オテニエルが走り続けていると、茂みの中から声がした。足を止め、茂みに耳を凝らす。
「おのれ! 逃げ出しやがって!」
「勘弁してください…… もう、耐えられません……」
「じゃあ、ここで楽にしてやろう」
 オテニエルが茂みに分け入ると、大柄な兵が剣を振り上げ、地に座り込んで頭を抱えて怯えている小柄な男を、今にも斬り倒そうとしているところだった。兵はクシャン・リシュアタイム王の者で、怯えているのはイスラエルの者だった。  
「待てぃ!」オテニエルは怒鳴りながら飛び出した。「お前の相手は、このオレだ!」
「な、何者だ!」
「我らの神より、きさまらからイスラエルを救うよう命じられたオテニエルたぁ、オレの事だ!」
「そんなヤツ、知らん!」
 兵は馬鹿にしたように言うと、斬りかかって来た。オテニエルは振り下ろされた剣を自身の剣で受け止めた。相手の剣が弾き飛ばされ、木の幹に突き刺さった。呆然としている兵に向かい、オテニエルの剣が一閃した。兵は倒れた。

「さすが、亡き父の剣……」オテニエルはきらりと光る切っ先を見てつぶやいた。「……いや、女房の手入れのおかげか……」
「あ、ありがとうございます……」
 オテニエルは倒れ込む男を抱き起す。
「そんなことは良い。お前はどこから逃げてきたのだ」
「は、はい…… ヘブロンからで……」
「なんだと!」
 昔の記憶がよみがえる。あれだけ苦労して得た都市が、ぽっと出のヤツらの手に簡単に落ちたというのか! 情けなさと怒りとで、オテニエルの全身がわなわなと震えた。
「……今、クシャン・リシュアタイム王がヘブロン近くで宿営を張っていらっしゃいます……」
「馬鹿者! なんで敬語なんぞ使ってんだ!」オテニエルは男を叱りつけた。「我らの神は、民の苦しみと悔い改めの心を知り、オレに民を救うよう言われたのだ。つまらぬ媚びへつらいは、もう終わりにしろ!」
 オテニエルはそう言うと、幹から抜き取った兵の剣を、男に渡した。
「お前にも、このカナンの地を得るために戦った先人と同じ血が流れているはずだ。共に戦うのだ! オレたちには真の神がついているのだ!」
 オテニエルの言葉に勇気づけられたのか、神の力が働いたのか、剣を手にした男は立ち上がった。気合の入った精悍な顔つきになっている。
「そう、それでこそ、イスラエルの民だ!」オテニエルは豪快に笑った。「それに、クシャン・リシュアタイム王がヘブロンにいやがると言うのも神の御配慮だ。さあ、王を倒し、イスラエルを取り戻すのだ!」
 二人はヘブロンに向かった。
 途中、幾人もの仲間を得、その数を増やしていった。
 やがてヘブロンに近くまで来た。
 前方には、連絡が届いていたのだろう、兵たちが武器を手にして、クシャン・リシュアタイム王の宿営を守るように、対峙していた。イスラエルは王の兵たちよりはるかに少なく、手にしているものも、石や木の棒の他は、剣がわずかにあるだけだった。
 しかし、イスラエルの民の誰一人として臆している者はいなかった。
「よいか! 我らはこのカナンを得た勇敢な先人の子孫なのだ! 恐れるな! 勇気を出すのだ! 我らが神が常に共にあるのだ!」
 オテニエルは今や勇敢な兵士となったイスラエルの民に檄を飛ばした。
「おおおおっ!」
 民はオテニエルの檄に応ずるように雄叫びを上げた。
「行けぇぇぇぇ!」
 オテニエルがそう叫び、先陣を切って飛び出した。イスラエルは雄叫びを上げながらオテニエルに続いた。
 神と共に戦うイスラエルに敵はいない。
 雌雄はたやすく決した。

 イスラエルの民は勝利の歌を高らかに、神に届けとばかりに、天に向かい歌い出した。
 その歌を聞きつつ、オテニエルはクシャン・リシュアタイム王の天幕に入った。王の剣を持った両手が、小刻みに震えている。
「何故だ? つい先程まで我に媚びて命乞いをしていた民が、何故なのだ!」
「お前たちの役目は終わったのだ。民は悔い改めたのだ」
「そうそう民の心が変わるものか! いずれ再び、どこぞの王に媚びて命乞いをすることになろう!」
「やかましい!」
 オテニエルの剣が一閃した。クシャン・リシュアタイム王は倒れた。
 王の天幕からオテニエルが出て来るのを見ると、民はさらに大きな声で歌った。


「ただいま……」
 オテニエルは家の戸を開けた。いつものように煮豆を作っている妻アクサの後ろ姿があった。オテニエルはその香りを懐かしむように嗅いだ。
「おや、お帰り」アクサが振り返る。いつものように機嫌が良いのか悪いのかわからない表情だ。「意外と早く終わったんだね」
「まあな。神が共に戦って下さったんだから、当然だろうさ」
「そうだね」

「だがな、まだまだ問題が山積みだ……」オテニエルはため息をついた。「バアルやアシュトレテの像や聖木、異国からの妻とその間にできた子ら、嫁がせた娘たちなどなど…… どうしたものか……」

「ま、自分らで蒔いたものだからね。大変な道のりだろうけど、刈り取るしかないだろうさ」
「そこで、それらの諸問題を扱うことも含めて、オレは神からイスラエルの『さばきづかさ』に任じられたよ」
「ほう、そうかい」アクサは腕組みをした。太い二の腕が盛り上がる。「あんたが士師様、裁き人様になったって事かい。大したもんだねえ」

「ま、そう言う事だ」オテニエルは自慢げに胸を張った。「今までとは比べ物にならないくらい忙しくなるだろうな」
「まあ、イスラエルの民の世話をするってのは構わないけどさ……」アクサは腕組みしたままオテニエルをじっと睨み、低い声で言った。「うちの畑の世話は誰がするんだい?」
 オテニエルはあわてて農具をつかむと、畑に向かって飛び出して行った。


 その後、オテニエルが存命中の四十年間、この地に騒乱は起こらなかった。

 

 

(裁き人の書 3章10節、11節をご参照ください)