三の丸は南を鶴生田川が流れ込む城沼により守られ、他の3方向は堀に囲まれています。そして、二の丸境を除く周囲にはその堀や沼から掻き上げたと思われる土塁があります。その土塁の上には土塀や木柵が備えられて、三の丸を守っています。

木柵が建てられていたと思われる土塁の跡については既に紹介を終えましたので、今回は土塀が建てられていた土塁とその外側の堀の跡を紹介します。紹介するのは、木柵のある土塁から続く、土橋門(三の丸西北に架けられた土が乗せられた橋がある門)までの土塁上に土塀のある区間になります。

こちらは昭和31年の地図に今回紹介しながら歩く道を茶色で記入したものです。68年前の地図ですので、いろいろと変化はありますが、この道の形はほとんど変わっていないようです。土塁の外側の堀跡に造られた道です。

航空写真で現在の姿を見てみると、道は同じように存在しますが、三の丸南側の水田は道路や南面駐車場などに変わり、三の丸芸術ホールもあります。

では、この堀跡の道を、傍らの土塁を眺めながら進んでいきましょう。(土塁跡が夏には草木で覆われるので、真冬に撮影した写真を使用します。)

 

スタートは上の写真でいえば茶色の道の一番下、文化会館大ホールや土橋門へ続く道の入口付近です。黄色い車止めのある方が大ホールに続き、赤いコーンが建っている道は土橋門への道です。その道を越えた所が土塁跡のスタートですが、この辺りの土塁は高さがあまりないです。

そして、左側の通路が堀跡に造られた道になります。今まで見ていただいた地図や写真に描かれたように真っ直ぐな道があります。(城絵図では土塀の乗った土塁は最初に短い部分があり、一度折れてから真っ直ぐに伸びています。この入り口を造るために土塁が消えた所が最初の短い部分と考えれば、やはり江戸時代の形に近いということになります。)

その真っ直ぐな道ですが、ここだけ特別にレンガが敷かれています。右に土塁跡が迫り、この道から左はかつて城沼の一部で、堀の代わりをしていました。

この道の中程を土塁の姿がわかるように横から撮ってみました。土塁は徐々に高さを増していきます。

この道を真っ直ぐ進むとやがて五号道路に突き当たってしまいますので、その手前で右に折れます。昭和31年の地図を見ていただくと分かるのですが、丁度その辺りに土塁の上を歩いて渡れる通路がありました。三の丸跡は地図に書かれているように「三の丸公園」として一般に開放されており、城跡の西側から公園に入るのに便利な通路だったようです。

昭和30年の写真には三の丸を歩く人の姿があり、遠くに三の丸の東にある神戸生絲の工場や現在の図書館(地図には「野球場」)の南にある土塁が写っています。地図に当てはめると、この土塁の上の通路を通って来た、神戸生絲の社員か県立館林女子高校の生徒のような気がします。散策というより「どこかに向かう」という感じがします。

その土塁の上の通路は今はありませんが、土塁外側からの登り口の階段が残されています。この三段の階段を見て意味が分かる人は少ないでしょう。まあ、土塁の上を通る道があったのか?と考えるしかありませんが、現在ではちょっと驚きです。実は昭和33年には三の丸公園に市民プールが完成します。その頃にはプールに向かうたくさんの子供たちが、この階段を駆け上ったことでしょう。

その登り口の前でレンガ敷きの道が終わり、右に折れた堀跡の道は五号道路と並行に北に進みます。(この部分だけ写真が無かったので5月に撮りました。土塁の上は緑が溢れています。)この辺りから城沼ではない堀の跡になり、高い土塁が続きます。

少し進むと五号道路と離れて、更に右に回り込むように曲がっていきます。

左の家も、正面に見える建物も、元は堀だった所に建っています。

この部分が三の丸の北西の隅の土塁になり、ここで道は曲がり土橋門に向かいます。

曲がった先には土橋門の脇に設けられた土塀が見えて来ます。土塀の建てられている土塁は『館林実記』に書かれているように、ほぼ2間(約3.6メートル)の高さがあるように見えます。(正確には測っていません。)土橋門までの道のこのカーブに特徴があり、もしかしたら横矢を少し意識した設計かも知れません。このカーブの左側には現在はマンションが建っていますが、昭和31年時点では堀が残っていました。(地図参照)

もう少しで土橋門です。この辺りの土塁もまだ高いです。

土橋門は右の土塁の陰に隠れていますが、堀跡の道の突き当りにある説明板の前こそ、「土橋」の跡になります。

終着の土橋門です。(土橋門についてはこのブログの一番最初(2021年9月15日~20日)で紹介したので、ご興味のある方はそちらをご覧ください。)

土橋門脇の土塁を見上げると、鎧を着て、重い武器を持ち、城内からの攻撃を避けながら登る自信は全くありません。しかも、その手前には堀があります...

 

次回は三の丸の内側から見た土塁跡の紹介をしたいと思っています。

 

最後に、大正12年に撮影された土橋門の写真がありますので、当時の土塁の様子もご覧ください。(現在の門とは異なる、大正7年に復元された土橋門です。)土橋の両側に堀が残っていましたので、水があふれるのを防ぐ土塁が土橋の両側に造られていました。

 

注:ネーミングライツにより、館林市文化会館大ホールは「カルピスホール」、三の丸芸術ホールは「日清製粉ウェルナ三の丸芸術ホール」が現在の名称です。

 

写真撮影:2023年12月30日、2024年5月10日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 特別編 第4巻 館林城と中近世の遺跡(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 資料編3 近世Ⅰ 館林の大名と藩政(館林市史編さん委員会編)

  館林市史別巻 写真で見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林地図 6館林・谷越(館林市役所制作、中庭測量株式会社調製)

         (昭和31年12月測量)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)