三の丸を取り囲んでいた堀や土塁の跡を紹介してきましたが、紹介の区切りとしたのは三の丸跡に出入りする道でした。二の丸との境の堀跡が変じた道から始めて、三の丸を時計回りに回って来で、最後になったのが市役所エリアと文化会館エリアの間の南北の道です。

 

ところが、実はこの道は昭和50年代に出来た新しい道で、先に紹介した「館林城址~三の丸跡・北側の堀」(6月30日)でも触れましたように、江戸時代の館林城の堀跡を使用したものです。しかし、それ以前から館林城址には上毛モスリンなどの工場がありました。では、どこから城跡に入ったのか?

江戸時代の館林城三の丸に入る道は2つありました。1つは土橋門からで、もう1つは広小路から橋を渡って丸戸張門を入り、蔀土居に沿って進むと正面に見える千貫橋を渡り、千貫門を潜って三の丸に入る道です。この千貫門を通る道が城主が出入りする城の正門でした。

古環境復元図に現在の道を赤い線で追加したのが次の図で、この道筋は今も公道として残っています。明治7年の大火で館林城の多くの建物が焼失し、千貫橋も失われました。しかし、その後に広小路から三の丸への道として造られたのがこの道です。

こちらの昭和31年の地図にも焼失した千貫橋が土の橋として復活し、千貫門跡から三の丸跡に入っています。

ではこの道はいつできたのでしょう?

上毛モスリンが館林城址に移転を決めて新工場の建設を始めたのが明治41年ですので、その作業のために必要な道として整備されたと思われます。(新工場の開業は明治43年)

そして、明治42年に開業した東武鉄道・館林駅からは資材や製品の運搬のためにトロッコ軌道が敷設されました。

これは大正2年9月に発行された「館林町商工業名家案内図」(以下、名家案内図)に掲載された上毛モスリンの写真です。右の方に見える大きな建物は上毛モスリンの事務所(現在、館林市第二資料会で保存・展示)で煙突の場所から考えて、千貫橋跡から三の丸跡に入った辺りで撮影されたものと思われます。既にトロッコ軌道が写っています。

ちなみに古環境復元図の広小路から西(左)に向かう道もこの時に新設されたもので、名家案内図には「モスリン新道」と書かれています。ある年齢以上の方には今も通じる名称になっています。

このモスリン新道は館林城址から館林駅まで繋がる道で、途中、大辻で日光脇往還と交差します。その先の火の見櫓を過ぎた辺りの写真にもトロッコ軌道が見えます。

 

では、丸戸張門から入り、千貫門を潜る道の後裔である千貫橋跡を通る道の跡を歩いてみることにします。

 

市役所北側のコンビニがある五差路です。この交差点自身が丸戸張門前の土橋の跡になります。

そして、五差路の中で道幅が一番狭く(一方通行です)車の通りがほとんどない道を入った辺りが丸戸張門跡です。正面に2階建ての建物があり、まるでそこにあった蔀土居のようです。

その”蔀土居のような”建物に沿う形で道は右に折れます。

もう目の前には千貫橋と千貫門の跡が見えます。

古環境復元図によれば、横断歩道の辺りから千貫橋が始まり、奥の茶色の建物の辺りが橋の終わりで、千貫門の跡になります。

少し右に移動してみます。大きな木が2本立っており、その先が千貫門跡と思われますが、千貫門跡の碑は手前の道際の目立つ場所に建てられています。

石碑には藤牧義夫(館林出身)が描いた館林城の絵と千貫門を紹介のレリーフが埋め込まれています。ただ、この紹介の中で千貫門の内側に蔀土居があったのが城絵図等で確認できると書かれていますが、残念ながらそのような城絵図にまだ出会えていません。(同じ三の丸の土橋門には現在も蔀土居が健在です。)

千貫橋と千貫門跡の辺りを横から見てみます。茶色の線が千貫橋のイメージで、白枠は千貫門です。(千貫橋が石碑より手前になってしまいましたが、実際は石碑より奥にありました。)千貫橋は明治の消失時の記録によれば長さが14間だそうですから、大体25メートルくらいになります。

同じ所を撮影場所を変えて、少し城内側から。左奥の(小さくてすみません)進入禁止の標識(赤に白い横線が入る)がある所から、右の茶色の建物の間に千貫橋があって、右の白いポールの標識の辺りが千貫橋跡になります。

館林城ジオラマではこの周辺をこのように表現しています。右のカッコイイ渡櫓門が千貫門で、その前に千貫橋が架かっています。

丸戸張門からの道が千貫門まで辿り着きましたが、その千貫門跡辺りをもう一度見てみましょう。

この写真に写っている道は昭和50年代に造成された堀跡の道です。しかし、途中からは昭和31年の地図にも描かれた、三の丸を北から南に縦断する道です。では、どの辺りからでしょうか?

そのヒントになりそうなのは、上の写真の道の脇にある、奇妙に短い歩道です。道路設計にはいろいろな都合があるのでしょうが、どうせならここで切らずにもっと長い歩道を!とも思います。

想像するに、この歩道の反対側は駐車場で車の出入りがあって危険なのでここに歩道を作った。そして、その先は道の反対側、すなわちカルピスホール(文化会館大ホール)の後ろ側に歩道を作りました、とも考えられます。

しかし、実際には、上の堀跡の道が出来るまではこの歩道が切れたところまで千貫橋跡を通った道が来て、その先は昭和31年の地図に書かれた南北の道だと考えられます。

試しに歩道を進んで振り返ると、丸戸張門からの道を出てくる赤い自動車が見えました。もう少しで千貫橋跡に差し掛かります。道が無いので不可能ですが、そのまま直進すれば歩道の切れる辺りに着きそうです。

ここが短い歩道の終点の出口です。木や建物があって見難いのはご容赦いただくとして、茶色の建て物の向こう側に丸戸張門からの道があります。そこから真っ直ぐにこの場所まで続く道を想像しながら昭和31年の地図を見てください。

地図に「千貫門跡」と書き込んだ辺りが、丁度この歩道の終点周辺になり、ここに向けて丸戸張門から千貫橋や千貫門を通った道が来ており、左の道はまだ堀の中です。

その道はいつ消えたのでしょうか?

三の丸跡が大きく変化したのは昭和48年(1973)の文化会館や図書館の新築です。これにより三の丸北側の堀が消え、矢印の所に駐車場が出来ました。

しかし、昭和50年(1975)10月撮影の航空写真では道に変化はなく、矢印の駐車場は現在より東側に張り出していました。北側堀跡にはまだ道は出来ておらず、空き地状態で次の工事を待っているような状態でした。

 

次の契機として考えられるのは昭和53年に着工し、昭和56年に完成した市役所新庁舎建設です。この時には新庁舎北側の堀も道路に姿を変えています。想像ですが、新庁舎整備事業の一環として、丸戸張門前の五差路から真っ直ぐに三の丸に向かう、堀跡を使った道が出来たように思います。

 

結局、大型自動車も通れる幅の広い道が出来たおかげで、丸戸張門から千貫門へという城主が通った館林城の正門の道が静かな環境で残されています。この道により、かつての千貫橋や千貫門の姿を思い浮かべることができるというのは嬉しい限りです。

 

 

写真撮影:2024年6月29日、7月11日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 資料編3 近世Ⅰ 館林の大名と藩政(館林市史編さん委員会編)

  館林市史別巻 写真で見る館林(館林市史編さん委員会編)

  上毛モスリン株式会社史(小堀直人著・発行)

  館林地図 6館林・谷越(館林市役所制作、中庭測量株式会社調製)

         (昭和31年12月測量)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)