館林城址の紹介は稲荷郭と外郭が残っていますので、どのように紹介しようかと古い航空写真を見ながら考えていました。複数の写真を並べてみていると、いつの間にか”間違い探し”のように、時間の経過による城跡の変化を探すのが面白くなり、皆さんにもその変化を紹介しようと思いました。使用する航空写真は全て国土地理院のホームページで公開されているものです。(日付は国土地理院ホームページに掲載された撮影日です。)
国土地理院ホームページに掲載されたこれ以前の写真は不鮮明なので、昭和22年の写真からスタートします。
二の丸跡と南郭跡に工場群が建ち並んでいます。工場を最初に建てたのは上毛モスリンですが、第二次世界大戦中は中島飛行機館林工場となり、戦後はGHQに接収されて倉庫になっていました。そしてこの年に神戸生絲館林工場に変わりました。
なお、11月3日というのは明治天皇の誕生日を祝う「明治節」という祝日でしたが、この年が最後となります。次の年からは「文化の日」と新しく命名された祝日に変わりました。
【昭和23年(1948)9月25日】
戦後直ぐは生活再建が急務であり、館林は幸いにも空襲の被害を受けていないので、城址周辺では建物の新築や大規模な工事などは少なかったようです。上の写真の次の年ですが、ほとんど変化が見えません。この写真の中で確認できる館林城の堀跡に印を付けてみました。
①三の丸北・土橋西②三の丸北・土橋東③二の丸&三の丸と外郭の間④本丸と稲荷郭の間⑤本丸と八幡郭の間⑥~⑨外郭と総郭の間⑩城沼(一部湿地帯)
【昭和33年(1958)2月20日】
三の丸の内部が白く写っていますが、これは昭和25年(1950)に野球場が造られたためです。全体的にこれまでの写真よりは白っぽくなっていますが、野球場にするので砂を入れたために一層白く感じられます。また、上の写真の時代からあった八幡郭と尾曳稲荷神社の間の道から分かれるようにして八幡郭の北側に道が出来て、城跡と対岸を結ぶ尾曳橋が出来ました。木製の太鼓橋でした。市街地から花山(つつじが岡公園)に行くのが少し楽になりました。
【昭和35年(1960)11月28日】
昭和22年の写真を見ると分かり易いのですが、三の丸の南側に少し離れ、左の五号道路近くにプールがありました。それが無くなり、三の丸に新しい市民プールが昭和33年8月に完成しました。場所は野球場のレフトの位置の後方になります。この写真では野球場のライト、レフト方向に引かれたファウルゾーンを示すラインもはっきり判別できます。
【昭和39年(1964)5月8日】
三の丸北・土橋西の堀が埋め立てられて消えています。いよいよ城の形が変わり始めました。また、尾曳橋は前年3月にコンクリート製に架け替えられましたが、写真でそこまでは分かりません。
【昭和44年(1969)4月20日】
高度経済成長の真っ只中で、城跡の変化も増えて来ました。まず本丸と稲荷郭の間の堀が埋められて、道の幅が広がりました。二の丸と外郭の間の堀はまだ健在ですが、こちらも徐々に姿を変えるものと思われます。堀が消えたことと関係するのか、隣接する館林女子高では校庭の東端に体育館が新築されました。
その他にも外郭と総郭の間の堀が、西の端で少し、また尾曳稲荷神社の北の方で長い区間が埋められて平地になったようです。本丸と八幡郭の間の堀も、時期は不明ですが姿を消しています。
更に城跡の城沼側の湿地帯も、三の丸南から尾曳橋にかけて埋められ、ほぼ現在の形が出来上がっています。その中には五号道路から尾曳橋に続く道が造られましたので、花山(つつじが岡公園)にとても行きやすくなったと思います。
また、昭和39年から城址対岸の三軒屋(現在のつつじ町)に団地が造成するなど開発が進み、家が増えています。
【昭和48年(1973)5月12日】
この年の3月から文化会館や図書館の建設が始まりました。三の丸の工事の様子ははっきりしませんが、まず三の丸北側の堀が埋められました。また、二の丸と外郭の間の堀も幅が狭くなり、代わりに館林女子高南側の道が広くなりました。これによって自動車の交通量が増え、尾曳橋にも幅の広い橋が増えています。他にも外郭と総郭の間の堀が姿を消すなど、城跡の形も徐々に不明瞭になって来ました。館林女子高にはプールが出来たようです。
【昭和50年(1975)1月29日】
三の丸の文化会館・文化会館大ホール・図書館は昭和49年9月に完成しました。文化会館大ホールの北側には大きな駐車場が造られました。
また、三の丸にあった野球場は現在の南面駐車場の場所に移設されました。ここでは翌昭和51年7月に川上哲治野球教室が開かれています。
【昭和55年(1980)10月2日】
この年の2月から市役所の新庁舎が二の丸(一部、三の丸)跡で着工されました。建物の姿も見えてきており、南から東に回る道路は既に完成しています。これに伴って、旧上毛モスリン事務所は現在の第二資料館の場所に曳家で移転され、二の丸と外郭の間の堀が消えて館林女子高の校庭が拡張されました。
また、昭和51年から行われた鶴生田川改修工事の結果、城跡南側の旧湿地帯も公園として整備され、鶴生田川も現在の姿に変わりました。
【昭和56年(1981)10月17日】
広域の写真から切り出しましたので、余りはっきりしませんがご容赦ください。
この月に市役所新庁舎が完成しました。この工事の一環で、市役所と文化会館の間の道が真っ直ぐに北に抜けるようになりました。また、この年の12月には第二資料館が開館しますので、事務所や田山花袋旧居らしきものが写っています。
【昭和60年(1985)5月16日】
昭和57年に二の丸橋が完成し、この年の4月にふれあい橋が完成しました。その、ふれあい橋から尾曳橋の間の鶴生田川左岸のつつじが岡第二公園の整備され、子供も楽しめるアスレチック広場が出来ました。また、南面にあった野球場も城跡対岸の現在地に移されたようです。
【昭和61年(1986)10月31日】
本丸跡では田山花袋記念文学館の建設が進んでいます。この月には新しい歩道と車道が一体化した現在の尾曳橋が完成し、対岸には6月に完成した市民プールが見えます。南面駐車場などの城跡南側の公園整備も進み、写真撮影の3日後に開館する三の丸芸術ホールが写っています。
【平成6年(1994)11月10日】
上の写真からの8年間で城跡は大きく変わりました。まず、昭和62年(1987)4月に田山花袋記念文学館、平成3年(1991)5月に子ども科学館(現・向井千秋記念子ども科学館)が相次いで本丸跡に開館しました。そして、二の丸・南郭跡にあった神戸生絲館林工場が平成5年6月に解体・撤去され、現在は館林城ゆめひろばとして各種イベントで活用されています。
また、尾曳稲荷神社と旧八幡郭の間の江戸時代は入江堀だった湿地帯が整備され、尾曳駐車場になり、駐車場南側には菖蒲園が造られました。
【平成21年(2009)4月27日】
平成6年の時点で城跡周辺の整備は完成したようで、その後の大きな変化は見られません。
なお、この写真が4月後半に撮影されましたので、幸いなことに鶴生田川に架けられた鯉のぼりが写っています。平成16年には鯉のぼりの数が5283匹でギネスブックに認定されました。
【平成22年(2010)4月25日】
ほぼ現在と同じ姿です。新緑が萌え始める季節です。
【令和5年(2023)1月20日】
ほぼ現在と同じ姿ですが、冬枯れの季節です。毎年、館林城の城跡は上の写真とこの写真の風景をグルグル回っています。
最後にもう一度、昭和22年(1947)と令和5年(2023)の航空写真を比べて、館林城址の変化をご確認ください。残ったもの、消えたもの、それぞれに歴史がありました。
【昭和22年(1947)11月3日】
【令和5年(2023)1月20日】
最初に思ったより、書き始めたら長々としたものになってしまいました。ここまで読んでいた開けたら、ありがとうございます。
写真撮影:なし
参考文献:
地理院地図/GSI Maps(国土地理院)