館林城址の紹介も稲荷郭、外郭そして総郭を残しています。これらの郭跡は建物で溢れており、なかなか郭の形を思い浮かべられそうな紹介の仕方は難しいので、館林城の名残りを感じられるポイントを探して紹介したいと思います。

 

そこで今回は「入江堀」を選びました。この名前は私が勝手に付けたものではなく、江戸時代の館林城の城絵図にその呼び名が書かれています。

いつも紹介に使用している「館林城絵図」にも書かれていますが、今回の絵図は「上野館林尾曳城絵図」(出典1)でやはり秋元時代に作成された絵図です。

本丸と稲荷郭の間に「入江堀」と書かれています(赤丸で囲んだ文字)が、どこからどこまでかは不明です。

そこで今回は東は城沼、西は千貫橋(青丸で囲んだ橋)の間を「入江堀」として紹介します。

入江堀は、南東から順に、八幡郭・本丸・二の丸・三の丸・外郭・稲荷郭と城のほとんどの郭と接する城の背骨のような堀です。

こちらは徳川綱吉時代の「館林御城図」(出典1)に描かれた前期館林城です。元々、本丸~三の丸は城沼に浮かぶ島であり、対岸までを含めた城郭化に伴い、この城沼からの入江を巨大な堀として上手く使って城を築いたようです。これは大給松平時代に再建されて秋元時代まで続いた館林城の気品的な形になりました。

 

この堀は現在、埋め立てられて姿を消してしまいました。しかし、第二次世界大戦直後にはまだ堂々とした堀の姿を残していました。これは昭和23年(1948)9月の航空写真です。写真中央部に横長の堀が見えます。(右手の城沼側は早々に干拓されています。)これが入江堀の跡です。江戸時代に比べて堀幅は狭くなっていますが、まだまだ敵を遮る能力は十分ありそうです。

これは本丸跡から館林女子高等学校の校舎を撮影したもので、左に白く光っているのは堀の水面で、その右には校門への橋が見えます。堀沿いには細い道もあったようですが、女子高の正門は敷地の北側(写真の校舎の裏側)ですから、それほどの需要もなかったのではないでしょうか。

         昭和25年頃の校舎 『館女八十年誌』(出典2)

 

この入江堀の現在(2023年1月)の姿を写す航空写真で、堀跡を感じさせる水辺は全くありません。わずかに、他の土地より2~3メートル低くなっている尾曳駐車場と、それに隣接する花菖蒲園がこの地が城沼の一部だった姿を想像させてくれます。

上の航空写真に青い線で書き加えたのは、江戸時代の入江堀と陸地の境目を示したものです。上下二本の線の間に入江堀があり、本丸~三の丸などを囲む堀と繋がっていました。

 

入江堀は「城の背骨のよう」と書きましたが、今はこの堀跡に同じく”背骨のような”道路が通っています。館林城の背骨が「堀」から「道路」に姿が変わり、その変わる過程を見ながら、現在の姿を紹介していくことにします。

 

 

写真撮影:なし

出典   :

出典1  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

出典2  館女八十年誌(群馬県立館林女子高等学校)

その他  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)