モーセはエジプトからミディアンの地に逃げた時、そこに住んでいたケニ人の家族と婚姻関係に入った。エテロは「ミディアンの祭司」でモーセの舅であった。また、ホバブはモーセの義理の兄弟だった。イスラエル人がシナイ山の地域を出発しようとしていた際に、モーセはホバブがその地域をよく知っていたので、国民のための「目」すなわち偵察者として同行してくれるよう頼んだ。それほどにイスラエルとケニ人の関係は長く深いものだった。
 
 さて、ケニ人ヘベルは、ホバブの子らから離れ、ケデシュのツァアナニムの大木の近くに天幕を張っていた。へベルはハツォルの王ヤビンと友好な関係を築いていた。イスラエルが虐げられている様を横目に見ながら、自分たちは安全に生活ができていた。
 しかし、ヘベルの妻ヤエルは快く思ってはいなかった。自分たちはモーセの舅の一族であり、モーセと共にいたホバブの子孫なのだ。ヤビン王の圧政とシセラ将軍の戦車隊の蛮行を聞くたびに、ヤエルの心に痛みが走った。だが、夫の取り決めで自分たちには平安があり、日々暮らしていけるのも事実だ。ヤエルは自分自身と葛藤していた。
 その日、夫へベルはヤビン王に会うために、いつものように山ほどの品を持って出掛けた。友好な関係とは言え、力関係ではかなうはずもなかったからだ。
 ……どうせまた酒に酔って帰ってきて、得意げにイスラエルへの仕打ちを話して聞かせるのだろう。ヤエルはうんざりしていた。……媚びてまで生き延びなければならないのだろうか。ヤエルの心は沈んだ。
 ……まったく、男という者は…… ヤエルは溜め息をついた。

 

 その時だった。泥まみれの男がおぼつかない足取りで現れたのだ。すっかり憔悴した様子だったが、ヤビン王の腹心のシセラ将軍だった。
「我が主、シセラ将軍! どうされたのです?」
 ヤエルは駆け寄り、倒れ込もうとするシセラに肩を貸した。
「……」
 ヤエルに向けたシセラの顔は、やつれきっていた。眼差しもうつろで、いつもの自信と残忍さに満ちたものとは対照的だった。身体も小刻みに震えている。
「こちらにお寄りください、我が主よ。私のところにお寄りください。恐れないでください」
 ヤエルは自身の天幕へと導いた。
 天幕に入った途端、シセラは倒れ込んだ。ヤエルは毛布を掛けた。
「ヤエル……」シセラはつぶやくような声で言った。「水を少し飲ませてくれ。のどが渇いた……」
 ヤエルは乳の皮袋を開けて飲ませた。ほぼ飲み干したシセラは、皮袋をヤエルに渡すと、大きく息を吐き出した。それから毛布を頭からかぶった。
「天幕の入口のところに立っていてくれ。だれかが来て『ここに男がいるか』と聞いたら『いない!』と言うのだ……」
「わかりました、我が主よ……」
 ヤエルが返事を言い終わる前に、シセラはいびきをかいて寝てしまった。
 ……将軍のこの様子、只事ではないわ。しかも、追っ手を恐れているような物言いだった。そう言えば、預言者デボラがケデシュのバラクと共になったと聞いたわ。とすると、戦さで負けて逃げてきたと言う事かしら? きっとそうだわ! 神が動かれたのね!
 ヤエルは立ち上がった。シセラは熟睡している。
 ヤエルは天幕の留め杭を取った。それから、鎚を手に握った。シセラは苦しそうに寝返りを打った。ヤエルは忍び足でシセラのもとに行った。その留め杭を彼のこめかみにあてがった。ヤエルは躊躇う事無く、鎚を振り下ろした。留め杭はこめかみを貫き、地に打ち込まれた。シセラは一言も発さずに絶命した。
 ……まったく、男という者は…… ヤエルは深い溜め息をついた。

 

 そのすぐ後、バラクがシセラの跡を追ってやって来た。ヤエルは天幕から出て彼を迎えた。
「ここに男がいないか」
 バラクは言った。シセラと同じ泥まみれだったが、精悍な面構えと、生き生きとした眼差しだった。ヤエルは神の勝利を確信した。
「おいでください。あなたが捜している人をご覧にいれましょう!」
 ヤエルは天幕の出入り口の布を捲り上げた。バラクは中に入った。シセラはこめかみに留め杭を刺されて死んでいた。
「『女の手に神はシセラを売られる』か……」
 バラクはデボラが預言した神の言葉をつぶやいた。

 こうして神はその日、カナンの王ヤビンをイスラエルの子らの前に屈服させた。そして、イスラエルの子らの手はヤビンに対して次第に強硬になって行き、ついにカナンの王ヤビンを断ち滅ぼした。


 その夜、祝宴が催された。戦った一万の民、功労者としてヤエルもその場にいた。
 赤々と燃え盛る篝火の中、デボラとバラクは勝利の歌を歌った。

 

 宴もたけなわになった頃、一人その場から離れて座っていたヤエルの隣にデボラが腰をかけた。デボラの手には酒杯が二つあった。一つをヤエルに渡した。二人は酒杯を飲み干した。
「ヤエル、神があなたに力をお与えになりました。……とは言え、女の身では辛かったでしょう」
「いえ、わたしよりもデボラ、あなたの方が大変だったのではないですか。戦さの陣頭指揮を取られたのでしょう?」
「そう…… 言いたくはないですが、バラクがあまりにも不甲斐ないものだったのでね……」
「わたしも、夫がヤビンと通じていたので、いつもいやな思いをしていました……」
 デボラが酒の入った皮袋を取り出し、空になったそれぞれの杯を満たした。それを二人は一気に飲み干す。
「……それにしても、先ほどの歌」ヤエルが言った。少し酔いが回ってきたような口調だ。「『わたしはイスラエルで母として立ち上がった』なんて、驚きました!」
「仕方ないでしょ?」デボラも酔いが回ったようだ。「これだけ男たちがいても、自分からは何もできない赤ん坊なんだから」
「言えてるわぁ……」ヤエルが酌をしながら言った。「でも、『ケニ人ヘベルの妻ヤエルは女のうち最も祝福された者となる』なんて、誉め過ぎだわ。恥ずかしくってここまで逃げてきちゃったんだから」
「そんな事ないわよ!」デボラが空になった二人の盃を満たす。「本当は『へベルの妻』って言葉を取り去りたかったのよ」
「夫か……」ヤエルはくすくすと笑い、注がれた酒を飲み干した。「あの騒動の後に帰ってきて、バラクから話を聞かされて、すっかり怖気づいちゃってさ。『わたしは、ヤビンに脅されていたんだ』なんて、言い訳してたわ」
「バラクも勝利ですっかり舞い上がってたのね」デボラも飲み干す。ヤエルが酌をする。「それを良しとしたって言ってたわ。『どうだ、寛大だろう』だってさ! もう、何にも言えなかったわ」
「へベルもね」ヤエルは手酌で飲み始めた。「バラクが帰った後にぶつぶつ言ってたんだけど、留め杭と鎚を見せて『あなた、明日があるといいわね』って言ったら、大人しくなったわ!」
「まったく……」
 デボラが言った。
「……男という者は……」
 ヤエルが言った。
 二人は顔を見合わせて大声で笑った。

 晴れ渡った星空に雷鳴が幾度も轟き渡った。

 

 

 そして、その地には、その後四十年のあいだ何の騒乱もなかった。

 

 

(裁き人の書4章17節から23節、5章7節、24節から27節、31節後半をご参照ください)