④夜明稲荷神社から随分と間が空いてしまいました。加法師口の最終として、御門跡の南に残る城町土塁を紹介します。
加法師口の近くにあるので”加法師土塁”と呼ぶのかなと漠然と思ってましたが、”加法師土塁”は別の場所にありました。(加法師口を出て、1kmほど藤岡道を進んだ所で、県道館林藤岡線の加法師町信号の周辺。市立第二中学校への出入りの信号のある交差点周辺です。)
加法師口の南にある土塁を”城町土塁”と呼ぶということは、館林市史『館林城と中近世の遺跡』(特別編第4巻)で知りました。確かに住所は館林市城町です。
その土塁ですが、館林城の武家屋敷のあった総郭を囲む土塁の一部で、総郭の一番北の部分を守っていました。
現在残っている土塁の部分は赤丸で囲んだところです。城郭部の北の端と言うこともできそうです。
古環境復元図で見ると赤丸で囲んだ所です。元々は長い土塁でしたが、長い間の開発により徐々に短くなっているのが現状です。
12年前の航空写真で見ると、まだ長い土塁でした。赤い丸で囲んだ範囲が現在も残る土塁ですが、当時は西にも東にも土塁の跡があったようです。
では、その土塁の現在の様子を紹介します。たくさん木が生えているので、土塁の姿がなかなか見えづらいですが、ご容赦ください。
まずは、土塁の全体の様子を西から時計回りでご覧ください。
西に位置する五号道路から見た遠景で、水路(伴木堀幹線排水路)が土塁の北側を通っています。
水路わきの道を進むと、竹やぶに覆われた土塁が姿を現しました。
今度は土塁の北に当たる、加法師口を通る道の方から見てみましょう。
東西に結構長い土塁なのですが、手前に建物が多くて全体像が分かりません。
これは中央付近です。
そして、こちらは上の写真の左手、土塁の東の端です。
2017年11月28日に撮影した写真があるので、参考に載せておきます。
アパート群が建てられる前ですが、残念ながら両端が切れて、写っていません。
次に土塁の東の方から見てみます。こんな感じです。
そして、ぐるっと南側に回ってみますが、土塁の手前に家が建っているので遠景になります。
これらの家が土塁の内側に建てられたお陰で、土塁も消えずに残ったのかもしれません。
これからもよろしくお願いします!と心の中でお願いしました。
周辺を一周しましたが、土塁の薮の中も少し覗いてみましょう。
土塁が崩れないようにしているのでしょうか、竹が横にして並べられています。
手前のコンクリートの壁は水路です。結構、奥行きがありそうです。
以前に行われた調査では、土塁の基部(下の部分)が約13mで、高さが約3mというデータがあります。
こちらの写真からも、土塁がしっかりと残っている様子が分かります。
この水路は堀でしたから、乗り越えるのはたいへんそうです。
現在、土塁は木々と草に覆われて、なかなかその姿が見えませんが、館林市史『館林城と中近世の遺跡』には調査結果が写真と一緒に掲載されています。
市史ほどははっきりとした写真ではありませんが、以前(2017年12月10日)撮影した写真がありますので、参考に載せておきます。
水路際のアパートを建てる工事の時に撮影したものです。ブルーシートの向こう側が水路です。
この竹やぶの根元の辺りに土塁の断面が見えました。
市史によれば、「土層の下部は版築状に造られていた」ということです。ちょっと、どんな感じか土を掘ってみたいという気になりましたが、他所様の土地なので我慢。
でも、なんとなく人出が入った形跡は感じられます。
この辺りも土塁の幅がありそうで、土塁のなだらかな斜面が竹やぶに透けて見えました。
周りを民家やアパート群に囲まれ、少しずつ浸食されつつある土塁です。館林城の北の端の姿を伝えるとともに、加法師口御門の場所を示す目印でもあります。できるなら、今の姿を次の世代まで残していただけたらと思います。
これで加法師口の紹介が終わり、館林城下町の五つ口の紹介も完結です。
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。
さて、次はどこにしましょうか?乞うご期待!
参考文献:
館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)
館林市史 特別編 第4巻 館林城と中近世の遺跡(館林市史編さん委員会編)
館林市史 資料編4 近世Ⅱ 館林の城下町と村(館林市史編さん委員会編)
地理院地図/GSI Maps(国土地理院)
館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版
(館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)