城下町の五つ口シリーズもついに加法師口に辿り着きました。いよいよ殿(しんがり)です。

今までは1月で1つの御門というペースで来ましたが、お盆などもあって筆が止まってしまいました。(言い訳ですね)

まあ、今月中に終わらせるということは忘れて、きちんと紹介したいと思います。

 

城下町を南北に走る日光脇往還から、藤岡道が台宿町で分岐して東に向かいます。(これは佐野口の時にも紹介しました。)そして、内加法師の東端に城下町からの出入り口があり、これが加法師口です。ここも他の出入口と同様に5人の木戸守が加法師口御門を守っていました。

ところで、上の図で総郭にも「加法師口」があります。

2つの「加法師口」の位置関係を古環境復元図で見てみると次の図のようになり、赤丸で囲んだのが今回紹介する門です。

青丸で囲んだのは中間町から総郭への出入り口になりますので、城郭の一部です。このため、秋元時代の城絵図を見ると、城の防御を考えて土橋門と同じような重厚な造りになっています。この門を出た所が外加法師と呼ばれていました。

 

ただ、今回のテーマは「館林城下町の五つ口」ですので、内加法師の方の門について紹介します。

 

さて、その加法師口ですが、城下町の他の門と比べると非常に低い土地にあります。湿地帯とのギリギリの境界の上ですね。

(水色の土地は戦後まで田んぼでした。また、ピンクの丸は総郭の加法師口の場所です。)

では、どのくらいギリギリかを昭和33年(1958)2月の航空写真でご覧いただきましょう。

写真左端の旧日光脇往還から分岐した藤岡道が東に向かいます。途中、法輪寺・法高寺・円教寺という3つのお寺の門前を過ぎますと、徐々に道は下り坂になり、やがて湿地(田)になろうかという直前が加法師口御門があった場所です。

御門の南には総郭の土塁跡が残り、夜明稲荷神社が土塁に寄り添うように鎮座しています。今は県道佐野行田線となった五号道路も、藤岡道のところまでしか来ておらず、佐野方面への延伸されるのは戦後のことになります。(道幅も狭いですね。)

 

五号道路も拡幅され、佐野まで通じる幹線道路になった現在の加法師口の周辺地図です。

白地図なので城町土塁の存在がわかりませんが、五号道路が拡幅されて藤岡道以北まで延伸したというのが最大の変化です。

もちろん、建物などは64年前とは変わっていますが、全体の地形に大きな変化は少ないようです。

なお、この「朝日町」交差点以北は、店舗の姿が南側と異なって、郊外型大規模店舗が建ち並んでいるのが特徴です。

 

こちらは嘉永元年の城下町図に描かれた加法師口ですが、五号道路を除けば、昭和33年の航空写真との違和感はそれほど大きくはありません。もちろん、家並みは変化しています。

 

加法師口を知ってもらうには、加法師口御門はもちろんですが、この城下町図にもあります、藤岡道、夜明稲荷神社、城町土塁がポイントになります。次回以降、その辺りを中心に紹介を進めて行こうと思います。

 

これからの紹介でも使いますが、加法師口御門周辺の古環境復元図と航空写真(2010年版)も付けておきます。

上の図と比べてみてください。

 

詳しい説明は次回からになりますが、紹介の中心になる加法師口御門跡、藤岡道、夜明稲荷神社、城町土塁の写真もちょっと紹介しておきます。

 

朝日町交差点で加法師口御門跡を撮影しました。交差点を左右に横切るのが五号道路で、東を向いて撮影したので、左が北で佐野方面。右が市中心部になります。

城町土塁です。木が茂っているので、土塁自体は見えませんが...

また、土塁手前に建物が出来たので、隠れている部分が多いです。実際はもっと長いです。

夜明稲荷神社です。

『館林記』などの館林城築城の話では、以前紹介した谷越町の宵稲荷神社が城の縄張りの曳き始めで、この夜明稲荷神社が完了の地とされています。

 

城の縄張りと同じように、夜明稲荷神社に到着して、加法師口の入門編も丁度、完結です。

 

次回から少し詳しく紹介を進めたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 特別編 第4巻 館林城と中近世の遺跡(館林市史編さん委員会編)

  地理院地図/GSI Maps(国土地理院)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)