館林城三の丸の跡についていろいろと調べる内に、三の丸跡近くにある「竹生島神社」やかつてあった「弁天の渡し」などの館林城の南の水辺に関連するものが出て来ましたので紹介したいと思います。

 

何度もご覧いただいていますが、秋元時代の館林城絵図の一部です。右上が館林城三の丸で、南側は城沼により守られていました。その城沼は三の丸や総郭そして城と城下町を分ける堀と繋がっていました。また、西の方から流れ込むのが鶴生田川(つるうだがわ)です。鶴生田川が城沼に流れ込む手前の北側には弁才天を祀る神社があり、絵図には鳥居と「弁天」の文字が書かれています。その弁天社へは江戸口御門を出た所の堀に沿って道がありました。

神社の周りの土地には「田」という文字が書かれています。江戸口御門から出た日光脇往還脇の湿地帯から徐々に耕作地に開発され、幕末の秋元時代には弁天の周囲まで「田」に姿を変えていたようです。

こちらは文化3年(1806)の館林道見取絵図です。中央に「字城沼」とあり、その下に少し小さく「弁天」と書かれた小島が見えます。これが当時の弁天社です。下部の大道が日光脇往還で、その右の方に「惣門」とあるのが江戸口御門です。弁天社は最初、この江戸口御門を出た鶴生田川北の街道脇に村(谷越村)の鎮守として慶長年間に建立されたそうです。その後、町屋が増えたのでこの絵図の場所に移されました。絵図では弁天社への道が描かれていませんが、江戸口御門を出て直ぐの左側の堀の外側に「野道」と書かれた道の入口が見えます。この道が弁天社への道です。

文化年間の絵図は”浮島の弁天”と呼ばれた姿そのものですが、徐々に周囲は鶴生田川の土砂も堆積して湿地帯から田に変わっていったようです。

明治5年の谷越村見取地図を見ると、弁天社の土地は濃い紫色の三角形で、日光脇往還からの道(赤色)が続いています。日光脇往還との間は田や畑に変わり、沼辺は葭の生える湿地帯になっています。

実は明治5年時点、この土地にあったのは弁天社ではなく、竹生島神社です。

これは明治新政府による神仏分離の政策により、弁才天を祀る社を鎮守とすることができなくなり、明治2年(1869)に近江国琵琶湖の竹生島から竹生島神社を勧請して鎮守としたものです。弁才天は仏教の守護神ですが、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)と同一視されることが多く、市杵島姫命が主祭神の竹生島神社を勧請したものと思われます。

 

その竹生島神社ですが、周辺環境が変化する中、現在も弁天社と同じ場所にあります。

 

五号道路の市役所入口交差点の南手前の西側にこのような石碑が建ち、その脇に参道があります。

石碑には表に「當所鎮守 竹生島神社道」(「當」は「当」)、裏には「明治十二年四月𠮷辰  發願主  関口平𠮷」と刻まれています。ここから長い参道の先に神社の鳥居が見えます。(参道脇の草むらには側溝が隠れていますので、歩く時にはご注意ください。)

参道を進んで鳥居に着きました。境内はあまり広くないのですが、右の方に石碑も2つ見えます。(「館林うどん」は隣地の建物です。)

大きい方の石碑は「城沼耕地整理記念之碑」で、大正15年から昭和2年(1927)にかけて行われた、神社周辺の耕地整理の完成を記念して昭和4年に建てられたものです。この時の館林町長は、旧館林藩士・森谷留八郎の子息の近藤晋二郎さんでした。

鳥居を潜ると、狛犬が出迎え、木々の間に拝殿が見えます。

少し進んだ先には竹生島神社建営碑があり、神社の創建からの詳細が書かれていますので参考になります。碑文の中で「戎屋」という人物が出て来ますが、この方は検断の青山家の隣家の近江商人だそうで、竹生島神社の勧請にはこの方の尽力があったそうです。

拝殿の掲額です。

横から神社を見ると、後ろの本殿が見えました。

 

明治以降、館林城の堀は徐々に埋められ、特に住民の多く住む城下町に近い方がそのスピードは速かったようです。その結果、城郭の南側の水路は鶴生田川の流れに依存したものになりました。そして、城沼に突き出た格好の竹生島神社の地は、城下町と道で繋がっているという重要な場所になり、明治22年(1889)に渡し船の発着所ができました。これを「弁天の渡し」といいます。

時期は不明ですが、尾曳の渡しの絵はがきがあります。(下部に「辨天ノ渡」とあります。)

後ろに見えるのが竹生島神社で、今と同じく東に向いています。水路は境内の端から東南に斜めに向かっています。客を乗せた渡し船が漕ぎだしたところのようです。

例えば、花山(現在のつつじが岡公園)につつじを見に行こうとすると、かなり遠回りの道を行くことになります。(上で見て頂いた館林道見取絵図では江戸口を出て鶴生田川を越えた先に、沼辺を辿る道が「字躑躅山」と書かれた花山に向かっています。遠回りの道です。)

しかし、この渡し船を使えば、城下町からはとても簡単に花山に行くことができます。

 

ところが、この渡しが激変する事態が発生しました。それはこの周辺の耕地整理です。現在の館林駅から市役所に向かう道路の南で、旧日光脇往還の東の地域は湿地帯が徐々に田に変わり、宅地に変わって行きましたので道路も未整備です。更に鶴生田川が屈曲して流れており、その水害も防がねばなりません。

この解決のために行われたのが耕地整理で、この地域は次の絵のように変わりました。右が整理実施前で左が完成後です。昭和2年(1927)の完成から百年近くになりますが、基本的にこの地域の道路はその後全く変わっていません。小学校の敷地も出来て、2年後の昭和4年に館林南尋常小学校(現在の館林第二小学校)として開校しています。

しかし、この耕地整理により、竹生島神社境内まで来ていた城沼に通じる水路は、完成後の一番右の道路-五号道路で止まってしまいました。

しかし、これで弁天の渡しが無くなったわけでもありません。昭和10年の「名勝躑躅ヶ岡・躅ヶ岡公園付近之略図」には、その五号道路の脇から新しい弁天の渡しとしてお客様を花山まで運ぶ航路が描かれています。館林駅まで電車で来たお客にはとても便利だったと思われます。

館林市史別巻『写真で見る館林』には昭和30年頃として「弁天の渡しから船で鶴生田川を通り、つつじが岡に向かう」写真が掲載されています。この昭和31年の地図でも鶴生田川と共に、五号道路脇に弁天の渡しがあった水路も健在な様子がわかります。弁天の渡しからの船が通った水路の方が鶴生田川より幅の広い流れだったようです。

では、その水路の今の姿を見てみましょう。

 

まず、もう一度、竹生島神社に戻ってみます。既にかつての弁天の渡しの面影は全くないのですが、神社から東南の方に水路が続いていたので、その跡を想像して写しました。右手前の建物が本町三丁目会館で、会館の左端の辺りから東南に向けて水路があったと思われます。そうすると会館の辺りが船着き場跡になりそうです。

その先の五号道路までは家が建ち並んでいて調べようがありません。

ということで、五号道路を渡った東側から見てみます。五号道路の東には水路の跡と思われる川があります。五号道路に対して斜めに接し、東南に向けて鶴生田川方向に流れているので間違いないでしょう。

しかし、耕地整理完成図を見ると、城沼からの水路は五号道路で止まっているのに、道路の下を潜るトンネルがあります。この地域は湿地帯なので、耕地整理の際、排水のために道路脇の側溝がたくさん造られました。そこから集まった水の流れかもしれません。

この水路を五号道路側から見ると、水路の北側は廃墟と化していました。「館林製本所」という看板が残っており、館林に印刷所がたくさんあった時代に製本を請け負っていたのでしょう。市の中心部であり、この一角も少し整理が必要です。

この流れを下って行くと、やがて鶴生田川に合流します。合流するのは三の丸芸術ホールの後ろを通過して南面駐車場の西の端の辺りです。

これは芸術ホールの丁度後ろの写真ですが、水路の周辺はとても奇麗に整備されています。

左は鶴生田川、右奥のフェンスが弁天の渡しからの水路です。水路は鶴生田川に対しても斜めに合流してくるので、川との間に三角形の空き地があります。最近までは鬱蒼と茂る竹林でしたが今はすっかり奇麗な更地になっています。

その水路と更地を同時に眺めるのが、藤棚のちょっと東側です。藤棚もそうですが、この辺りは木陰が多く、一休みできるベンチも用意されています。

その辺りを鶴生田川の対岸から見てみます。藤棚から少し東に進んだ所が水路と鶴生田川に合流する地点のようで、水路の出口があります。(鶴生田川の側道を歩くと、この出口の上が盛り上がっているのでわかります。)昭和31年の地図と比べると、合流地点はかなり五号道路寄りに移っています。

 

何度も市内を歩きながら、あまり気に留めていなかった水路でした。調べてみると、地元生まれの方が懐かしそうに話される「弁天の渡し」の跡でした。館林駅から歩いて15分程度ですので、ここから城跡を遠く眺めながら渡し船にゆっくり揺られて花山まで、トータルで1時間以内で着けそうです。

現在もつつじの時期には善長寺の渡しや尾曳の渡しから船が出ますが、弁天の渡しからの航路が一番長いです。一度乗ってみたかったですね。

 

写真撮影:2024年7月17日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史別巻 写真で見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史別巻 館林の寺社と史料(館林市史編さん委員会編)

  館林地図 6館林・谷越(館林市役所制作、中庭測量株式会社調製)

         (昭和31年12月測量)