訂正2024.7.2

このブログで紹介した堀の消滅時期について、最初は次のように書いていました。

「昭和44年(1969)館林商工会議所が作った館林地図にはまだ掲載されており、昭和48年(1973)の「日興の住宅地図」にはありませんので、その間ということになります。」

しかし、他の航空写真(昭和39年(1964)5月8日撮影)を見ている時に、既に堀が消えていることに気が付きました。消滅時期については、現時点入手した資料では昭和31年から昭和39年の間という表現にします。

商工会議所作成の物は新たに測量をしたわけでなく、既存の地図に公共機関や商工業者の情報を書き込んだもののようです。地図の解釈には注意が必要ですね。

ちなみに、この間に起きた三の丸関係の出来事ですが、昭和33年4月に市営プールが完成しました。堀とプールはいずれも水に関係しますが、関係があるのでしょうか?

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前々回、「館林城址~三の丸跡・西側の堀跡から見る土塁」で土塁とその外側の堀跡を紹介しました。

今回はその堀跡について、少し詳しく紹介したいと思います。

 

今回紹介するのは三の丸の西側の赤枠で囲った部分と、その右の土橋西の堀跡です。この2つの堀の消滅の時期は異なるようです。

 

まず、赤枠で囲んだ部分ですが、大正15年(1926)に開始された城沼耕地整理の完成記念図を見ると、すでに堀の姿は消えています。(完成記念図自体は昭和4年(1929)に作成されていますが、「整理施行前地形図」として大正15年の姿が描かれています。)

上の古環境復元図とは描かれている範囲が違うのですが、ほぼ同じ範囲を赤枠で囲みました。赤枠の中には赤字で「三ノ丸」と字名が書かれ、堀が姿を変えた小川が古環境復元図に描かれた堀の形とそっくりです。(上の方で左に曲がっている。)

これにより、大正15年の耕地整理開始以前に既に西側の堀は細流に姿を変え、大部分が埋め立てられていたと思われます。

では、いつ姿を変えたのかというと館林市史に収載された史料からは特定できませんでした。大正3年(1914)の「館林みやげ包紙」や昭和9年(1934)の「花の都 上州館林大観」にも三の丸が描かれていますが、これらにも三の丸西側の堀は描かれていません。なお、これらに比べて耕地整理完成記念図の信頼性は高いと思いますので、ここでは「大正15年以前」としておきます。

 

次はそこに続く土橋西の堀ですが、この堀は長く残りました。

これは昭和22年(1947)に米軍が撮影した航空写真ですが、土橋西側の堀が写っています。

そして昭和31年(1956)の地図にもほぼ同じ形で堀が記載されています。

ではこの堀はいつ姿を消したのか?

昭和39年(1964)5月8日撮影の航空写真には堀が写っていませんので、昭和31年から39年までの間のいずれかの時期にこの堀は消滅したようです。(丸囲みの所が堀の跡)その代わりというわけではないでしょうが、三の丸の中には市営プールが新たに造られています。堀は無くなりましたが、こちらで泳ぐことができますね。

 

では、堀の跡を赤枠の下の辺りからスタートし、土橋に向かって進んでみたいと思います。

 

右の土塁が三の丸で、ここに写る歩道の部分がほぼ堀の跡です。

三の丸西側の堀は三の丸の西北辺りで、総郭を北上する堀と、土橋門の土橋に繋がる堀に分岐していました。正面に二階建ての家があり、その辺りから三の丸の北側を通って土橋に繋がる堀が始まります。

二階建ての家の後ろに写真屋さんがあります。堀跡はその辺りから左に曲がって五号道路を斜めに横切り、鷹匠町の通りに交わった所で右に折れて、五号道路と並行に北に向かいます。

その五号道路を斜めに横切った辺りから写真を撮っています。二階建ての家を過ぎて、左の写真屋さんの辺りから、写真を撮っているところに向かう堀がありました。丁度、ゼブラゾーンの白線のような角度で五号道路を横切ります。

実はこの写真屋さんの建物も堀跡に建てられたもので、こちらは土橋に続いている堀の西の端になります。(土橋は写真屋さんの建物の後ろの方になります。)

その証拠に、写真屋さんの土地と、その北側の駐車場の土地には大きな段差があるのが分かります。

この段差の境界線が三の丸北側・土橋西の堀の北側の岸となります。はっきりとした段差の境界線が今も残っているのかは個人住宅が続くので確認が難しいのですが、堀跡の地上に建てられた建物の姿を見ると分かる点もあります。写真屋さんの建物の後ろの方に東西に長いマンションがあり、写真屋さんの建物に比べて少し斜めに曲がって見えます。(曲がっているので建物の後ろが見えるのですが)昭和31年の地図で確認していただくと分かるように、堀は土橋に近づくと少し北に折れます。その折れ具合とマンションの曲がり具合が似ています。

次にはその堀跡を別の角度からご覧いただきたいと思います。

 

その前に余談。写真屋さんの北側に駐車場があり、更にその北側には民家が建ち並んでいます。その辺りが江戸時代の館林藩の「会所」の跡になります。会所とはいろいろな奉行や同心・手代などが詰めて政務を行う役所です。白洲があって裁判も行われていました。

こちらは三の丸の土塁の上から見た、土橋西の堀跡です。東西に長いこのマンションの建物と駐車場が、昭和31年の地図に描かれた堀に相当します。三の丸の北側の形に沿って、途中で折れ曲がっているのが地図とそっくりです。

 

では、今度は堀の跡を土橋の方から見てみましょう。

正面が土橋門で、門から手前にかけて舗装の色が何度か変化します。その一番手前の変わり目の線の辺りまで、土橋門に通じる土橋がありました。

その土橋跡から堀跡を見てみます。

まずは三の丸に近い方から見ますが、土塁下の道とマンションの駐車場です。道の方は一早く堀を埋めて造られたものと思っていましたが、古環境復元図を確認すると、写真に写っている範囲の道は土塁を削って道にした部分もあるようです。(三の丸西側の道は、堀を一気に埋めて造られたのか、堀跡になっています。)駐車場の方は昭和31年時点では堀で、奥の突き当りまでがその範囲です。

マンションの建物は完全に堀跡に建っています。

マンション後ろの遠目に見えるのは五号道路沿いにある写真屋さんの建物です。本来はマンションの陰に入って見えないのですが、このマンションが五号道路に対して斜めに建っているから見えるのです。(昭和31年の地図で、堀の傾きをご確認ください。)

 

これで土橋までの堀跡の紹介を終わります。土橋に近い所の堀は住宅地として完全に姿を消したようです。

また、三の丸西側の堀は、大正15年に始まった城沼耕地整理までは小川のような流れで残っていましたが、その流れがあった場所には五号道路が出来て、再び姿を変えました。耕地整理完成記念図の完成後には五号道路が描かれ、平行に南に向かう川が描かれています。完成図には矢印の所から突然始まっていますが、これは五号道路の下を潜り、ここから地上に姿を現しているのを表現しているのではないかと思います。

その川はその後の歩道拡張などによりまたまた姿を変え、現在は地上からは見えなくなってしまいました。もしかしたら、今もこの歩道の下を流れているのかもしれませんね。

 

写真撮影:2024年5月10日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史別巻 写真で見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林地図 6館林・谷越(館林市役所制作、中庭測量株式会社調製)

         (昭和31年12月測量)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)