館林に住んで37年になりますが、越してまだ地理が分からない頃に、場所が分からないながらも良く聞いた場所は、「三角公園」と「松原交番」です。

「松原交番」は五号道路と前橋・古河線の交差点にあった交番で、いかにも目印になりそうです。

では、「三角公園」は?

形が三角形なのは少し変わっていますが、それだけで有名なのと不思議でした。果たして、どのような「三角形」なのかも知りませんでした。

まだ、館林の歴史に触れる前の若き?会社員時代です。

 

三角公園はこんな場所にあります。(平成17年・館林市都市計画図より)

江戸時代の町名と現在の建物が入り混じっていますが、おおよそ図の左側半分が江戸時代の城下町になります。大辻が当時の高札場で、法令などを庶民に周知させるために掲示されたところであり、場所的にも館林城の城下町の中心と言えます。町中では比較的高い場所ですが、そこから連雀町の通りを下ると片町の広小路に突き当たります。

そこで左(北)の方を見ると、館林城の大手門の一の門があり、門の前は広場になっています。

この場所の江戸時代の様子が弘化3年(1846)に作成された「お国替え絵巻」(作:山田音羽子)に描かれています。

 ※お国替え絵巻:秋元家が山形から館林に転封になり、家臣の引っ越しが必要に

            なりました。この絵巻は家臣の山田秀信家の山形から館林までの

            道中の様子を秀信の妻・音羽子(おとわこ)が紀行文と絵画で

            綴ったものです。館林城には6月4日に到着しました。

大手門の一の門、城の石垣、大手門前の広場そして城のお堀が描かれています。11日間の長旅を終えた安堵感と、さあ自分たちの新しい城に着いたというこれからの新生活への期待が感じられます。

上の城絵図と見比べてみると、館林城の城絵図も少し立体的に見えてこないでしょうか?

 

そして、この「大手門跡」に作られたのが三角公園です。旧城下町は明治時代以降、商業地域として発展したこともあり公園が少ないので、その地域に隣接した貴重な公園です。

 

では、現在の公園の様子を見てみます。

赤い車が左折しようとしていますが、この車が走って来たのが江戸時代の連雀町の通りです。

(片町広小路のほうから見ています。)丁度、車が曲った辺りから先を見てみると、

左側の道は片町方面から続く、先ほどの赤い車が走って行った道です。そして右側の道は、その交差点から斜めに走っています。これで三角形の2辺となります。

残念ながら上からの写真がないのですが、白い車の止っている交差点から、右側の道の終点-赤い標識のある所まで公園の向こう側に道が通っています。それで3辺が揃いましたので、「三角公園」の完成となります。

 

白い車の交差点辺りから南方向-片町方面を見るとこうなります。

結構急な坂です。

次に同じ場所から西方向-並木町方面を見てみます。

ちょっと分かりにくいですが、手前に向けて少しずつ下ってきています。

ついでに東方面-昔の大名小路方面。

実は大名小路へは少し上っていきます。

このように三角公園はとても低いところにあります。

この件に関しては、三角公園の北側にある門跡の石碑でちょっと触れられています。

碑文

 大手は追手とも書き 城の背面を指す搦手(からめて)に対し 
城郭の正面を意味する 攻防に際し拠点となるため もっとも重要な施設でもあった
 館林城大手門は 城の正門として石垣に囲まれた渡櫓門の形態をし
さらに 防御面 攻撃面の両機能を持つ桝形の土塁および一の門を備えていた
桝形内部は 城外に向かい下り坂となる例が多く 攻防がより合理的に
図られていたことがわかる
 この大手門から東へと通称大名小路と呼ばれる大路が続き 城内に通じていた
 現在の三角公園は館林城大手門桝形跡付近にあたるが 時代の要請と共に
門をはじめ土塁 濠などが次々と姿を消し 今にとどめるものはない
 此所に碑を建設し 城下町館林を後世に伝えるとともに 文化の発展に
寄与するものである
  昭和五十九年三月三十一日  館林市教育委員会

 

一般に合戦では高いところの方が有利と言われていますので、守り易い地形なんですね。

この辺りは川や池があった所と言われていますので、昔から低い土地だったと思われます。そこを大手門の場所に選んだ榊原康政はさすがです。

 

ちょっと長くなったので、一休みします。                         つづく

 

参考文献:館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)
       館林市史 資料編3 近世1 館林の大名と藩政

         別冊付録 お国替え絵巻からみた家臣の道中記(館林市史編さん委員会編)