① 豊臣秀吉の天下統一と醍醐の花見
1)秀吉の経済政策
基本的には織田信長の畿内で行っていた経済政策を秀吉の天下統一により全国に広めていったのが、秀吉の経済政策だった。代表的なものが都につながる七口の関(室町時代からあったもの)を廃止し、公家や寺院、朝廷の資金源になっていたものを断ったことだ。信長の対宗教政策として有名なものが、比叡山の焼き討ちがあり非常に厳しいものだったと言われているが、秀吉の対宗教政策は、さらに厳しく高野山を降伏させたり、根来寺(和歌山県)を焼き討ちしたりした。(実際、根来寺は多くの僧兵や雑賀の鉄砲衆を抱えていて、並みの戦国大名よりも戦闘力があった。)
2)検地・刀狩
学校で教えられる秀吉政策の代表が、検地刀狩りだが、刀狩については天下統一の過程で、兵農分離をすすめ農民の一揆を規制できるようにすることと、農民から武器を取り上げて農業に専念させることで、税収を上げることを目的に行われた。検地については、戦国以前の複雑な土地所有関係を整理し土地制度を一新する目的で行われた。この結果、荘園制度は完全に崩壊し、当時まだ隠然とした力を持っていた貴族や寺院の力をそぐこととなった。当然、寺院における酒造りも以前よりも制限されるようになったことが考えられる。
3)醍醐の花見
1598年3月15日(旧暦)に京の醍醐寺において、近親と大名やその配下の人間を約1300人集めて行われた盛大に行われた酒宴でした。全国各地から様々な産物が集まったようで、この酒宴に献上された銘酒としまして、加賀の菊酒、天野・平野・奈良の僧坊酒、尾道・児島の酒、博多の練貫酒、伊豆の江川酒等だった。この花見から考えられることは、秀吉の天下統一により全国的な水運の流通網がこの頃には整備され、全国的な商取引がある程度可能になっていたと考えられる。この酒宴の酒造りにおける意味は、全国から選りすぐりと言われる銘酒を秀吉傘下の御用商人が飲み比べを行ったことで、江戸期における商業的酒造りの発展のワンステップになったと考えられる。
4)醍醐の花見に置いて全国から集まった銘酒
Ⅰ、加賀の菊酒
白山山麓の菊の群生地を通った水で寒造りで造られたお酒で、当時、加賀の菊酒として有名なお酒だった。
Ⅱ、備前児島の酒
1590年に宇喜多秀家が岡山に入城し、その後岡山に市街地を作るにあたって、児島から岡山市内に酒蔵を移転させた。後年、醍醐の花見の際に宇喜多秀家が持ち込んだ岡山城下で造られたお酒が、備前児島の酒である。2009年に岡山市が政令指定都市になるのを記念し、宮下酒造さんが備前児島の酒を文献に基づき再現した。麹歩合が33%(現在は20%)汲み水歩合が78%(現在は120%)とアミノ酸が高く濃厚な味わいで、二段仕込み(現在は三段仕込み)の為、酸味が高くなり酸が濃厚な味にアクセントを加えた味わいのお酒になったようで、現在も販売されている。
Ⅲ、博多の練貫酒
もち米を使用し、醪を臼でひき潰して造る。甘酒まではいかないが、練り絹のような照りを持ち、ペースト状でねっとりとした甘口のお酒だった。
Ⅳ、河内 金剛寺 天野酒
河内の金剛寺(大阪府河内長野市)で造られていたお酒で、元々は高野山の宿坊であった金剛寺の振る舞い酒として造られていたようだ。具体的には、二段仕込みで造られた澄んだお酒で、現在の日本酒度で考えると-70~80度の甘口酒だったようです。
Ⅴ、奈良 南都諸白
奈良の僧坊酒として造られていたお酒で、1600年代に入ってから伊丹酒が台頭するまで京や江戸で大きなシェアを持ったお酒でした。現代のように麹米と掛米の両方を精米し、段掛法で造られてお酒でした。
以上、現在調べられる範囲で醍醐の花見で使われたお酒について、調べてみた。
この醍醐の花見と江戸幕府開府以降で、伊丹の酒が台頭するなど、酒造りが徐々に寺院から、商人の手へと移っていった。その意味でこの醍醐の花見は、日本で最初の本格的な内国産業博覧会であり、お酒の試飲会であったと言える。