クシャン・リシュアタイム王がイスラエルを支配をして八年が経った。厳しい税の取り立て、過酷な労役の強制…… イスラエルはバアルでもアシュトレテでもなく、真の神へ助けを求めるようになって行った。
 その日、オテニエルはいつもの通り畑仕事に精を出していた。あの時の一睨みが効いたのか、耳の聞こえない者として扱われたのかはわからないが、クシャン・リシュアタイム王からの兵は一切来なかった。
 そろそろ昼になる頃だった。オテニエルは雲一つない青空を見上げ、額の汗をぬぐった。空が俄かに黒雲に覆われた。オテニエルは呆然と空を見上げている。
「オテニエル、オテニエルよ」
 雲間から洩れた陽光と共に威厳に満ちた、それでいて優しい声がした。オテニエルは威厳に圧倒され、その場に片膝を付き、頭を垂れた。
「はい、ここにおります」
「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神。お前の父たちをエジプトから救い出し、ここカナンの地へと導いた神である」
 オテニエルは両膝を付き、平伏した。畏れからか、その大きなからだが震えている。
「我が神が、このような塵にも満たぬ僕に、何用がお有りなのでしょうか」
「イスラエルの民は、わたしがその父祖たちに命じた契約を踏み越え、わたしの声に聴き従わなくなった。そこで、 わたしもまた、ヨシュアがその死のときに残した諸国民のうちその一つをも二度と彼らの前から打ち払うことはしなかった。 彼らによってイスラエルを試み、我が道を歩み、父たちが守ったとおりにそれを守る者となるかどうかを見るためである」
「ご覧になってどう思われたは、この僕にもわかります。バアルだ、アシュトレテだ、異国の者たちとの婚姻など、実に嘆かわしい限りです」
「それ故に、民をクシャン・リシュアタイムの手に渡した」
「存じております」
「だが、民はその歩みを悔い、救いを求める声がわたしの耳に達した」
「辛い目に遭わなければ気づかないとは、愚かな者どもで……」
「民を救うため、オテニエル、お前を遣わすことにする」
「何故にこの僕に?」
「お前は他の民のようではなかった。それに、カナンの地に入ってからの働きも知っている」

 オテニエルはゆっくりと顔を上げた。その顔に照れ笑いが浮かんでいる。
「……いえ、あれはアクサを嫁に欲しいがための事。あの頃のアクサは華奢で可愛らしく、抱くと折れてしまいそうでした。……今はこの僕が折られそうですが」
「そんな事はどうでもよい」
「これはご無礼を……」

 オテニエルは顔をこわばらせ、再び平伏した。
「お前は戦いに出て民を救う。常にわたしが共にいる。勇気を出し、恐れず進むのだ。わたしは常に共にいる……」
 黒雲が晴れ、暑い陽射しが戻ってきた。
 オテニエルは走って家に戻った。
「出掛ける!」家に入ると興奮したままのオテニエルはアクサに言った。「神がクシャン・リシュアタイムの手から民を救えと、オレにおっしゃったのだ!」
「そうかい、あの黒雲は神様だったのかい」アクサは言うと、煮豆を盛った木の器を差し出した。「腹が減ってちゃ、戦さも何もできないだろ?」
「これはありがたい!」オテニエルは煮豆に手を突っ込もうとして止めた。「……お前の分も入っているのか?」
「馬鹿だねえ、全部食べちまって良いんだよ」アクサはけらけらと笑った。「力をつけて出陣なさい」
 オテニエルは黙々と煮豆を頬張った。
 すっかり器を空にした時、アクサは一本の剣を差し出した。
「これは……」
 オテニエルは剣とアクサを見比べた。
「父カレブの剣だよ」アクサは剣をオテニエルに押しつけた。「また戦さがあるかもしれないと思って、普段から手入れをしておいたのさ」 
「……ありがたい! お前は本当に良くできた女房だ! 帰ってきたら、うんと孝行してやるぜ!」

「……じゃあ、子を授けておくれ……」

 二人の間にしばし沈黙が流れる。

「……わかった……」
 オテニエルは剣を腰に落とし、家から飛び出して行った。
 アクサは開け放された戸からオテニエルを見送るように外に出た。手には、オテニエルに渡したよりもひと回り高く積んだ煮豆を盛ったひと回り大きな木の器を抱えていた。
「ま、あの亭主に神様が共にいて下さるんなら、何も心配はないさ」
 アクサはそう言うと、煮豆に手を突っ込んで頬張った。 

 

 

(裁き人の書 3章8節、9節をご参照ください)