暖かい正月でしたので、館林七福神巡りも賑やかだったことと思います。(今日はとても寒くなりましたが...)

私は七福神ではなく、館林の旧城下町に建てられている町名表示板を巡りました。城下町の表示板は22個が作られました。それぞれの現在の姿を紹介したいと思います。

 

町名表示板が建てられている旧町内の様子、立っている周囲の状況、そして町名表示板の3点セットです。

 

まず今回は城下町の北の方を紹介します。番号順に①代官町、②台宿、③加法師町、④広済町です。

古環境復元図上ではこんな感じです。

 

①代官町

市立第一小学校の南西の角近くにあります。この一方通行の道は第一小学校の西側の道で、直進すると長良神社や館林第一中学校に着きます。左側の黄緑の屋根は館林尋常高等小学校(現在の第一小学校)の講堂が移築された館林邑楽武道館です。

この日は冬休みだったので静かな通りですが、学校が始まれば賑やかな通りなのでしょう。

小学校の敷地を背景として町名表示板が立っています。

徳川綱吉が館林城主だった時代から、その後の廃藩による幕府直轄時に代官が居住していました。

 

②台宿

日光脇往還の両側の町で、城下町では一番北になり、北の端には以前ブログで紹介した佐野口御門がありました。写真でも感じられるように、北に向かって上り坂になっており、阿良川酒店の信号を過ぎた東側に町名表示板があります。

茶色の屋根の家の先に見える樹木は法輪寺のものです。

名前の通り、邑楽館林台地の上に出来た町です。

 

③加法師町

旧日光脇往還が通る台宿の阿良川酒店前の信号機から東に分かれ、加法師口御門に向かう道の両側が加法師町です。

町名表示板は途中にある法輪寺の門前を過ぎた十字路の所に立っています。

この辺りは加法師口の紹介の時にもいろいろと説明しましたが、交差点脇の市の保存樹木の根元に置かれています。

町名表示板に描かれた絵は当時を想像して描かれたものでしょうが、今よりもずっと賑やかな町だったようです。

 

④広済町

城下町の旧町名は、そこに居住した人の職業や移転した前の居住地に関わるものが多く、ほとんどが町の中心になる「道」の両側に住居が発達した両側町です。ところが、館林の旧町の中で代官町と広済町は中心となる「建物」があり、面として広がっています。代官町は「代官屋敷」であり、広済町は徳川綱吉が創建した「広済寺」です。他に比べてこの2つの町の町域が広いことも特徴です。

広済町は城下町の東北部にあり、台宿の東、加法師町の北の位置にありました。この写真では良くわからないと思いますが、大体200mほど真っ直ぐに進むと先に紹介した加法師町の町名表示板がある交差点に出ます。手前にある広済町の町名表示板がある交差点を右に真っすぐ進むと長良神社に着きます。この交差点を中心とした一帯がかつての広済町です。

この道は徳川綱吉時代の城絵図にも描かれており、広済寺への参道だったようです。

この町名表示板から北に向かうと、約100mで館林城の遺構である佐野口から続く朝日町土塁の東端があります。綱吉時代の城下町図を見ると、この表示板から土塁の間の広大な土地が広済寺の敷地だったようです。

 

このような感じで旧町名表示板の今の姿を紹介していきたいと思います。いつでも、誰でも見ることができますので、散歩がてらにでも歩いてみてはいかがでしょうか?その手助けになればと思います。

 

 

写真撮影:2024年1月7日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 特別編 第6巻 館林の町並みと建造物(館林市史編さん委員会編)

  館林地名散歩(川島維知著、聚海書林)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)