さて、三の丸の「南中央土塁」とはどこか?

元々、そのような呼び方があったわけではないので、写真で説明します。

 

白い枠で囲んだのは前回紹介した「図書館南の土塁」跡です。その西の端は図書館や文化会館へ上る坂道に面しています。今回紹介するのは、その坂道を越えた西側のピンクの枠で囲んだ区域です。この区域の西の端には文化会館大ホール(現在は「カルピスホール」と名付けられている)や土橋門への道があります。これら2本の道を造るために土塁が虎口のように切られていますが、その間に残る土塁跡を見ていきたいと思います。

 

では、図書館や文化会館への道からぐるっと回りながら紹介を進めます。

手始めに、その道を坂の上から。結構急な坂で、自転車に乗っている時には立ち漕ぎでないと登れません。(私は...です。)この場所がかつて城内と城外(城沼の湿地帯)の境目であったことを教えてくれる坂でもあります。右の木立の中に土塁跡があります。

その坂を下りて、ピンク枠で囲った区域の全体の姿を見てみましょう。その前に、下ったところには館林ふるさと自慢百選の碑があります。絵札は「ゆ」で、徳川綱吉の肖像画と「夢はるか 二十五万石 綱吉公」と刻まれています。綱吉にとって将軍は夢だったのか?そうであれば、夢を叶えたことになります。

これが坂下から見た全体の景色になります。道路際に木が五本生えており、一番左の木の先に土橋門などに通じる道がありますので、そこまでの土塁跡の紹介になります。

この中央辺りの土塁が城絵図によっては城沼に一番迫り出していたようにみえますが、道路や歩道を造るために削られるなどして、少なからず形が変わっているようです。それでも、土塁跡らしい盛り上がりは残っています。歩道側に面して崩落防止の石垣がありますが、これは江戸時代のものではなく昭和以降のものです。

その土塁跡に近寄ってみます。再建された館林城の姿が書かれた『館林実記』には、三の丸の土塁の高さは「弐間」(約3.6メートル)とありますので、ここにも高い土塁があったことになります。

少し先に進んでみましょう。この一番高いところを測ったら、おおよそですが3メートルくらいありました。高さ二間の土塁というのはこれに少し足したくらいですから、上に生えている草の丈を足した高さに近いですね。

図書館南の土塁の紹介で使用した三の丸の地図です。(昭和31年測量)図書館南にある自転車置き場に隣接した土塁が高いと紹介し、今も実際にご覧いただけます。地図を見るとここの土塁も同じ等高線上にありますので、昭和31年の時点ではここにも図書館南と同じくらい高い土塁跡があったということになります。

なお、『館林実記』には三の丸について「沼水より地形壱丈」とあり、壱(一)丈は約3メートルです。つまり、城沼の水面から土塁の頂上までは約6.6メートルあったことになります。道路自体が城沼の水面からは高くなっているのでこの程度ですが、江戸時代の三の丸の土塁を沼から見ると、この倍の大きさで立ちはだかっていたことになります。簡単には登れないですね。

また、少し進みます。徐々に土塁跡はなだらかに低くなっていきます。

そして、土橋門や文化会館大ホールへの道によって土塁跡は一度遮断されます。

その道の入口脇の土塁跡上に館林市指定文化財「史跡 館林城跡」の石碑が建っています。

この上り坂は長さが長い分、図書館への坂より勾配はなだらかで、自転車でも普通に上れます。道の先に見えるのは文化会館大ホール(現在の名称はカルピスホール)です。

その道を登り更に曲がった先には、土橋門にある蔀土居とその上にある土塀が姿を現します。

ただし今回はそちらには向かわず、右に折れて今まで紹介した土塁跡の内側(城内側)を見ていきます。

すると最初に2つの石碑が姿を見せます。右に見える土塁上の石碑は「高橋濟翁之碑」であり、明治初頭、長く校長を務めるなど館林の小学校教育に力を注いだ高橋濟(わたる)を顕彰したものです。そして、左の城内側にあるのは「撲齋岡谷君碑」で、安政年間に藩政改革を主導した岡谷瑳磨介(おかやさまのすけ)を顕彰した石碑です。「撲齋」というのは瑳磨介の号です。瑳磨介は藩政改革によって館林藩が明治維新を乗り切れる基盤を作りましたが、意見の対立した藩士の起こした断髪党事件によりその座を追われます。高橋濟はその断髪党の一員です。恩讐を越えて2つの石碑が建っています。

上の写真で坂を上り切り、土留の石垣や縁石も終わった所から土塁跡の内側に入ります。

少し入った所から土塁跡と反対側を見ると、右にカルピスホール、中央にホール前の広場と遠くに土橋門の蔀土居、左には第一回全国高等学校レスリング選手権大会開催地の記念碑が見えます。昨年(2023年)で70回を数えた大会が館林で始まったというのは驚きです。ちなみに、オリンピックの東京大会(1964年)・メキシコ大会(1968年)において、レスリングで連続して金メダルを獲得した上武洋次郎さん(邑楽町出身)は県立館林高校でレスリングを始めています。

今度はそのカルピスホール前の広場から南中央土塁の方を見てみます。

こちらは右手ですから区域としては西半分。右の奥の方に「撲齋岡谷君碑」が見えます。

そして、こちらは左手で東半分になります。左の奥に見える建物は第一資料館です。

結局、土塁跡の周囲の木々によって土塁の姿は見えませんので、近くに寄ってみます。

土塁跡に近づき、向かって一番右の方から順に見ていきましょう。再び「撲齋岡谷君碑」です。その後ろの方に土塁跡の盛り上がりがあります。(実際には、土塁跡の土の盛り上がりに生えた雑草の盛り上がりになりますが...)

更に進むと徐々に土塁が高くなってきました。現在も土塁の土が残されているところは木の間から後ろが透けて見えません。次の写真でみると、写真の真ん中辺りを横切る線が土塁のラインになります。大人の目線に近い高さです。

そして少し進んで土塁の一番高い箇所です。この辺りの土塁のラインは目線より高い位置になります。

そこから徐々に土塁跡の土の盛り上がりは低くなり、南中央土塁の一周が終わりました。

 

この区域の土塁跡というのは、市役所を始めとするこの一帯の公共施設や館林女子高への道が直ぐ前にあるので、現在の三の丸跡では一番目立つ場所でもあります。そういう点から考えると、土橋門や他の土塁とは違った形で、日頃から「かつて館林城があって、今も城跡が残っている」ということをアピールしてくれているとも言えるのではないでしょうか。

 

 

写真撮影:2024年5月18~20日

参考文献:

  館林地図 6館林・谷越(館林市役所制作、中庭測量株式会社調製)

         (昭和31年12月測量)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)