今年もよろしくお願いします。

約3週間ぶりの紹介記事になりますが、お付き合いください。

 

善導寺(ぜんどうじ)、正式には「終南山見松院善導寺」(しゅうなんざんけんしょういんぜんどうじ)と申します。館林藩の初代城主であった榊原家の菩提寺であり、いろいろと所縁の深いお寺です。

ちょっと説明しますと、「終南山」というのは中国陝西省(せんせいしょう)にある山で、善導という中国浄土宗の高僧が修行した寺があります。

「見松院」は最初は「見性院」と書いたようで、これは頓阿見性法師にちなみます。この方は、行基が建立したとされる草庵を修復して修行をされた僧で、お寺の名前に残っているくらいですから、実質的な創建をされた方なのでしょう。なお、創建されたのは城沼の北の方でしたが、榊原康政がこれから紹介する館林駅前の地に移転した時に「性」から「松」に名前が改められます。「松平」の「松」ですが、明治28年の古社寺調に善導寺から提出された報告にはこのように書かれています。

 龍神化益ニヨリ龍灯松ノ事アリ、依テ改称スル云々

この話は境内にあった竜の井に関わる話と思いますが、そこには龍神伝説があり、井戸の水は龍神水とも呼びます。そして、竜の井の傍にあったのが龍灯松です。「化益(けやく)」というのは、「教化して善に導き、利益(りやく)を与えること」とあります。どのような化益があったのかわかりませんが、やはり龍神伝説に関係しそうです。(竜の井については、後で紹介します。)

そして「善導寺」は先ほども紹介した中国の高僧の名前に由来しています。善導は法然や親鸞に大きな影響を与えており、善道寺はもちろん浄土宗のお寺です。

 

さて、善導寺は2度ほど移転しています。一度目は榊原康政が文禄2年(1593)に行い、二度目は館林駅前の再開発によって楠町という城沼の東岸の方に移転しました。平成2年(1990)に移転は完了し、多くの伽藍が配置され、榊原家の墓も整備されています。

善導寺 山門

善導寺 本堂

 

榊原家の墓

 

今回紹介するのは、楠町に移転する前の、今の館林駅前にあった善導寺の痕跡です。

その場所は館林城の城下町までを含んで土塁で囲んだ「総構え」の中にあり、南西の端に当たります。善導寺周辺だけを切り取ったものですが、明治5年(1872)の城下町図です。

中央の茶色の部分...広大ですが、脇寺である大道寺(だいどうじ)、護念寺(ごねんじ)を含めて善導寺の土地です。(右上の茶色の部分だけは別です。青梅天神と別当寺である宝憧寺、同じく八坂神社と円蔵院です。)

右寄りの「南」と書かれた近くにあるのは館林城の江戸口で、日光脇往還である谷越通りに繋がっています。また左端には同じく館林城の5つの入口の1つである小泉口があり、城内の目車町への道になります。広さを感じて頂けると思います。

 

しかし、明治に入ると善導寺の敷地の一部が館林駅の建設に使用され、谷越通りから館林駅への道路も造られます。これは館林駅が出来る頃の状態を表した地図です。(茶色の部分が館林駅の建設予定地です。)

徐々にそこには商店街ができ、人が住むようになります。そのようにして、大正2年には善導寺の寺域はこのように変化しています。

このように変化した善導寺ですが、その名残りを探しながら、江戸時代の善導寺を想像してみたいと思います。                                         つづく

 

参考文献:館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

      館林市史 別巻 館林の寺社と史料(館林市史編さん委員会編)