2番目に紹介するのは、少し南下して城下町の中央部の西側の旧町名です。

どこが”城下町中央”かといろいろな考えはあると思いますが、高札場のあった大辻を一応城下町の中心としました。大辻は旧日光脇往還と城下町を東西に横切る道との交差する所です。脇往還の西で、脇往還と大辻で交差する道ともう一本の東西の大道である塚場町の通りに挟まれた4つの町名表示板が今回紹介するものです。

 

①竪町

「たつまち」と読みます。大辻で脇往還と交差している道の両側に出来た町です。遠くに白い自動車(左の方)の見える辺りが大辻です。文化3年(1806)に作成された「館林道見取絵図」を見ると、千眼寺の山門もお寺の南側に描かれ、竪町の通りからお寺に入れたようです。(今は東側からしか入れません。)

道の北側に田月堂という和菓子屋さんがありますが、その隣の御宅の敷地の一角に町名表示板が立っています。町名表示板が建てられるように塀で仕切った空間をわざわざ作っていただいているようで、とても有難いですね。

最初に載せた地図の範囲外なのでわからなかったと思いますが、この通りを東に進むと大辻を過ぎて、やがて三角公園の南側に着きます。その三角公園の北側が館林城の大手門の跡になります。

 

②鞘町

広済町のところに書いたように、館林の城下町ではそこの住人の職業に関係したものが多いです。この鞘町はもちろん”鞘師”に因んだもので、ここからたくさん出て来ますので楽しみにしてください。

鞘町は東側に常光寺と千眼寺があり、西側は自性院と藩の牢屋敷に挟まれた町でした。今は東側に館林市の市民センターや保健福祉センターがあり(もちろん常光寺と千眼寺も健在)、西には館林税務署があります。(牢屋敷跡)

町名表示板はその館林税務署の駐車場の脇に立っています。駐車場の向こう側正面にあるのが館林税務署で、左側は群馬県の県税事務所です。これから確定申告の時期になりますので、その時期には車で一杯になります。

江戸時代になると実際に刀を抜く機会というものは少なくなりますが、常に持ち運んで身近に置くものですから鞘や柄も傷むと思います。刀研ぎを含めて、刀剣のメンテナンスも大切だったと思います。

 

③塚場町

塚場町は、館林郵便局のところで旧日光脇往還と交差する道を西に少し進んだ辺りから、太田口御門跡の近くまでの道の両側の旧城下町では東西に一番長い町です。この道は足利や太田に通じていますので、交通量が多くて賑やかだったと思われます。

塚場町の通りを西に進むと、館林信用金庫の本店がありますが、そのはす向かいの魚たけという鰻屋さんの敷地内に町名表示板が立っています。

塚場町は館林城の総構えの中であることもあり、早くから宅地化が進んだ結果、塚などは姿を消してしまった可能性があります。なお、塚場町の西端近くにある愛宕神社の本殿は古墳の上に建てられており、太田口御門を出た大街道地区では遺跡も発見されて縄文土器も発掘されています。これらのことから考えると、塚場町地区にも同様の遺跡があったことも想像されます。

 

④石町

「こくちょう」と読み、米穀を扱う店が多かったようです。この通りは旧日光脇往還の一本西側の道で、南の端は竪町の通り、北端は塚場町の通りです。塚場町に通りに出た左側に③の塚場町の町名表示板が立っています。

通りの途中に常光寺がありますが、その塀際に町名表示板が立っています。塀の上に瓦屋根が見えるのは常光寺の本堂です。また左側の奥に見える、建物の一部が突き出ているような特徴的なデザインの建物は旧館林市役所だった館林市民センターです。

江戸時代は「横町」と呼ばれ、明治になってから「石町」に変わったそうです。

 

振り返ってみたら、旧館林市役所である市民センターをぐるりと囲む町の紹介の回になりました。

 

 

写真撮影:2024年1月7日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 資料編1 原始古代 館林の遺跡と古代史(館林市史編さん委員会編)

  館林地名散歩(川島維知著、聚海書林)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)