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大人と子供の一番の違いは
「経験から推して測り、動く」ことをするかどうか、
ではないかと思うのです。
お酒が飲めたり、選挙権があったりということで決まるものではありません。
経験によって、「推して測り動く」ことをしなければ
同じ過ちは繰り返されます。
繰り返すのは子供だと思います。
魂的には歴史のある人間だとしても
生まれた時点で、生まれ落ちた現状に対しては経験不足、なわけですから
そこのところの「現在に対する経験値」が多いはずの大人に
「推して測り、動く」という姿勢を見せてもらわないと
生まれた来て闇雲にただ経験するだけで、
その経験を「どう活かしていくのか」の方法を学べません。
もちろん、教えなくても、「押して測り動く」ことをする人もいます。
でもそれは限りなく少数だろうと、
昨今の大人の動きを見ていると、つくづくそう思わざるをえないわけです。
大局を見る視点は、教えてもらうものではありませんが
子は親の背中を見て、社会を見て成長しますから
だからやっぱり大人がどう動いているか次第で
その背中を見て育った子供が創る世界は変わってくると思います。
それなのに、現状見ていると
世界も日本も、非常に狭い視野でしか物事を捉えることをしないばかりか
反応して騒いでいる大人が多すぎるのです。
世界が日本が、
特定の誰かや団体の「陰謀」によって動かされている
などという説はばかばかしいの一言です。
いうなれば
非常に狭い視野でしか先を見通せなかったり
例えば儲かる儲からないなどの狭い社会にとっての利益のみを優先したり
自分にとって都合の良い解釈をしてあることは肯定したり、否定したり
後先に起こるであろうことを「推して測る」ことなく
(測ったとしても先に言ったように狭い視野でしか見通せていない)
たくさんの大人たちがやりたい放題の選択を繰り返してきた結果の
現在ではないかと思います。
「名も無き無知の一般市民たち」が創造してきた世界だと思うのです。
そして特定の誰かや団体であっても
彼らもまた「名も無き無知の一市民」であるからです。
その結果としての世界を
救世主などに一任してどうにかしてくれるだなんて
虫のいい神話を信じていることも馬鹿げていると思います。
それこそ他力本願もいいところです。
なぜ海岸が狭くなっているのか?
その理由は山にあります。
海岸の砂がどうしてあるのか、ということを調べていけば
山と海がつながっていることを知るでしょう。
そうしたことを知ろうともせず
ビーチでBBQしたりゴミを残していったり
山にゴミを捨てたり広葉樹を伐採してヒノキや杉ばかり植えたり
その結果がどうなるかくらいは、知ってもいいと思います。
私たちは無知の選択の結果を、知り始めているに過ぎず
これからもっとそれを知ります。
無知は罪、というか(お釈迦様が言ったとされている言葉ですね)
無知は罪を創る、なのです。
ではどうして無知なのか?
それは一体誰のせいでしょう?
社会ですか?
親ですか?
学校ですか?
時代ですか?
さて、責任の所在は自分以外にあるのでしょうか?
私はないと思います。
どんな社会、時代、親、学校であっても
すべては自分が選択して起こること。
その「たくさんの自分」たちがしていることの集大成が世界だから。
今一度、
目の前にあるものを享受するだけではなく
その成りたち
先を見て今動く、という視点から
この世界を見て欲しいと思います。
全体としては正直手遅れですが
個人としては、もちろん個人にもよりますが
選ばなくていいことを、そして選ぶべきことを見極めれば
自分の体験する世界が変わるチャンスは有ると思います。
しかし結果としては一蓮托生です。
ここが「数」の問題です。
「経験から推して測り、動く」ことをするかどうか、
ではないかと思うのです。
お酒が飲めたり、選挙権があったりということで決まるものではありません。
経験によって、「推して測り動く」ことをしなければ
同じ過ちは繰り返されます。
繰り返すのは子供だと思います。
魂的には歴史のある人間だとしても
生まれた時点で、生まれ落ちた現状に対しては経験不足、なわけですから
そこのところの「現在に対する経験値」が多いはずの大人に
「推して測り、動く」という姿勢を見せてもらわないと
生まれた来て闇雲にただ経験するだけで、
その経験を「どう活かしていくのか」の方法を学べません。
もちろん、教えなくても、「押して測り動く」ことをする人もいます。
でもそれは限りなく少数だろうと、
昨今の大人の動きを見ていると、つくづくそう思わざるをえないわけです。
大局を見る視点は、教えてもらうものではありませんが
子は親の背中を見て、社会を見て成長しますから
だからやっぱり大人がどう動いているか次第で
その背中を見て育った子供が創る世界は変わってくると思います。
それなのに、現状見ていると
世界も日本も、非常に狭い視野でしか物事を捉えることをしないばかりか
反応して騒いでいる大人が多すぎるのです。
世界が日本が、
特定の誰かや団体の「陰謀」によって動かされている
などという説はばかばかしいの一言です。
いうなれば
非常に狭い視野でしか先を見通せなかったり
例えば儲かる儲からないなどの狭い社会にとっての利益のみを優先したり
自分にとって都合の良い解釈をしてあることは肯定したり、否定したり
後先に起こるであろうことを「推して測る」ことなく
(測ったとしても先に言ったように狭い視野でしか見通せていない)
たくさんの大人たちがやりたい放題の選択を繰り返してきた結果の
現在ではないかと思います。
「名も無き無知の一般市民たち」が創造してきた世界だと思うのです。
そして特定の誰かや団体であっても
彼らもまた「名も無き無知の一市民」であるからです。
その結果としての世界を
救世主などに一任してどうにかしてくれるだなんて
虫のいい神話を信じていることも馬鹿げていると思います。
それこそ他力本願もいいところです。
なぜ海岸が狭くなっているのか?
その理由は山にあります。
海岸の砂がどうしてあるのか、ということを調べていけば
山と海がつながっていることを知るでしょう。
そうしたことを知ろうともせず
ビーチでBBQしたりゴミを残していったり
山にゴミを捨てたり広葉樹を伐採してヒノキや杉ばかり植えたり
その結果がどうなるかくらいは、知ってもいいと思います。
私たちは無知の選択の結果を、知り始めているに過ぎず
これからもっとそれを知ります。
無知は罪、というか(お釈迦様が言ったとされている言葉ですね)
無知は罪を創る、なのです。
ではどうして無知なのか?
それは一体誰のせいでしょう?
社会ですか?
親ですか?
学校ですか?
時代ですか?
さて、責任の所在は自分以外にあるのでしょうか?
私はないと思います。
どんな社会、時代、親、学校であっても
すべては自分が選択して起こること。
その「たくさんの自分」たちがしていることの集大成が世界だから。
今一度、
目の前にあるものを享受するだけではなく
その成りたち
先を見て今動く、という視点から
この世界を見て欲しいと思います。
全体としては正直手遅れですが
個人としては、もちろん個人にもよりますが
選ばなくていいことを、そして選ぶべきことを見極めれば
自分の体験する世界が変わるチャンスは有ると思います。
しかし結果としては一蓮托生です。
ここが「数」の問題です。