2024.5.23改訂

昭和31年撮影の三の丸跡にあった野球場の写真を掲載し、紹介の中で「バックネットがあったのは現在の図書館から文化会館にかけての辺りでしょうか?」と説明しました。

その後で昭和31年の館林の地図に三の丸の野球場のバックネットが描かれていることに気付きました。それを見ると図書館の場所にバックネットがある野球場だったと思われます。現在の地図との対比も載せ、関係する説明を変更しました。

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三の丸跡の紹介は二の丸との境から始めました。今回からは南側の城沼との境の土塁跡を紹介したいと思います。

 

江戸時代(秋元時代)の館林城の城絵図を見ると、三の丸の南まで城沼が広がり、天然の堀になっていました。三の丸の地形は中央部分が城沼に少し迫り出した弓のような形になっており、沼との境には土塁が築かれ、土塁の上には土塀や柵塀が設けられていました。

この郭の形は明治9年頃に作成された「上野国邑楽郡館林町全図」でもそれ程変わっていません。ただし、新たに南側土塁の外に「葭谷」というものが描かれています。これらはやがて開墾されて水田に姿を変えますが、この時点では葭の生えた湿地帯です。面白いことに、これらの湿地には「字城沼」と小字名が付けられていました。鶴生田川が運んだ土砂が堆積された湿地で、古文書にも城沼の葭萱刈りの記録がありますので、既に江戸時代から葭や萱の生えやすい湿地でした。

明治初頭の時期に、早くも三の丸の南の堀代わりの沼辺は姿を消していたことになります。。

しかし、土塁はまだ残っていたようです。そして現在も残る土塁の跡を航空写真上に書き加えると、次のようになります。南側の道路を整備する工事の中で影響が出た部分が少しはあるかもしれませんが、江戸時代の郭と非常に近い形を保っています。

今回は上の写真の白枠で囲んだ部分の土塁を一周しますが、文化会館エリアの図書館・文化会館の辺りにはかつて野球場がありました。昭和31年の写真ですが、バックネットの後ろには神戸生絲(株)・館林工場の煙突が見えます。

では、その野球場は実際にどの辺りだったのでしょうか。丁度、昭和31年の館林の地図がありますので、現在と比べてみます。(現在のものと地図の傾きが少し違います。)

青い線は場所を特定するために引き、昭和31年の地図で赤丸で囲んだ所にはバックネットと思われるものが描かれています。令和6年の地図ではそれに対応すると思われる所を赤丸で示しました。これで考えると、現在の図書館の位置にバックネットがあり、青矢印の方に打ち返す構造です。ホームベースから土橋門に向かって球を打つような球場ですね。

これを元に昭和31年の写真に近いと思われるアングルで、現在の姿を写してみました。残念ながら図書館は見えませんが、写っている文化会館の後ろにあります。

 

では、土塁跡を巡ってみましょう。右奥に向かう道は前回紹介した市役所エリアと文化会館エリアの境界になっています。

その道の入り口の左側に、この道の開通により造られた「土塁の切り口」が見えます。

違う方向から、その「土塁の切り口」を見てみます。自転車置き場の南には、ここに土塁があったことがわかる盛り上がりが残されています。

ここから三の丸跡の白枠で囲った部分を時計回りに紹介したいと思います。

上の写真の土塁を南から、つまり道路の方から見ると、土塁の高さがわかります。この辺りが1つ目の大きな山になっており、その大きさがとても良く感じられると思います。桜につつじと、ちょっと木が多すぎるようですので、少し整理されると土塁の姿がもっと楽しめるような気がします。

なお、土塁跡の姿がわかるように葉の落ちた季節に撮影しましたが、紹介のために不足したものは最近撮影しています。緑の多い写真がそれで、混在しているので季節感が統一されていませんがご容赦ください。

その1つ目の山の西側、丁度図書館の真ん前の辺りの土塁跡はあまり高くありません。

上の場所の近くですが、やはり冬の写真の方が分かり易いですね。

一旦低くなった土塁ですが、図書館から第一資料館前にかけて徐々に高くなって行きます。

後ろに見えるのは、右が館林市立図書館で左が館林市第一資料館です。土塁に隠れていますが、通路で繋がっています。

土塁もこの辺りになると、結構高くなっています。切り株が残されていますので、これも片付けてもらうと嬉しいのですが...

そして第一資料館の前で一番高くなります。

その辺りを横から見てみます。その高い土塁が道路際まで来ていますので、もしかしたら少し削られているかもしれません。

上の場所を反対方向から撮りましたので、道は右側になります。このブログの最初の方に載せた航空写真をでわかるように、土塁は途中から道路から離れる方(城の内側に向けて)に曲がります。それがこの場所で、この曲がった土塁のラインが江戸時代の城絵図にとても似通っています。なだらかなカーブが優しい感じがします。

第一資料館の西端の辺りで土塁の山は再び下って行きます。

さらに進んだ土塁跡の切れ目に、図書館や文化会館の玄関に通じる文化会館エリアの入口があります。ここも人工的に土塁が切り取られています。城絵図と照らし合わせてみると、この辺りの土塁が一番沼側に迫り出していたかなと思える場所です。両脇から土塁と木々が迫り、その圧迫感と急な坂に城の”虎口”を目の前にしたような雰囲気があります。

その坂を上り、これからは土塁の内側の様子を紹介します。

坂の途中の植え込みの間から、第一資料館西端の前に残る土塁跡を見ました。

第一資料館の南側の土塁跡です。右奥に見える、三の丸から道を挟んだ所にあるレストランの2階が同じような高さに感じられます。

同じ土塁を西の方から。後ろに見える南面駐車場を見下ろすような高さです。

その土塁の資料館寄りに、旧館林藩士・大屋斧次郎の功績を顕彰する「東寧大屋氏碑」が建てられています。

資料館と図書館の境近くでは、一番高い土塁跡の盛り上がりが見られます。

その辺りを資料館側から。

同じ場所を図書館の方から。

かつては城沼の一部であった道路側から見ると図書館の前あたりの土塁は低いと紹介しました。その土塁の高さが図書館の敷地の高さになりますので、この辺りでは土塁の存在が余り感じられません。図書館の建物の前にあった土塁は既に消えているということなのでしょう。

図書館に隣接する自転車置き場に着きました。自転車置き場南の土塁跡を見て、これで白枠を一周したことになります。

 

三の丸は他の郭に比べて土塁も江戸時代の姿を割合残しており、それを活用して第二次世界大戦の戦時中には防空壕が掘られていました。今回紹介した土塁跡にも防空壕があったという話も伺ったことがあります。実際に歩いてみて、ここなら防空壕を作れるかなと思える場所も何か所かありました。

そういう歴史もあり、また土塁近くに図書館などの建物が建ったり、道路が出来たりして姿を変えざるを得ない事情もありました。それでも、この部分の土塁跡は、市役所や文化会館・図書館・第一資料館という多くの人を迎えるエリアの”顔”として、訪れる人に「ここに館林城があった」ということを教えてくれる貴重なものです。

 

写真撮影:2023年12月30日、2024年5月10日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史別巻 写真で見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林地図 6館林・谷越(館林市役所制作、中庭測量株式会社調製)

         (昭和31年12月測量)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)