は多くの僧兵や雑賀の鉄砲衆を抱えていて、並みの戦国大名よりも戦闘力があった。)

2)検地・刀狩

学校で教えられる秀吉政策の代表が、検地刀狩りだが、刀狩については天下統一の過程で、兵農分離をすすめ農民の一揆を規制できるようにすることと、農民から武器を取り上げて農業に専念させることで、税収を上げることを目的に行われた。検地については、戦国以前の複雑な土地所有関係を整理し土地制度を一新する目的で行われた。この結果、荘園制度は完全に崩壊し、当時まだ隠然とした力を持っていた貴族や寺院の力をそぐこととなった。当然、寺院における酒造りも以前よりも制限されるようになったことが考えられる。

3)醍醐の花見

1598315(旧暦)に京の醍醐寺において、近親と大名やその配下の人間を約1300人集めて行われた盛大に行われた酒宴でした。全国各地から様々な産物が集まったようで、この酒宴に献上された銘酒としまして、加賀の菊酒、天野・平野・奈良の僧坊酒、尾道・児島の酒、博多の練貫酒、伊豆の江川酒等だった。この花見から考えられることは、秀吉の天下統一により全国的な水運の流通網がこの頃には整備され、全国的な商取引がある程度可能になっていたと考えられる。この酒宴の酒造りにおける意味は、全国から選りすぐりと言われる銘酒を秀吉傘下の御用商人が飲み比べを行ったことで、江戸期における商業的酒造りの発展のワンステップになったと考えられる。

4)醍醐の花見に置いて全国から集まった銘酒

Ⅰ、加賀の菊酒

白山山麓の菊の群生地を通った水で寒造りで造られたお酒で、当時、加賀の菊酒として有名なお酒だった。

Ⅱ、備前児島の酒

1590年に宇喜多秀家が岡山に入城し、その後岡山に市街地を作るにあたって、児島から岡山市内に酒蔵を移転させた。後年、醍醐の花見の際に宇喜多秀家が持ち込んだ岡山城下で造られたお酒が、備前児島の酒である。2009年に岡山市が政令指定都市になるのを記念し、宮下酒造さんが備前児島の酒を文献に基づき再現した。麹歩合が33%(現在は20%)汲み水歩合が78%(現在は120%)とアミノ酸が高く濃厚な味わいで、二段仕込み(現在は三段仕込み)の為、酸味が高くなり酸が濃厚な味にアクセントを加えた味わいのお酒になったようで、現在も販売されている。

Ⅲ、博多の練貫酒

もち米を使用し、醪を臼でひき潰して造る。甘酒まではいかないが、練り絹のような照りを持ち、ペースト状でねっとりとした甘口のお酒だった。

Ⅳ、河内 金剛寺 天野酒

河内の金剛寺(大阪府河内長野市)で造られていたお酒で、元々は高野山の宿坊であった金剛寺の振る舞い酒として造られていたようだ。具体的には、二段仕込みで造られた澄んだお酒で、現在の日本酒度で考えると-7080度の甘口酒だったようです。

Ⅴ、奈良 南都諸白

奈良の僧坊酒として造られていたお酒で、1600年代に入ってから伊丹酒が台頭するまで京や江戸で大きなシェアを持ったお酒でした。現代のように麹米と掛米の両方を精米し、段掛法で造られてお酒でした。

以上、現在調べられる範囲で醍醐の花見で使われたお酒について、調べてみた。

この醍醐の花見と江戸幕府開府以降で、伊丹の酒が台頭するなど、酒造りが徐々に寺院から、商人の手へと移っていった。その意味でこの醍醐の花見は、日本で最初の本格的な内国産業博覧会であり、お酒の試飲会であったと言える。

織田信長による近世日本経済の整備

1)信長が作った金銀本位制

鎌倉時代末期から室町時代にかけて、宋や明からの大量の銅銭の流入により、一般の農民や市民の間でも貨幣経済が広まっていた。ところが、戦国時代に入り明からの貨幣の流入が禁輸されると室町幕府や朝廷が作ったわけでない粗悪な私鋳銭(贋金)が流通し、経済の仕組み自体が崩壊していた。その後、織田信長が畿内と東海地方の一部を治めだした頃(1569)に畿内で、Ⅰ今後、米を通貨としてはならない、Ⅱ高額取引には金銀を使用すること、Ⅲ中国からの輸入品などの取引に関しても金銀を使用すること、Ⅳ金銀がない場合には、良質の銅銭を使用すること、Ⅴ金銀の銅銭との交換比率を定めました。この法令により、事実上の中央政権であった織田信長により金銀銅の交換比率を明確にした体系的な通貨制度が、日本で初めて成立した。この金銀本位制の結果、遠隔地との取引に必要な信用通貨ができ、安土桃山時代に日本国内での物流が非常に活発化した。

2)信長による枡の統一

商取引に置いて量の単位というのは非常に重要だが、信長が登場する以前の日本には全国で共通の単位というものがなかった。当然、統一の単位がなければ、物の取引は成立しないから、日本国内での商品の国同士(外国ではなく日本の旧国間)の取引は停滞していた。そこで1568年に京に上洛した信長は、1569年に京で広く使われていた十合枡を全国統一の枡にすることにした。この枡は京枡と呼ばれ、江戸時代に若干の大きさの変更はありましたが、昭和30年代まで日常的に使用されていた。この京枡の制定により、納税の際の単位が明確になり領民の負担を減らすことで、信長の経済力の安定と、畿内の経済活動の活性化の一因となった。

3)信長による関所の撤廃と街道の整備

戦国時代に入る以前つまり応仁の乱以前に室町幕府の権威は失墜し、各地の地主は自分の荘園ごとに関所を設けていて、おのおのに通行税を課していた。1462(8代将軍足利義政の時代)には、大阪の淀川河口から京まで(現在、新快速で30分ほどの距離)の間に380箇所の関所があり、大きな物流の妨げとなっていた。信長が畿内を治めるようになるとともに、関所は撤廃され、港の整備を行い、大規模な街道の整備を行った。その後、領土を拡大するごとに街道の整備は行われ、琵琶湖の瀬田に唐橋を移設し、現在の静岡県の天竜川にも橋を架けた。織田信長の政策として楽市楽座があるが、信長の街道整備は経済活動の活性化に置いて楽市楽座以上に意味があったと考えられる。

4)信長の都市建設

織田政権の象徴と言えば安土城でした。現在の日本の主要都市は交通の要衝に作られていて、官庁街と商業地が一体となっている。安土城ができる以前は、そうではなく、城や政庁は交通の要衝から少し離れたところに作られるのが普通だった。交通の要衝に城を作ることにより、多くの住民や商人、武士が集まることで、大消費地が誕生した。後々の世界初の大消費都市江戸の原型はこの安土だったと言えるし、江戸時代に各藩の城下町が栄え現在の県庁所在地が、各々発展し人口が増え消費都市になったのは、安土城と安土の街を参考に作られたと言える。信長は、都市の整備を行うと同時に安土での条例を細かく定めることで、安土市街地での治安や秩序を安定させて、市内の経済活動の活性化を行っている。これは現代にも通用することで、現在の南アフリカのヨハネスブルグのように政府の力が弱く治安が安定していなければ、経済活動は停滞し、例え100万人を超える人口があっても経済発展は望めない。これらの経済活動の活性化や街道の整備、貨幣の安定化は、織田信長亡き後も豊臣秀吉に引き継がれ、日本で最初の日本酒会ともいえる醍醐の花見へとつながっていった。

幕府の米本位政策の限界と灘酒の台頭

1)暴れん坊将軍 徳川吉宗の享保の改革

一般的には暴れん坊将軍として知られている徳川吉宗ですが、別名は米将軍と呼ばれ、前章でも触れたが、享保の改革は当初、新田開発や年貢の納入方法の変更などで、米の生産量を増やし、幕府の米の収入を増やす政策だった。

結果的に米の生産量は増えて幕府の米の収入は増えたが、米が増収になった結果、米価の暴落を招いた。そこで、酒造制限令を解禁し、幕府として酒造りの奨励した。

ちょうどその頃から、灘で造った酒の台頭がはじまりまった。

2)老中 田沼意次の重商政策

田沼意次といえば学校で教えられるのは、賄賂政治家という有難くない別名ですが、実際は、産業を奨励し、外国向けの産物の生産を奨励するなど、現代に通じる経済の天才いえる能力を持った政治家だった。その田沼意次の時代の1754年に酒造勝手造り令が出され、江戸の市場において本格的なお酒の自由競争の時代を迎え、いよいよ灘酒の台頭がはじまります。

その後、老中松平定信による酒造制限令により一時的に酒造りは制限されたが、1806年に酒造勝手造り令が再び公布されて以降、灘酒の本格的な台頭がはじまった。

3)江戸前寿司の登場と醤油の変化と灘酒

現在で言うところの握り寿司(江戸前寿司)の登場は、1810年に本所横網に開店した花屋与兵衛という寿司屋で、もともとは押し寿司でしたが、文政期に入って酢でしめた握り飯に魚の切り身を乗せる握り寿司を考案したのが、はじまりだと言われている。

それ以前は、松本善甫という医師が、(1673年~1680年)の間に江戸に持ち込んだ押しずしが江戸では作られていた。(今でいうところの大阪寿司と似たようなものと考えられる。)

ちょうど江戸前寿司の登場とともに、台頭したのが関東産の地廻り醤油で1726(享保11)には、上方産の下り醤油が江戸の醤油の76%のシェアがあったと言われている。1821(文政4)には、地廻り醤油が98%のシェアを持つことになった。

当時の関西から江戸に入る下り醤油は、現在で言うところのたまり醤油だと言われている。(今大阪に残っている大阪寿司も煮詰めを乗せて食べる)

地廻り醤油は、今でいうところの濃口醤油で、新鮮な江戸の魚介類との相性が良かったので江戸の醤油のシェアの多くを占めるようになった。(江戸前寿司との相性も良い)

灘酒と伊丹酒の大きなの違いは、精白歩合と宮水である。宮水は、1840年に櫻正宗の祖の山邑多左衛門が西宮の梅の木の井戸の水を醸造用に使いだしたのがはじめだが、精白歩合については、伊丹・池田で足ふみ精米をしていたころに、六甲山の急流を利用し、江戸中期には、約85%精米、天保年間(1830年~1843)には、約75%~65%精米が行われていて、当時としては非常にすっきりした酒質のお酒になっていた事が、江戸前の寿司や関東地廻り醤油の台頭とともに江戸の町で受け入れられたと考えられる。

)何故、灘酒が伊丹酒に代わり江戸の街で多くのシェアを得るようになったのか

第一に宮水の発見によって汲み水割合の高い、従来よりすっきりした酒質で延びのきくの酒の製造を可能にしたこと。第二に六甲山を水源とする急流の河川を利用した水車精米により、従来の足ふみ精米に比べて、大量の精米と高精白精米を可能にし、従来よりもすっきりとした酒質の酒を低コストで量産できるようにしたこと。第三に寒造りに集中できる技術の改善が行われたこと。醸造期間を短縮するために、Ⅰもと日数の短縮、Ⅱ醪日数の短縮、Ⅲ仕舞個数の増大、Ⅳ酒蔵の大型化などが行われました。第四に新興勢力として、伊丹などの既存の勢力を気概や千石蔵に代表される酒の量産化と手工業作業の定型化に成功したこと。第五に灘の酒蔵は海岸線近くにあり、海運の利用が容易で輸送コストの点でも非常に優位な立地に存在したことがあげられる。

5)その後の灘酒と伊丹酒

18世紀半ばからの灘酒の台頭により、伊丹酒は次第に江戸での出荷量が減りしだいに衰退していった。19世紀に入り伊丹酒は近衛家の庇護のもと京に市場を求めるようになった。一方で灘酒は江戸時代後半の19世紀に入るにつれ、江戸でのシェアをどんどん増やす一方で、江戸の街ではお酒の量が供給過剰になり(1803年に江戸への入津量が、約40万樽だったのが、1821年には約68万樽と1.7倍に増えている)江戸での灘酒の相場が、大きく値崩れを起こし、この際に灘内部で対立が起こり、上灘郷が東組、中組、西組の3つに分かれた、これに下灘郷、今津郷を加えて現在の灘五郷と呼ばれる名称がこの頃できた。この頃の灘酒の躍進により灘酒のブランド化が進み、明治時代初期には他地域の日本酒の約2倍で取引され、現代では灘の大手の酒蔵がナショナルブランドとしての地位を確立するようになった。

伊丹での酒造りと江戸市場の寡占

1)天下の大消費地江戸

徳川家康入津以前の江戸は、現代のメトロポリス東京とは違い、後北条家を中心とする関東の連合国家の一都市にすぎなかった。

徳川家康の入津、並びに関ヶ原の合戦以降、江戸幕府の開府(1603)以降、急速な発展を遂げていく。江戸幕府の開府(16033)の翌月以降、江戸市街の大幅拡張をはじめ、3年後江戸城の増築が行われた。その際全国から大土木工事のために大名が動員され、その後1635年に参勤交代がはじまる等して、産業のない江戸に大量の物資が必要となった。

2)南都諸白の声明

江戸幕府開府当初、南都諸白と呼ばれた奈良酒が江戸でも人気を博し、主に馬を使った陸上交通で、江戸に酒が運ばれていた。

この南都諸白、江戸だけに伴わず、地方でも人気を博し、佐竹義宣の収める秋田まで運ばれた記録まで残っている。

3)参勤交代と伊丹酒

1635年徳川家光の治世の際に大名の財力を削るために参勤交代制がはじまるとさらに江戸の町の人口は増えていく。この参勤交代とともに寺社奉行が幕府に置かれるようになり、寺社の財力と権限は大幅に制限されることとなった。

その頃伊丹では、木灰と木綿布濾過の技術が確立され、さらに南都諸白よりも麹割合の少ない酒造りが行われ、しかも早い時期から寒造りが行われていたので、当時としては辛口のしゃんとした酒造りが行われていた。さらに、1619年に菱垣廻船が就航し、以降、江戸への水運の整備が進むとさらに山中にある奈良より、水運の便の良かった伊丹に酒造りの中心が移るようになった。

4)工業製手工業と伊丹酒が江戸市中にて絶大な人気を博した理由

第一に前章でも触れたが、木灰と木綿濾過の技術の確立と、寒造り、新たに確立された柱焼酎の技法を駆使し、南都諸白よりも麹歩合の少ない酒造りが行われ、当時としては辛口のしゃんとした酒造りが行われたこと。(麹歩合が高いとお酒の味は濃くなる)

第二に、江戸積み酒造業として、早くから江戸に進出して、江戸市場の開拓に成功したこと。

第三に商品性の高い酒を造る生産効率を上げる必要があった。そのためにさらに完成度の高いきもと造りを行い寒造りへの重点を移す必要があり、実行できたことと、作業工程のシステム化(杜氏と蔵人による作業の専門化と分業の確立)が行われたこと。(家内制手工業から工業制手工業への移行)

第四に大量仕込に必要な大型木桶の登場と大量輸送に必要な樽の実用化、1619年の菱垣廻船の就航と、1661年に小西新右衛門が発案した酒専門の樽廻船の就航に大量に江戸に短時間で酒が運べるようになったこと。

第五に多くの文人墨客による宣伝(現代で言うところの文化人による宣伝)に加えブランド化と価格政策において成功したこと。具体的には、伊丹諸白、伊丹丹醸、近衛家御用達、将軍の御膳酒といったキャッチコピーや、井原西鶴、近松門左衛門、頼山陽等の筆により数知れない宣伝(現在でも剣菱の箱には頼山陽の名前がある)、本朝食鑑や守貞漫稿、日本山海名産図会、伊丹酒造の図等の出版物による宣伝に成功したこと。

第六に立地の好条件と高環境に恵まれたこと。早くから伊丹は五畿内(山城、摂津、河内、大和、和泉)に属し、古代文化の恩恵を受け続けられたこと、1617年に幕府天領になり、天領の貢租米の蔵所に定められ、原料米の大量入手が可能だったこと。1661年には、伊丹郷町は近衛家領となり、その庇護のもとに多くの特典を得た。水上輸送の点でも、すぐ傍らに駄六川が流れ、これが猪名川と合流し、安治川へとつながり海運への接続が容易であったことがある。

5)江戸幕府による酒造統制

1634年に前年の江戸大地震と各地の凶作による米価高騰の抑制のため、酒造半造りと新規酒屋の一切禁止、1642年大飢饉と米価高騰を契機に、在方(農村)での酒造禁止と農民に対する酒の販売禁止、1657年酒造株を設定、(ここまでの酒造統制は知恵伊豆と呼ばれる老中松平信綱の政策。)以降、1666年、1679年、1697年の株改めに置いて運上金(酒税)を課し、1670年新酒(秋造り酒)を禁止し、商品性の高い寒造り政策が明確化されたため、伊丹の江戸積み酒造業が、確固たる地位を占める要因となった。

6)暴れん坊将軍、田沼意次の重商政策と灘酒の台頭

暴れん坊将軍8代吉宗の登場で、年貢の納入方法の変更や新田の開発により幕府に入る米の量は増えたが、結果として米価の暴落を招き、吉宗は米の収入を増やすだけでは幕府の収入増につながらないことに気づき、1730年以降、酒造制限令を解除し、酒造りを奨励し、運上金収入を増やす政策に転じた。その後、9代将軍家重の小姓を務めていた田沼意次が登場し、幕府はさらなる重商政策を行うように政策の転換がこの時代にあり、1754年酒造勝手造りの方針が打ち出され、酒造りに置いて自由競争の時代がやってきた。この時期に灘酒が徐々に台頭し、技術革新もあり、江戸の市場は灘酒が中心となっていった。

奈良の僧坊酒

1)近世の酒

貴族の時代が終わり武士が台頭してきたころ、酒造りの世界でも大きな変化が起こった。

それまで一般的だった自家製の濁り酒が次第にすたれて、造り酒屋が生まれてきた。

平清盛による対宋貿易により、大陸から大量に銅銭が輸入されて貨幣経済が大いに発展し(このころには都市だけでなく農村にまで発展)、商品としての酒の生産が増え、京では金融業を兼ねた土倉と呼ばれる造り酒屋が出てくる。

南北朝の動乱期には、朝廷、幕府ともに財政難となり酒に税がかけられるようになった。

初めは、酒屋一軒当りの均等課税だったが、三代将軍足利義満により酒壺1つ当りに掛ける造石税となった。

2)寺院による酒造り

中世の寺院には、諸国の荘園からの年貢余剰米が集まり、現代とは違い僧坊も広大でした、そのうえ、多くの禅徒・学僧の労働力があり酒造りの条件はすべて揃っていた。

平安時代から特に力が強かったのは奈良の寺院で、僧兵を抱え、源平の動乱や、南北朝の動乱にも深くかかわっている。

室町期の寺院は、寺内で製造した酒を販売して利益を上げており、その利益を元手に土倉を経営し、金貸しをしたりお酒を売ったりしていた。

)僧坊酒

寺院では中世の神仏習合時より、境内への献酒用にお酒を造っていましたが、1420年に四代将軍足利義持により寺内禁酒令が出るほどに大量に造られていた。(寺内禁酒令については、足利義持と義満の関係が悪かったので、義満の政策を否定するために出された法令とみることもできる。)

この時期に名声を博した僧坊酒としまして、天野酒:河内天野山、金剛寺、百済寺酒:百済寺、菩提泉:大和菩提山、正暦寺、多武峯酒:大和、妙薬寺があった。

非常に寺同士の市場競争が激化し、結果として、僧坊酒の酒造りの技術は飛躍的に発達し、この頃に、現代の速醸もとの原型となる菩提もとの発明、火入れ殺菌法(1560年、多門院日記に記載)や三段掛法(1489年、御酒の日記に記載)が確立され、1444年の嘉吉年間には、袋詰めによる澄み酒が製造され、奈良漬けもこの頃に造られるようになったと言われている。

4)南都諸白

諸白とは、麹米と掛米の両方に精白米を用いる製法の事で、現代では機械による高精白が行われていますが、この頃は杵や臼を使って精白が行われていた。

一方で麹米は玄米のままで、掛米にのみ精白米を使用する製法を片白と言い、両方玄米を使用するお酒を並酒と呼んだ。

15~16世紀頃、京で最も評価が高かったのが天野酒(段掛け法により造られ、木灰を加えずに清澄させた酒を造っていた)ですが、南都諸白は天野酒を凌駕し、天下一の評判を得て、秀吉の朝鮮出兵の際にも持って行かれるまでになった。

その後、徳川の時代に入ると、寺院諸法度により、寺の権限が大幅に制限され、消費の中心が京から江戸にうつり上方から江戸への物流が水運に変わられることにより、酒造りの中心は奈良から伊丹、灘へと移っていった。

1、私説伏見稲荷とお酒の関係(日本で最初の組織的な酒造り)


どういう経緯で伏見稲荷が建立されたか?

飛鳥時代の大和朝廷が、大化の改新、壬申の乱を経て、豪族集合体国家から、中央集権天皇家中心の法治国家体制形成の過程で、大宝律令の制定(701年)、平城京への遷都(710年)等の国家的大事業を行う上で、多くの資金が必要と成り、当時朝廷の財務を担当し、酒造りや機織等の当時の先端技術をもった秦氏に伏見稲荷を天皇自ら作らせたと私は考えます。


松尾大社との関係

お酒の神様である松尾大社も秦氏により701年に創建されています。松尾大社も酒造りに適した豊富な水量を持っていますので、大宝律令の制定とともに、宮中で使用する一定のお酒が必要と成り、お酒の生産に適した水量を持つ松尾大社で、当初は本格的な酒造りが行われたと考えます。ただし、大和朝廷の力の増大と、708年以降に貨幣が流通し、以前よりも多くの物品が流通する過程において、さらに豊富な水量と流通の便の良さ(交通、原料の年貢米の集積において)を持つ酒造りの地が必要となった。


和同開珎の流通

708年に日本で最初の貨幣である和同開珎が流通しだし、大和朝廷で日本で最初の貨幣経済がスタートし、伏見稲荷創建の年(711年)には、都の市では、それなりに流通しだしていて、貨幣の流通とともに確実に現金化される商材が必要と成り、その一つが大量に需要があったお酒だと考えられます。


何故、伏見の地が選ばれたか?

伏見の地は水運に都合がよく、交通の要所だったので、年貢である米の集積地となっていたと考えられます。しかも、豊富な水量を持ち、酒つくりに適した水を大量に有している。その為、年貢米を加工品であるお酒に変えて流通させるのに、非常に適した地であったから、この地が伏見稲荷の建立地として選ばれ、711年に伏見稲荷が創建されて以降、集積された大量の年貢物資により、本格的な酒造りが行われたと私は考えます。


伏見稲荷の家紋

抱き稲ですが、これは当時、伏見稲荷が年貢米の集積地であった事の名残だと私は考えます。稲荷神社といえば、五穀豊穣、商業の神様ですが、年貢の集積地であったことと、当時としてお酒を量産することで、貨幣の流通に貢献したことから、五穀豊穣、商業の神様となったと私は考えます。


稲荷信仰との関係

うちの家の家紋も抱き稲で、元は富山の稲荷神社の神主の家系ですが、稲荷神社がこれだけ全国に広がったのは、伏見稲荷が年貢の集積地であったことと、お酒造りを通して、最初の貨幣経済の形成に貢献したことから、江戸期に豊富な米が集まり、商業の発展の神様であるとされ、全国に大量の稲荷神社が出来たのではないかと私は考えます。











3)現場で見る日本酒に対する消費者の認識

今の職場で私は、日本人の消費者の方々と、アジアを中心とした外国人の消費者

の方々と、両方の消費者の方々を見ることができ、接客することから、色々なことを

学んでいるが、正直、外国の消費者の方々の方が日本の食文化に関する興味は高く、

日本の消費者の方々は自国の食文化について外国よりも劣っていると認識されている

方が明らかに多いように思う。実際は、日本の食文化というのは世界一レベルが高く、

飲食店の競争も東京、大阪の競争は世界で12を争う厳しさとなっている。醸造酒に

関しても日本酒の造りの技術に関しては、世界一難しく、焼酎に関しても同じことが

言える。一方で日本では実務よりも、ペーパーテストを優先する歪な学歴社会となっ

ていて、学校でのペーパーテストの結果で社会での地位がある意味決まってしまう部

分があり、成績優秀者は、公務員や銀行、商社、工業製品製造業等に進む人材が多い

ので、結果的にサービス業、特に食品業界については一段低く見られる傾向にあるの

も日本の食文化が一段低く見られる原因になっているように思われる。ただ、私が長

年この業界にいて感じるのは、机上で考えるよりも実務でクリエイティブなことを考

えることに関して、食品、サービス業には優秀な人材が集まっている傾向があるよう

に見られるし、結果的に飲食店の競争レベルが世界一高くなったり、食品加工に置い

て他の国がまねできないものを多く生み出している現状があると認識している。日本

であれだけワインが受ける要因の一つに、食文化に関しては、日本の消費者は日本よ

りもヨーロッパの方が優れていると考える傾向が高いことが考えられる。一方で、ア

ジアを中心とする外国の消費者の方々の認識は、日本人とは全く逆で、日本の食文化

や、醸造酒、蒸留酒のレベルが世界一高いことを認識しているが故に、日本に来てせ

っせと日本の食文化を堪能している。

4)きき酒師として日本酒振興の為に何をすべきなのか

学校で学んだ歴史とは違う実際の商売の現場に立った視点から、日本の食文化を

中心とした歴史を自ら勉強することで、日本人特有の自虐史観を持つのではなく、

日本の文化に対して本当の意味で誇りを持ち、日本酒の品質や蔵元さん杜氏さんの

想いを日本酒の伝道者としてどうやって伝えていくのか、日本の優れた食文化を国

内、海外問わずに消費者の方々にどうやって伝えていくのか、を真剣に考えてこの

日本酒振興の為の提言を作成している。私はきき酒師が、消費者の方々に日本酒の

ソムリエと言われるのではなく、きき酒師として認識されることも日本酒の振興に

つながっていくと考えているし、これから日本酒を勉強しようとする方々や、利き

酒師を持っている方々が先に進むために参考にしてもらい、そこから新たな日本酒

の振興策が生まれてほしいが為に、この日本酒振興のための提言のレポートを作成

している。

※(1~7まで参考文献と参考論文、及び参考HP

主な参考文献

松木津津二著 ニッポンの酒、菊正宗通信講座④日本酒の歴史、池田明子著 吟醸酒を創った男、柚木学著 酒造りの歴史、上野敏彦著 闘う純米酒、吉田元著 江戸の酒、秋山裕一著 日本酒、日本酒の基、武田知弘著 織田信長のマネー革命、高瀬斉著 マンガ亀甲鶴、古川修著 世界一旨い日本酒、別冊歴史読本 食の歳時記、上原浩著 純米酒を極める、篠田次郎著 吟醸酒への招待、日本の酒づくり、吟醸酒の光と影、吟醸酒誕生、吟醸酒の来た道、藤本昌代・河口充勇著 産業集積地の継続と革新など

主な参考論文

高部淑子(日本福祉大学知多半島総合研究所助教授) 知多半島の醸造業、稲葉祐之(大阪市立大学大学院研究科)江戸期大坂の都市ビジネス、新潟県酒造史 明治時代の酒造り 岸五郎翁との対談より、住原則也(天理大学国際文化学部教授) 清酒のルーツ、菩提もとの復元、株式会社サタケ 酒と酒造精米の歴史、青木隆浩(法政大学イノベーションマネージメントセンター編)薩堹先生の飲んだお酒を考えるなど

主な参考HP

澤田酒造HP(愛知県)、酒文化研究所HP、冨久長酒造HP(広島県)、お福酒造HP(新潟県)、亀泉酒造HP(高知県)、浅舞酒造HP(秋田県)、菊正宗酒造HP(兵庫県 灘)、藤井酒造HP(広島県)、伊丹酒造組合HP、奈良酒造組合HPなど

③何故、このレポートを作成するのか

1)現在の日本の置かれた状況から日本酒を考えてみる

現代の日本はGDPで中国に抜かれ国別のGDPでは世界第3位の経済大国と一般

的には言われているが、私は違うと思う。私が考える経済大国の基準とは、世界中

に領土を持ち一定のレベルの商品を大量に生産し販売する能力のある国や地域で、

なおかつ基軸通貨もしくは、通貨に代わる財(たとえば金の大量保有、全世界の半分

以上)を持つ国や地域のことを言うと認識している。この基準で考えた場合、過去を

含めて現在までに経済大国なりえた国は、アメリカとイギリスだけで、地域を加え

るならEUってことになるから、現在までに3つしか存在したことがない。では、

日本はなんだってことになるが、現在でも世界一の技術大国である。10年後に、GDP

だけ見れば、世界1位がインド、2位が中国、3位がアメリカ、もしかすれば、ブラ

ジル又は第3国になると予想できるが、それでも世界の基軸通貨を保持できるのは、

アメリカとEUだけだと思われる。これらの国と比較して日本が圧倒的に優位なの

は、工業品にしても食品にしても圧倒的に品質が高いことが挙げられるし、日本酒

に関しては並行複発酵を含め世界一技術水準の高い醸造酒である。当然のことなが

ら、製品の質が高いということは、普通に外国から製品を求めて人が集まってくる

し、実際、日本はそうなっている。一方で、工業製品に関しては、商社を中心に世

界中に販売する体制が整っているが、食品については販売網の整備が不十分で、特

に日本酒に関して言えば、日本酒の専門家たるきき酒師の数も不足しているし、さ

らに一歩踏み込んで日本酒の伝道者たる酒匠や日本酒学講師に進もうとする利き酒

師の数も、育成の仕組みも不充分だと感じられる。

2)本論の構成

この日本酒の振興のための提言は、私がきき酒師として、酒類、飲食の実際の現

場から日本酒の振興の為にどんなサービスプロモーションが必要なのかをできるだ

け具体的に考えて、論文形式にて発表し、文章として残すことで、多くの方々に日

本酒の良さを知ってもらうことを目的に作成されている。

本論の構成は1~19とし、1~7では、主に江戸時代から明治にかけての酒が日本酒として認知され、造られていく過程を検証していく。

8~11では、明治から昭和初期における日本酒の歩んできた過程を検証することで、現在の酒蔵の数に関して本当に日本酒の需要減だけで減少しているのかどうか、を検証していく。

12~15では、太平洋戦争の戦後から平成の時代にかけての日本酒の進んできた過程を中心に検証することで、何故日本酒の酒類販売量におけるシェアが最盛期の約30%まで落ち込むことになったのかを検証していく。

16~19では、現在から10年後までを見据えて、日本酒振興の為に我々、きき酒師は何をしていかなければならないかを検証していく。

②日本酒の振興

1)何故、日本酒の振興なのか

昭和50年の現在の約3倍の出荷数量を今更考えたところで、この先10年、20

賭けようが絶対に不可能と考えるのが普通だし、現在あるものを使って商品の品質

とブランド力の向上を図って、各酒造メーカーの収益性を高めた方が10年後には日

本酒の認知度も上がるし、国内の酒類販売のシェアについても確実に保持していく

ことができる。その上で、日本以外の海外でもマーケットを作って行く為に、関税

の問題をクリアすることや日本国としての戦略商材として海外での日本酒の販売の

為に日本政府に動いてもらう必要がある。(外務省では晩餐会でワインを使用してい

るが、フランス産のワインを中心に使用したところで日本国としての税収アップに

は繋がらないし、日本製品のアピールに繋がらない)一方で、小売りや飲食の現場における人材の育成も急務と考えられ、きき酒師が日本酒のソムリエって呼ばれている間はダメだろうと思う。(消費者の方からきき酒師が、日本酒のソムリエって呼ばれた時点で、ワインより日本酒の認知度が低いと考えられる)

2)日本酒は、本当に美味しくないのか

かつて、明治維新のときオランダの船員が日本酒を飲んでみて、二口目はいらな

いと思ったと吉田元著の江戸の酒には描かれている。明治維新と言えば慶応3

(1867)頃の話で、今から約150年前の話である。現在の日本酒は、外国からのお

客さんから、非常に喜ばれる酒類となっていて、日本に来る外国の旅行者からは、

日本での食事、温泉、化粧品とともに来日する大きな理由の一つになっているし、

現場にいて外国のお客さんで日本酒に興味を持つ方に日本酒を薦めれば、ほぼ確実

に日本酒が売れ、美味しいと満足していただける。日本酒の造りに関しては、近年

の日本酒のシェアの低下と各酒蔵の経営に対する危機意識と業界関係者の献身的な

努力により、ここ約10年位で酒質が飛躍的に向上し、現在は、非常に美味しい日本

酒が飲めるようになってきている。その結果日本国内での日本酒の注目度もしだい

に上がってきていて、日本酒関連のイベントもここ数年で年々増える傾向にあるし、

参加者の数も若い人を中心に増えている。

3)今あるものを売る為には過去から学ぶことが多々ある

近年、酒類業界では、1987年のアサヒスーパードライの発売以降、アサヒビール

が復活し、ウィスキーも一昨年くらいからハイボールの人気によって復活した。私

が思うに非常に身近な2つ事例をとってみても、スーパードライの発売やハイボー

ルによって復活したのではなく、両方とも単なるきっかけでしかなかったと考えて

いる。では何故、復活できたのか、Ⅰ品質の向上、Ⅱ社員の意識改革、Ⅲ自社製品

と自社の失敗した過程を真摯に見つめなおし過去から多くを学んだこと、Ⅳ考えら

れるありとあらゆる営業手段と徹底したマーケティング戦略があったし、実際、私

が現場で見る限りそうだった。今の日本酒業界に置き換えてみると、Ⅰ、Ⅱに関し

ては、現在勢いのある酒蔵を中心に徐々にできてきている。Ⅳに関してもできる範

囲では徐々にできつつある部分も見える。ただし、Ⅲの部分に関しては、造る側、

販売する側の両面ともに決定的に認識が欠けるように思われる。

1.今求められるべきは日本酒の振興

①日本酒の復興とは

1)近年の日本酒の置かれている環境

ここ10数年、吟醸酒ブームに始まり、ワインブーム、焼酎ブームと酒類販売の環

境については、我々日本人の食卓とある意味マスメディアの都合により、売れる酒

類の環境が劇的に変化している。ブームの結果、吟醸酒、ワイン、焼酎に関しては

酒類全体のシェアを考えた場合、ある一定のマーケットの確保には成功し、日本人

の食生活の多様化とともに食卓に普通に上るようになってきた。一方で、日本酒全

体の酒類課税数量を考えた場合、昭和50年を境に右肩下がりの状況が続き、現在で

は、最も出荷量が多かった時期の約30%程の出荷量となっていて、数年前より日本

酒の危機が叫ばれている。その結果、日本酒の復権もしくは、復興という言葉が日

本酒業界やマスコミを中心に叫ばれているが、何を持って日本酒の復興、日本酒の

復権と考えるのか、曖昧と思える部分がある。

2)昭和中期のおやじ酒と呼ばれた三増酒

日本酒がこれ程までに日本人に避けられるようになった理由が、太平洋戦争から

戦争後の米不足の時代の後も、大手メーカーを中心に酒質の改善よりもシェア争い

に明け暮れ、おやじ酒と呼ばれた三増酒の販売に力を入れている間に、他の酒類(

ール、発泡酒、焼酎、缶チューハイ)の酒質向上、輸入関税の低下による国内でのワ

イン、ウィスキーの販売量の増加により酒類全体の販売量の中でシェアを低下させ

てきた。日本酒の販売数量の低下の原因の一つに若年層のアルコール離れが言われ

ているが、国税庁の資料を見る限り日本酒の酒類課税数量が最大(1747KL)

った昭和50年の酒類全体の酒類課税数量は約6250KLで、平成21(2009)

の酒類課税数量は約9001KLあり、実際は昭和50年当時よりも44%も課税数量

が増えている。近年、純米酒を中心とした特定名称酒の酒質の向上や平成18(2006

)の酒税法改正による三増酒の生産禁止により、徐々にではあるが、日本酒に対す

る消費者の注目度も上がっている。一方で、昭和中期にどんな酒が販売されていた

のかといったことに対してもっと目を向けるべきだと思う。

3)特定名称酒について

平成元年(1989)11月に清酒の製法品質表示基準が定められて、平成2(1990

)4月より清酒の特定名称として、純米酒、本醸造酒、特別純米酒などの清酒の製

法による特定名称が適用されている。現在では純米酒を中心に徐々にではあるが、

特定名称酒自体の販売数量は増加していっている。ただし、日本酒全体から見た特

定名称酒の出荷の比率は、普通酒が約75%に対して特定名称酒は約25%(月桂冠

HP2003年度における)となっていて、まだまだ、全体から考えると比率は低い。同

じような事例として、国内のビール風飲料の販売数量を上げることができるが、こ

ちらはビールの販売比率が約54.5%、その他が約45.5%となっている。(平成21

時点)日本酒業界とビール業界の中で、大きな違いと言えばビール業界は、ビール風

飲料とビールを明確に区別しているのに対し、日本酒業界は普通酒と特定名称酒の

区別があいまいになっている。現在、消費者と一部日本酒業界人を中心に純米酒回

帰の動きがあるが、いまだに普通酒と特定名称酒を明確に区別しようという動きが

業界内では見られない。ビール業界は、酒税の関係もありビール、発泡酒、第3

ールとカテゴリーを完全に分化し、それぞれの酒質を向上させることにより、ビー

ル風飲料のシェアを大きく落とすことにはなっていないし、ノンアルコール飲料や

ワイン、焼酎、ウィスキーなども大手は自社ブランドにしていくことにより、総合

的な酒類メーカーとして現在発展していっている。これだけ見ても、日本酒メーカ

ーが日本酒の復権を考えている間に、ビールメーカーは新たな市場の創造を通して

酒類業界の全体の振興を常に考えていると言える。