前編で三角公園の紹介をしましたが、では、その最大の特徴である「三角形」という独特な形はどのように生まれたんでしょうか...少し調べてみました。

 

こちらは制作年代が明確ではないのですが、明治時代の「館林町全図」から三角公園近辺を抜き出したものです。明治22年(1889)に総構えの外(南側)の谷越村の一部が館林町に合併されますが、この図では未記載なので、明治22年より以前の制作と思われます。

 

まずは江戸時代の城絵図。

それが、江戸時代の名残りを残しつつ、明治になってこのように変わっています。

大手門の門と周囲の石垣が無くなっていますが、土塁と堀はまだ以前とほとんど変わらず健在です。

一番変わったのは片町の広小路です。前に片町の回で「片町の広小路の管理は軒下から七間分は商家、残りは城が管理を行う」と紹介しましたが、その商家の分くらいを片町の通りとして残し、城側は宅地に変えたようで地番が振られています。これが今に続く、片町通りの東側の家並みになります。

 

そして、大手門前の広場の一部も宅地になりましたが、大部分は三角形に近い変わった形で残されています。地番がないので空いたスペースのままです。

宅地にするには何か不都合な事情などがあったのでしょうか?

前編で紹介した「お国替え絵巻」の絵では特に門前の広場に異常は感じられませんでしたが、余程の低地だとか地形的な理由があったのか...あるいは、大手門前の広場を遠慮したのか...でも、一の門の前辺りには地番が振られていますので、やはり地形の問題でしょうか。現在でも三角公園の周辺は大雨が降ると、周囲から雨水が集まってきて、北側の道路などは水浸しになることもあります。

 

なお、大手門跡の東側に「文」の旗が翻っていますが、これは学校の印です。館林がまだ栃木県だった明治6年(1873)に小学校設立が始まり、旧城下町には12月に館林小学西舎(西校)が開設されました。更に翌7年7月にはこれが分裂する形で士族の子弟向けに館林小学東舎(東校)ができました。しかし、士族子弟減少のため明治15年には再び合併し、西舎が本校、東舎は分校になりました。地図の年代がはっきりしないのですが、明治22年以前であれば、このいずれかの学校だと思われます。ちなみに、現在のこの場所には医院、教会そして商工会議所などがあります。明治7年3月に館林城は焼失しましたが、その火事の火元もこの近辺です。

 

こちらは明治17年(1884)に内務省地理局が作成した近代測量地図での近辺地図です。

連雀町・片町から大名小路に繋がる、三角公園東側の道が出来ていますが、北側の道はまだありません。黒く塗りつぶされたのは家が建っているところなので、道路はありません。

大名小路は大手門から館林城の正門である千貫門に通じる道ですから、士族の住む地域への主要な道路です。かたや大辻という城下町の中心地と城に続く大名小路の接続点が三角公園の場所です。この2点を繋ぐ最短距離を考えて、上のような斜めの道ができたのでしょう。

 

また、大手門跡隣には「東校」と書かれていますが、「東校を分校とする」と群馬県の文書にあるように、東舎は分校になっても一般的に「東校」と呼ばれていたようです。

(館林第二小学校を「南校(なんこう)」と呼ぶ人がまだ沢山おります。)

 

ついで2枚。

1つは明治9年の地図に後の情報(明治40年開業の館林駅など)が加筆されたものです。

三角公園の北側の道ができています。これにより並木町と大名小路が直接つながることになりました。並木町やその西に繋がる塚場町なども商家が多いところですので、交通の便を良くするための新道が造られたのでしょう。

三角公園の南側、連雀町の通りは堀と土塁で行き止まりになっていましたが、この地図では新しい道が出来ています。この道は本丸・二の丸・南郭跡に移転した上毛モスリンに通じる道で、「モスリン新道」と呼ばれました。上毛モスリンで生産した商品を館林駅まで運ぶための道です。

上毛モスリンが移転・開業したのは明治43年頃ですので、やはり明治末期頃までには三角公園は「三角形の公園」になったようです

こちらは大正2年の「館林町商工業名家案内図」の一部です。この地図は観光案内図みたいなもので東側の道は省略されています。(白い道は私が追記)

すっかり北側の道がメイン道路に変わったことが分かります。(ちなみに、今も東側の道はありますが、車は通行できません。)

連雀町から東に延びた道には「モスリン新道」と書かれています。

 

そして昭和9年(1934)の図です。

館林市史の中を探しましたが、これが「三角公園」という名前が書きこまれた一番古いものでした。少なくとも昭和初期には既にこの名前で呼ばれていたようです。(北側の道ができて三角形が完成した時点で名前が付いたかもしれませんね。)

公園という憩いの空間は必要ですが、それ以外にも家を建てるには適さない土地だったのか、今も町中のオアシスとして親しまれています。

 

三角公園の成り立ちは以上ですが、その場所について一言。

 

三角公園の北の端、北側の道に面して「館林城大手(追手)門跡」の石碑があります。

この石碑には「現在の三角公園は館林城大手門桝形跡付近にあたる」と書かれています。

しかし、今までの地図を見ると並木町(大手門の左方向)からの道が一の門の前の広場に突き当たっています。つまり、ギリギリ一の門が三角公園の端にかかるかどうかの位置であり、枡形は北側道路さらに道路の北側辺りではないかと思われます。

三角公園から北側を撮りました。写真の右端の黒く見えるのが石碑です。

この車の止っている駐車場辺りが枡形で、隣の家かその隣辺りに渡櫓門があったのではないかと思います。(江戸時代は大手門から本当に真っすぐだった)大名小路を東から歩いて来ると大体その辺りに突き当たりそうです。

三角公園は大手門の枡形の中というより、大手門前の広場が形を変えたものと言えそうです。

 

また、三角公園の東になる大名小路の通りと西側の並木町の通りは、明治17年の地図で見て頂くとわかるように、かなり食い違っています。この2つの通りを公園北側の道が接続しています。このため、この3つの通りからなる道路がちょっとジグザグしているのはそういう事情によるものです。並木町の通りのはずれから、大名小路方面をみるとこうなっています。ジグザグの感じは分かるでしょうか。

山形から11日をかけた徒歩での国替え道中の最後に到着したこの場所を、音羽子は「館林は大手の御門も結構だし、大名小路も立派だった。」とお国替え絵巻に書いています。

この場所が、山形から移って来た秋元家の方々の新しい生活の出発点でした。

 

 

参考文献:館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)
       館林市史 資料編3 近世1 館林の大名と藩政

         別冊付録 お国替え絵巻からみた家臣の道中記(館林市史編さん委員会編)

       館林市史 通史編3 館林の近代・現代(館林市史編さん委員会編)