旧城内の外伴木についてはこの次の回で紹介しますが、その外伴木から鷹匠町に移転されたのが武鷹館です。

次の絵図は現代の地図の上に合わせて江戸時代の絵図を載せた古環境復元図で、次回紹介する内伴木、外伴木、外加法師の町名表示板の位置を表したものです。①が内伴木で②が外伴木の町名表示板の場所ですが、それらを結ぶ道が途中の土塁と堀の食い違いの所で折れ曲がっています。ここで内伴木と外伴木が分かれます。丁度、館林女子高の正門の前になります。

そこから②の方に進んだ、次の信号との中間地点の北側にあったのが武鷹館の建物です。江戸時代末期には秋元家家臣の伊王野家が住み、伊王野家が転居した後には親戚の山田家のご家族がお住まいでした。

 

今年の2月5日は館林の初雪で、6日に日付けが変わるころまで降っていました。直ぐに写真を撮ればよかったのですが、7日になって気づいた時には結構溶けてしまっており、ちょっと残念な写真ですが、雪が屋根に残る武鷹館です。日陰にはまだ雪が残っていました。もしかしたら今冬唯一の雪景色かも知れませんので、記念に載せてみました。

長屋門の北側には、屋根から落ちた雪が残っていましたが、屋根も雪がありません。

 

次に雪が降ったら...と思っていますが、最高気温が夏日に近いような日も現れてしまい、ちょっと可能性は少ないですがご期待ください。

 

ただ、これだけでは折角ブログを見ていただいた方に申し訳ありませんので、武鷹館の土地について少し紹介します。

秋元時代の城絵図に描かれた鷹匠町です。鷹匠町の通りは現在までそのままなので、武鷹館は誰に屋敷跡なのかを検討してみました。

鷹匠町の屋敷割は秋元家移封前からあまり変わっていませんので、複数の城絵図から敷地割を想像してみました。基準となったのは、現在も鷹匠町にお住いで旧秋元藩士の寺嶋さんの敷地です。その敷地は江戸時代から変わっていないという前提で検討しています。鷹匠町の東の端は土塁と堀がありましたが、そこは現在の五号道路です。

その結果を現在の地図に載せると次のようになります。誤差はあると思いますが、それを考慮しても④の酒井坂(八十石)の住居だった場所と考えられます。石高が八十石ですから、秋元家中では上級家臣と言っても良いかもしれません。

 

では、次回は武鷹館の建物があった外伴木を含む、旧城下町東部の町名表示板を紹介する予定です。