二の丸との境の堀跡から三の丸の紹介を始めて、土橋門跡~千貫門跡の土塁と堀の跡でほぼ一周します。(厳密には千貫門の東側も堀に面していましたが、その部分は外郭+稲荷郭南の堀と一体にして別に紹介することとします。)

 

今回紹介するのは左の土橋(そのまま土色)と右の千貫橋(木橋なので赤く着色)の間の堀の跡です。土橋の脇に「堀巾十間」と書かれているので約18メートルです。千貫橋が明治7年に焼失した時の報告書には橋について「長サ拾四間 巾三間半」と記録してありますので約25メートルになり、堀の幅も同程度だったと思われます。途中の曲がった辺りから堀の幅が広くなったと考えて良いのでしょう。

ちなみに古環境復元図では城絵図とちょっとイメージが違って、土橋門から堀幅がどんどん広がっています。

しかし、昭和31年の地図を見ると城絵図に近い形になっています。確かに明治以降、堀は次第に狭まって行きました。ただし、その場合は水田や湿地となる場合が多く、新たに土塁を築くことはありませんでした。下の地図の三の丸から堀に張り出した部分が古環境復元図とは一番異なりますが、そこは土塁でしたので、城絵図に描かれた江戸時代の堀の形が残っていたと考えて良いでしょう。堀端の細い道が堀を囲んでいます。

もちろん、昭和22年の航空写真にも同じ形の堀が写っていました。(東側堀跡と書いた部分です。)堀南側の土塁も健在で、土橋門から千貫門跡の脇まで繋がっています。現在の土塁は土橋門から千貫門に向かい、ほぼ直角に曲がる所までが残り、その先は堀跡と共に文化会館大ホール(カルピスホール)北側の駐車場に姿を変えています。

在りし日の堀です。(昭和10年(1935)撮影)土橋門と両脇の土塁、土塀、そして土橋があります。これらが堀の水面に写り込んでいるのが良いですね。土橋の傾斜も江戸時代そのものを感じさせてくれます。

その堀ですが昭和48年(1973)5月12日撮影の航空写真では土塁と共に姿を消しています。でも、何となく工事中みたいですから、姿を消して間もないようです。同じく三の丸の図書館・文化会館エリアも工事中ですね。実はこの年の3月に文化会館や図書館の新築工事が始まっています。その工事の一環で堀が埋められ、土塁が途中から崩されて駐車場に姿を変えたと思われます。(土塁の土は堀を埋めるのに使われて、駐車場の下に残っているのでしょう。)

それらが完成した昭和49年(1974)9月の写真では、大きなカルピスホールの左側に整然と自動車が並んでおり、そこが堀跡の駐車場です。(赤矢印で指した所)

カルピスホール脇から現在の駐車場を見てみます。左の茂みは土橋門脇の土塁や蔀土居に繋がる土塁です。土塁はその切れた所でほぼ直角に曲がり、右に見える自動車の方に向かい、その先の木立の辺りに続いていました。そこが千貫門跡です。

また、駐車場の中を横切った土塁の向こう側が堀跡です。大雑把ですが、駐車場の手前半分が三の丸跡で、奥の方の半分が堀跡ということです。

 

では、その堀跡を土橋門から辿ります。

突き当りに館林城の説明板があり、その前の左右の道が土橋の跡です。右の木立は土橋門脇の土塁にあるもので、そこから左の桜の木の左辺りまでが堀巾になります。そして、桜の木の左にある、奥の方に向かう道が堀端の道になります。

土橋の跡から見た堀跡です。右が土塁で左が堀端の道です。この辺りが城絵図に「堀巾十間」と書かれているところになり、本来であれば堀跡全体を見渡せる筈ですが城町南の自治会館が目隠しになっています。(手前には小さな児童公園がありますが、子供が遊んでいるのはなかなか見かけません。)

その自治会館の先に回ろうと思い、堀端の道を通ります。城絵図に描かれたような真っ直ぐな道があります。

堀端の道をちょっと進んで、振り返ると土橋門と土塀が見送ってくれていました。

ほぼ同じ位置から撮った昭和40年(1965)の土橋門周辺です。門に屋根がない、「黒門」と呼ばれて時代です。昭和31年の地図にあるように土塁側にも道がありました。

自治会館を飛び越えた所から撮った堀跡です。見える限りの舗装された駐車場は、全てが三の丸北側の堀の跡です。城絵図などと比べれば、左側の直線に続く植え込みが堀端の道に沿っており、それは正面にある外壁が白い切妻の家の前で折れて右に向かっています。堀端の道も一緒に曲がっています。そして右にある白いビルの向こう側が五差路の交差点で、丸戸張門前の土橋がありました。そこから右の木立に沿って堀端が続き、堀は千貫橋を潜ります。

駐車場を進むと、右側の土塁が終わります。その土塁の先から振り返ると、右側が堀跡で左側が三の丸跡になります。

そこで曲った土塁は奥の高い木の方に真っすぐに向かっていましたので、写真に写っているのはほぼ堀跡になります。この駐車場は左の方に向けて徐々に低くなっているのですが、それは堀を埋めて造られたためです。

それは駐車場の堀跡に造られた部分に立ってみるとよくわかります。右に見える土塁の先と左の植え込みの辺りを結んだ線が土塁の跡で、そこから手前が堀跡となり傾斜があります。

今度はその土塁の向かった先から堀跡を見てみます。この日の前日には雨が降ったので、奥に停まった自動車の右の方に水たまりが残っていました。土地が低いことを示しています。国土地理院の地図で計測すると、土塁があった場所と自動車が停まっている辺りの標高差は今でも50~60cmくらいあります。堀はしっかり埋めたけれど、奥の方は堀端の道に合わせたので差が発生したのではないでしょうか。

駐車場の東北の角になります。ここで堀端の道は再び折れて丸戸張門前の土橋跡に向かいます。つまり、目の前のこの木も堀跡に生えているということになります。

その丸戸張門跡から堀跡を振り返ります。奥に堀跡の駐車場(右半分はビルの陰)があり、右のビルの直ぐ脇までが堀跡です。目の前の道路や左の歩道も堀の跡ですから昭和31年の地図には描かれていません。

 

この堀跡の駐車場は文化会館や図書館に来た人に良く使用されています。目的の施設に近いのでカルピスホール側から埋まっていき、何かイベントがないと堀跡側は結構空いています。その一因として、雨が降ると水が溜まりやすく、大雨の時などは車が止められないほどになってしまうことがあります。でもこれから水が溜まったのを見た時には、「堀跡が堀に戻っている」と秘かに楽しむことにしましょう。

 

 

写真撮影:2024年6月29日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 特別編 第4巻 館林城と中近世の遺跡(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 資料編3 近世Ⅰ 館林の大名と藩政(館林市史編さん委員会編)

  館林市史別巻 写真で見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林地図 6館林・谷越(館林市役所制作、中庭測量株式会社調製)

         (昭和31年12月測量)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)