館林城址の紹介は二の丸で止まっていましたので、今回の三の丸から再開します。

二の丸の紹介の中でも少し触れましたが、二の丸と三の丸の境であった堀と土塁の跡から紹介を始めます。次の城絵図の中心にあるのが三の丸で、堀を挟んで右(東)が二の丸です。

堀と土塁は一体化していますので堀跡を中心に説明しますが、上の絵図でわかるように土塁はこの境の堀の二の丸側だけにありました。これは、城が攻められて主郭部への侵入を許した場合には三の丸から二の丸に攻め入ります。(上の絵図で左から右へ)このため、守備側の防御壁である土塁は二の丸側に必要となります。三の丸側にも土塁があると、三の丸に侵入した敵を二の丸から狙うのが難しくなります。ですから上の絵図のような構造であれば、二の丸から見て三の丸の敵は丸見えなので攻撃しやすく、二の丸にいる自分の姿は土塁で隠せます。

 

さて、上の城絵図に描かれた三の丸ですが、現在、どのような建物が建てられ、どこに道が通っているのか、古環境復元図に少し追記してみました。

三の丸は館林藩最後の藩主であった秋元家の所有のまま公園として開放され、昭和25年(1950)に館林町に寄贈されました。そのような経緯もあり、今も市の公共施設が建っています。堀だった所には道が出来たりしていますが、さてどのように変わったでしょうか?

こちらは同じ場所を撮影した昭和23年(1948)9月の航空写真です。この時点では三の丸の北側の堀が残り、南側もまだ開発されていないので江戸時代の三の丸の形が感じられると思います。三の丸の東には工場が見えますが、これは神戸生絲(株)の館林工場です。

今回紹介する二の丸と三の丸の境の堀はいつの間にか消え、昭和23年の写真にも写っていません。現在の航空写真に堀跡を描くと次のようになります。城沼から市役所の建物を含むエリアに南西の角から斜めに入り、二の丸門の土橋を潜り、玄関前のロータリー辺りで直角に曲がり、市役所の建物に当たった辺りで再度曲がって庁舎内を斜めに横断します。そして庁舎を出た所で大きな入江堀に繋がります。

さて、この堀はいつ消えたのでしょうか?

こちらは明治43年(1910)4月12日に行われた上毛モスリンの新工場竣工式当日の様子を、三の丸側から撮影したものです。立派な工場群が完成しており、中央にある正門の左右に見えるのは倉庫です。(写真中央の事務所は今も館林市第二資料館に保存・展示されています。)その手前にははっきりしませんが、土塁や堀のようなものが見えます。

それを確認できるのが当時の建物配置図です。ここに描かれた上毛モスリンの出入り口は敷地の左端の橋が唯一のもので、これは旧館林城の二の丸門の土橋がそのまま使われています。そして、土橋の両側の堀は健在です。また、土橋の北側の工場側の線は二重線で描かれており、もしかしたら土塁を表したものかもしれません。

次のものはあまり写りが良くありませんが、大正3年(1914)の「館林町商工業名家案内図」に掲載されている写真です。背の高い事務所の建物が見えますので、上毛モスリンの工場を北西から撮影したものと分かります。写真左下から斜めに走る二本の線は、東武鉄道館林駅まで繋がっていたトロッコ軌道と思われます。一番手前に見える倉庫の前に土塁が残っているのが見えるので、まだ堀も残っていた可能性があります。

なお、昭和12年(1937)の上毛モスリンの工場を受け継いだ共立モスリンの建物配置図ではこの堀が消えています。その間の正確な地図などが無いので、いつ無くなったのかは確認できませんでした。

想像になりますが、工場の拡張の中で堀が埋められ、土塁の土はそのために使われたのではないでしょうか。

 

前置きがとても長くなってしまいました。堀跡を南から歩いてみましょう。

南面駐車場の入口から市役所方面です。右の木立の上から市役所庁舎が少しばかり頭を出しています。

左側の道は三の丸の中を真っ直ぐ北に通り千貫門跡に達しますが、この道については別の機会に紹介する予定です。ちなみに、上毛モスリンを始めとした工場群と市民に開放された三の丸公園の境界でもあります。江戸時代の堀のような役割ですね。

 

茶色の敷石の先の木々の間に、歩いて市役所に向かう少し上り坂になった道があります。古環境復元図によるとその道からちょっと左にずれた位置、丁度この写真の真ん中を真っ直ぐ進むような形で城沼から二の丸・三の丸境の堀がありました。写真中央奥に赤い屋根の電話ボックスがありますが、そこに向かうような感じです。

なお、暑い季節にはこの道の上にアンブレラスカイが飾られますが、傘を吊る下げるワイヤーが取り付けられていましたので、近々と思われます。

緩やかな道を登りきると先ほどの電話ボックスがあり、左には市役所の庁舎が見えます。点字ブロックの辿った先には館林市議会の入口があります。

堀跡はこの写真の真ん中を市役所庁舎の方に向かっていますので、それと直交するような形で電話ボックスの向こう側にあったのが二の丸橋です。

この写真の3本の木は、上の写真の3本の木と同じものです。つまり、上の写真の場所より庁舎に近く、違う角度から撮影したものです。

左奥に掲揚ポールがありますが、その辺りに二の丸門がありました。そしてそこから手前に向けて二の丸橋の土橋があったことになります。それは、上毛モスリンでもそのまま出入口の橋として使用されました。(竣工式写真では中央の門の手前)

その土橋を潜り抜けた堀は、、ロータリー中央の丸い植え込みの辺りで直角に左に曲がって庁舎の市議会入口の方に続いていました。写真の中で丸い植え込みを挟んでいる庁舎の柱の間を通ってくる感じになります。

そして、堀は市議会入口の辺りで今度は右に直角に曲がり、庁舎内を斜めに横切って裏の出入り口の方に向かっていました。

こちらが市役所庁舎の裏の出入り口になります。堀跡の建物からの出口でもあります。外壁工事も無事に終わったようです。(二の丸の紹介の時には工事中でした。)

庁舎の裏出入り口の前には、かつての入江堀を埋め立てた駐車場が広がっています。茶色の敷石とアスファルトの境辺りが、丁度、二の丸・三の丸境の堀と入江堀との接点となります。

つまり、狸の置物があるのが二の丸跡で、その左に二の丸・三の丸境の堀があり、その先は三の丸ということになります。ちなみに、秋元時代(幕末)の城絵図には「堀巾十間」と書かれているので、約18メートルということになります。結構、大きな堀でした。また、入江堀は二の丸と三の丸の境辺りの堀幅が27間(約48.6m)と書かれていますので、さらにビッグです。

 

これで二の丸と三の丸の境の堀の紹介を終わります。少しはイメージが湧いたでしょうか?

アンブレラスカイは近々飾られると思いますので、それを見物しながらでも堀の跡を思い浮かべてみてください。

 

ちなみに、こちらは2023年7月のアンブレラスカイです。

 

 

写真撮影:2024年5月10日、14日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 特別編 第6巻 館林の町並みと建造物(館林市史編さん委員会編)

  館林市史別巻 写真で見る館林(館林市史編さん委員会編)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)