2024.5.22改訂

「明治12年の郡区町村編成法施行以降と思われる」館林城・主郭部の地図を3つ目の画像データとして掲載しました。また、その説明として「本丸→本城、八幡郭+南郭→八幡郭、二の丸→二の丸、三の丸→三の丸、稲荷郭→稲荷郭という字名が付けられています。外郭についてははっきりしていませんが、間にある土塁や堀の大きさから、総郭の内伴木や外伴木より稲荷郭に含まれて可能性の方が高いかなと思います。」と説明しました。

しかし、その後、明治9年頃作成とされる地図に字境が明確に記載されていることが分かりました。結論から言えば、外郭は字稲荷郭の一部です。画像データも入れ替え、関連する説明を変更いたしました。

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館林城の城跡については、本丸・八幡郭・南郭・二の丸までで紹介がストップしていました。次は順当にいけば三の丸ですが、ここはいろいろと紹介要素がありすぎて中々進んでいません。

 

その間、航空写真などを見ていたら、「館林城の主郭部は江戸時代の形を今も良く残している」ということを改めて感じました。

でも、果たしてそうなのでしょうか?そのポイントは「堀」にありそうです。

 

江戸時代の館林城は東と南を城沼に囲まれ、主郭部の真ん中を東西に大きな入江堀が入り込んでいました。また、それぞれの郭の間にも堀がありました。

この館林城の城跡の現在の姿はこのようになっています。どこに江戸時代の館林城の姿が感じられるのか?という疑問もあるでしょう。

 

こちらの地図は「館林町」の古い地図です。館林市史(特別編第2巻)には「上野国邑楽郡館林町全図」とあり、明治6年の地租改正の際に作成されたという説明があります。実際の地租改正作業は明治8年から明治13年の間に行われました(山林原野は明治15年完了)。別の館林市史(通史編3)には明治9年頃に作られたと書かれていますので、ここでは地租改正作業期間に含まれる「明治9年頃作成」として説明します。(郭や門の名称は私が書き加えたものです。)各郭の形は変わっておらず、その間の堀も健在です。

そして、新たに城内を通る道が出来ています。(赤く塗られています。)1つは土橋門から入り、二の丸門→南郭門→(本丸門)→八幡郭水門を通って城沼に至ります。もう1つは、丸戸張門を入り、外郭食い違い→稲荷郭西門→稲荷郭東門→内下馬門から総郭に出ます。

明治7年の大火で焼失した千貫橋は再建されませんでしたので、千貫門は通っていません。

余談ですが、本丸→本城(「本丸」ではない)、八幡郭+南郭→八幡郭、二の丸→二の丸、三の丸→三の丸、稲荷郭+外郭→稲荷郭という字名が付けられています。(小さくて読めないと思いますが、郭の中に四角で囲まれているのが字名です。)南郭は元々八幡郭と繋がっていますので、字八幡郭の一部になりました。外郭はその広さからすれば「字外郭」として独立しても良さそうですが、稲荷郭に含まれています。分かりにくいかもしれませんが、この地図には字の境が明記されており、外郭と総郭の間の堀に描かれた総郭側の線が少し赤く見えると思います。それが字の境の印です。八幡郭には八幡神社があり、稲荷郭には尾曳稲荷神社がありますので、両方とも神社の名前が字の名前になっているのは神様への配慮でしょうか。いかにも明治時代と言えそうです。

 

余談が長くなりましたが、館林城の堀がどのように消えていったのか、そしてその堀跡が現在の城跡のどこに当たるのかを知ることで、今の写真の中に館林城の姿が浮かび上がるような気がします。

 

こちらは昭和23年(1948)9月の航空写真です。この時点ではまだたくさんの堀が残っていました。これらの堀のその後の変化を見ながら、三の丸・稲荷郭・外郭の現在の様子を紹介していきたいと思います。

 

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)