その5で土橋門は終わりにしたのですが、ちょっと追加です。
別の用件で館林市『市制施行60周年記念 館林市史別巻 写真で見る館林』を見ていたら土橋門の写真が載っていましたので、土橋門の歴史として、まとめてみました。
①大正時代に復元
大正7年に旧館林藩主秋元家により復元されました。明治7年に城が焼けてから、
ちょうど45年目ですね。館林城の建物はなくなってましたが、堀や土塁はまだ
残っていたようです。(昭和29年4月の市制施行時にも、この写真で土橋門に向かって
左側の堀(現在は市民文化会館の駐車場)も残っていました。)
門の形は屋根の大きさからみて、薬医門のような形が想像できます。
この門は、昭和25年に三の丸が秋元家より館林町に寄付されることになり、前年の
昭和24年に壊されました。痛んでいたのかな?壊す必要があったのでしょうか?
②昭和30年建設の黒門(土橋門)
①の土橋門と同じ場所に、昭和30年代に4本の柱と扉だけの門が建てられました。
とても簡単な作りですが、館林城の城跡を大切に思う人々の努力の結晶でしょう。
柱は角材を組み合わせてブリキを巻いたもので、門全体が黒く塗られていたことから
「黒門」の愛称で呼ばれていたそうです。 ある程度の年齢以上の方には、今でも
「黒門」で通じます。
簡単な造りなので「冠木門」かなとも思いましたが、肝心の冠木(上部の横材)が
ありませんので、特に形式を意識しないものだったようです。
また、土塁上にあった土塀なども門と一緒に壊されてしまったようですが、この時には
再建されていませんでした。(土塁だけでも残っていて良かったです。)
【昭和40年頃の土橋門】
【昭和50年頃の土橋門】
③現在の土橋門
②の門は昭和55年に強風で倒壊してしまいました。その後、昭和57年に復元が
行われました。まず、門址の調査を行い、調査結果をもとに復元の設計が行われ、
翌昭和58年3月に完成しました。市史にも書かれていますが、薬医門の形です。
土塁の上の土塀や、写真では見えませんが虎口の蔀土居も同時に造られています。
【昭和58年 完成当時】 春の桜が完成を祝っているようです。
【現在の土橋門】 秋なので雰囲気も違いますが、風格も増しているのでは。
今や三の丸というより、館林城址には欠くことのできない土橋門ですが、苦難の歴史がありました。これからも大切にしていきたいと思います。
参考文献:『館林市史 特別編第4巻 館林城と中近世の遺跡』(館林市史編さん委員会編)、
『市制施行60周年記念 館林市史別巻 写真で見る館林』(館林市史編さん委員
会編)