2024.4.27変更

昭和23年(1948)2月19日撮影の航空写真と関連説明を追加ました。

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今まで何度か紹介した嘉永元年の城下町図の中の、太田口周辺の図です。

太田口を出ると、右手に堀端を北に向かう小径があります。

そして、門を出て西へ進むと、今度は南に向かい、少し先で折れ曲がる小径があります。

(茶色の線は私が付け加えましたので、江戸時代の城下町図にはありません。)

城下町図ではこれらの堀端の道は短い区間しか描かれていませんので、その先がどうなっていたのか、江戸時代の村々を描いた封内経界図誌でもはっきりしません。

しかし、明治6年(1873)の地租改正の時に作成された「上野国邑楽郡館林町全図」では、この2本の道がそのまま堀端を北は佐野口まで、南は小泉口まで続いています。

江戸時代にもこれらの道があったものと思って良いでしょう。

(下の図の堀(水色)の外側を走る赤い線がこれらの道です。)

更に、昭和23年(1848)2月19日撮影の航空写真にはこの道がくっきりと写っています。(矢印で指している部分です。)堀跡もまだ余り宅地化されていないので、この道の内側に江戸時代のままのような形で残っていました。。

 

太田口の紹介の最後に、この2本の道を辿ることにします。

 

まず、太田口の門を出て、右手の小径を取り北に進みます。

太田口の跡に建てられた家を過ぎると、右に法泉寺の本堂が見えました。

城下町図を見ると道は途中で右に折れますが、矢印の所です。

そこを曲ると東方向への道がありました。更に進みます。

そうすると道と右側の土地と高さが全然違ってきます。中央に見えるのは法泉寺の本堂の後ろ姿です。

この場所で前を見ると、遠くに邑楽護国神社の木が見えます。道と右側の土地の段差はコンクリートの壁により顕著になっています。

右のほうに見える水色の建物は、館林うどんの旧本社・工場です。

では、この右側の広大な高台はなんだったのか?

明治の地図をもう一度載せます。

これと江戸時代の城下町図を比べると、堀とその内側の土塁だったと思しき土地の幅が大きく異なります。このことを考えると、明治6年の段階では既に土塁が崩されて堀が埋められて幅が狭くなっていた可能性があります。(この傾向は城下町の南西の角=小泉口から城下町の北西の角まで、すなわち城下町の西の辺について顕著です。)

つまり、高い方は土塁が崩されてできた土地であり、低い方は堀跡ということです。

なお、この堀跡の道を進むと大きな道路にぶつかりますが、そこから城下町側を見ると上り坂になっています。

城外側は結構急な下り坂ですが、両方の高低差は1.5~2mくらいありそうです。

ここにも土塁や堀があったことの痕跡があります。

それを越えると目の前には邑楽護国神社の祠が見えます。(後ろ姿ですが...)

その場所で北の方(左手)を見ると小さな流れがありますが、これこそ明らかな堀跡です。

(最初に掲載した城下町図の①の場所です。)

 

今度は太田口を出て、南に進む堀端の道です。

太田口から西に向かう道は、今は少し南にずれていますので、この道の入口は城下町図で言えば②の場所に当たります。

上の写真の1本目の電柱の手前が②から進んで左に折れる所です。

そこを入って突き当りが城下町図の③の場所です。

そこを進みますが、正面に見える塀の下のコンクリートの部分に注目してください。右と左でコンクリートの幅が大きく異なります。それは右の方は堀跡で左の方は土塁跡という、元々の高低差が関係していると思います。

道は少し右にカーブします。ここで気が付いたのですが、堀端の道を歩いていたはずなのに、いつの間にか堀跡を歩いています。

そのカーブの先で振り返ってみますと、道がこの部分だけ曲っていることがわかります。明治の地図や城下町図(③)で道は真っすぐに描かれていますので、後世の変化で左側の家の土地が張り出すような形になったのではないでしょうか。

カーブが終わると、再び道は真っすぐになりました。それは見事なくらいに真っすぐです。

周囲を見ながら進みますが、城下町側の一定のところから土地が高くなっています。

目の前の家も土台が高いです。

その先では宅地造成工事が行われていました。愛宕神社の後ろになります。

やはり土塁跡と堀跡の高低差は建材のため、宅地になるのは土塁跡の方だけのようです。(両方を同じ高さに揃えるのは大変そうです。)

そのための仕切りの壁が造られました。

こちらは別の日に撮影したものですが、上の写真の仕切りの壁を造るためのコンクリートを流し込む前で、型枠が完成したところです。この型枠の作られた場所は、向こうに見える土台の高かった家の塀と同じライン上です。

このことからも、ここに「土塁と堀」のように明確な高低差を生むものが、長い区間であったことがわかります。

さて、堀端の道ですが、まだまだ続きます。城下町の②から④までは大きな「コ」の字になっています。③から南に下る道の行き止まりがマンションの裏に見えます。

ここが行き止まり。アパートの向こうに見えるのは、応声寺の本堂の屋根です。

ここで右に折れると④の曲がり角になります。

そして④を曲って南の方を見ますと、ここにも江戸時代と変わらぬ直線道路があり、東武伊勢崎線の線路わきまで続いています。(昭和23年撮影の航空写真にも写っている、④の所から東武鉄道の線路に向かう直線道路に相当します。)

城下町図や航空写真などでわかるように、この道路の左側(東側)に堀と土塁があり、小泉口に続いていました。

ところで④の場所ですが、マンションの前に奇妙な斜めの線を見つけました。(白丸で囲んだ所です。)単に何かの工事の都合かも知れませんが、「斜め」というところが不思議です。更に古環境復元図を見ると、丁度、堀の端の位置に当たります。(線の手前が堀で、向こう側は道)

もしかしたら、地下では江戸時代の地形の違いが今もいきているのでしょうか?

 

これで太田口の紹介を終わりにします。

この写真は愛宕神社裏の宅地造成の全景です。もう少ししたら、ここの景色も大きく変わることでしょう。

それでも、愛宕神社は今まで通りに地域を守り、堀跡と土塁跡の高低差も人知れず健在です。太田口周辺も見た目は江戸の名残りが消えたようでも、良く見るとそこかしこに館林城の城下町が残っていました。

 

次は佐野口になります。

 

 

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林古環境復元図 館林城郭・城下町図 第3版

         (館林市教育委員会 文化振興課 編集・発行)