「絶歌」と自身のサイトから今の「彼」を考える 2 |         きんぱこ(^^)v  

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  きんぱこ教室、事件簿、小説、評論そして備忘録
      砂坂を這う蟻  たそがれきんのすけ


--------------20150910-------------


【サイトを開設】


「絶歌」の筆者として書かれていた「元少年A]というのは、佐川一成(さがわいっせい)の「少年A」から来ていたのか。

そして、元少年Aはどこに意識を持っており、自分が置かれた立場からどういう生き方をしようとしているのかということがわかってきました。


佐川一成という人は、1981年に起こした「パリ人肉事件」の犯人。

ちょっとした法律の隙間から、重い罪にならずに社会へ服役してきた人物で有名です。


元少年Aは、現在も昔の犯行前からも佐川一成を知っており佐川一成を意識していることがわかります。


その内容は、知らぬ間に開設した「存在の耐えられない透明さ」というサイトでつづられており、絶歌出版後の彼の意識がどんなものかをうかがうことが出来ます。


しかし、そのサイトには遺族に対する反省の言葉は無く。

わたしが心配している、「罪を償う意識」よりも「人が生きる=生きがいを模索」する意識が勝っている状態であることがわかりました。


人を殺める⇒その人の生きがいや幸せや夢を消し去る



生きる⇒生きがいを見つけ幸せや夢を追い求める


元少年Aはこの相対するジレンマを抱えていて、今は自分が生きることに夢中になろうとしています。このことがいずれ挫折するのでしょうが、どこを見て生きているのかと思えば、佐川一成を見ていたのかと少々驚きを憶えました。

また後日、詳しく考えてみたいと思います。



--------------20150623-------------

この記事の内容の一部は、2015/6/25 フジテレビ「特ダネ」でも放映されました。


このレポートは、私が過去6年間の間、日本で起きた数々の殺人事件を追って来て、それをブログで纏めながら書いてきた中で、神戸連続児童殺傷事件の加害者の手記「絶歌」を読み、私なりに感じていることを書いたものです。

・足利事件(未解決)

・連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤)

・江東区女性バラバラ事件(星嶋貴徳)

・松山ホステス殺害事件(福田和子)

・島根県女子大生殺害事件(未解決)

・闇サイト殺人事件(神田司、川岸健治、堀慶末)

・練炭殺人事件(木嶋佳苗)

・舞鶴女子高生殺害事件(中勝美)

・三重県女子中学生殺害事件(少年S)

・川崎市中一男子生徒殺害事件(少年F)  等


--------------20150623-------------

この記事を出した後に被害者遺族である山下さんのコメントが公表されました。(23日)

土師さんの出版社への抗議文は(13日)。

「絶歌」が出版されたのは(10日)。

そして私が書店で買ったのは11日。

この時書店ではこの本を平積せずに、店の奥(倉庫)に置いていました。


土師さんと山下さんの抗議文・コメントを読むと、要するにそっとしておいてほしいということです。


土師さんがこの事件は特異で再び起きることはないと書かれていましたが、これだけはそうは思いきれません。

私は足利事件、島根県女子大生殺害事件、川崎市中一男子生徒殺害事件なども特異だと思います。

未解決で犯人さえわからない事件もあります。

未成年かどうかは関係ないかもしれません。


しかし、被害者の気持ちがそうなのであれば、しばらく考えて、この記事も削除すべきか検討します。

ただ、遺族の方もこの本の「あとがき」だけは読んでおくべきかとは思います。

山下さんへの彼からの手紙が10行程度なのは、このあとがきを読んでくれていると思っていたのではないでしょうかと感じました。

被害者で重傷を負った人は現在看護師だとのことですが、わかるような気がします。

被害者の手記よりWIKIのほうがはるかに残酷に思うのは私だけでしょうか。

浮かばれるということを考えた場合、これでいいのだろうか、とも思います。

しかし、遺族の方の気持ちが、今後も変わらず「そっとしておいてくれ」というなら、その意向に合わせるべきかとは考えています。


--------------20150622-------------


【「絶歌」出版その後】


元少年の手記「絶歌」が出版されてから、ネット上では彼の所在を探したり現在の名前を探したりする輩が増えてきた。


彼を見つけてどうしようというのだろう。


お前は殺人者だから・・・と誹謗中傷を浴びせて、精神的に追い詰め、自殺でもさせようというのだろうか。


それは・・どういう意味で?


社会的にこの殺人者を抹殺するという意味か?

それとも

遺族の為の復讐という意味だろうか?


はたしてそれで遺族が「ありがとう、よくやってくれた」と喜ぶのだろうか。


単に殺人を犯した人間だからという意味だろうか。それなら、少年法についてもっと批判をすべきではないでしょうか。



酒鬼薔薇聖斗がもともとモンスターを宿していたのではない。
モンスター=酒鬼薔薇聖斗とはいえない。


この部分は意識すべきことではないかと思うのです。


さらに少年法が彼を世間に戻したと言っても過言ではないでしょう。

彼が成人だったら、今の裁判では二人を殺めると、ほぼ確実に死刑です。



その少年法について、国民をあげて「人を殺めた少年少女の中で、更生が可能と判断された人を世間に戻す」ということを容認または黙認した形にしているのは、詰まる所国民ということになるのではないのでしょうか?


つまり今の少年法を結果的に黙認した格好にさせているのは国民ではないかという意味です。

こんな凶悪な人間を社会に戻すなんて、私は許さない!・・・・と、最初は考えていました。

しかし、この事件はこの事件だけで終わらすべきではないでしょうし、少ない情報で結果だけが浮き彫りになって、そもそも彼が事件に対してどのように捉え、どう生きようとしているのかは知っておくべきではないかと予てから思っていました。


そういう意味で「絶歌」を読む意義はあったと思います。





【遺族の気落ちを考えてみる】


遺族が一番悲しんでいることは何だろう。


遺族は


最愛の娘・息子を亡くしてしまった

ということが大前提だと思います。


亡くなった娘さんや息子さんが生きていたら彼・彼女はこれから生きてゆく自分の人生を幸せと思ったり悲しんだり希望を持ったり絶望したり、そんな彼・彼女が生きるという自由を奪われた不憫さ。

さらに遺族は娘・息子と話したり笑ったり泣いたり、苦楽を共にすることすらできない口惜しさがあるわけでしょう。


確かに、生きる希望や夢・苦楽の経験を奪い去ったのは元少年で、許せないとなると思います。


だからと言って、元少年に復讐をしたところで、我が娘・息子は戻っては来ないわけです。

失われた命と時間は今の時代ではどうすることも出来ない。

「おまえのせいだ死んでしまえ」と言って元少年の命を奪うと、それは元少年が人を殺めたこととあまり変わらないことになるかもしれません。


遺族が私だったらどうでしょう。

私は人間が出来ていないので、相手を殺しに行くかもしれません。

殺せなくとも、「子供は帰ってこない、なんでこんなことをしたのだ」とそれ以上の結論が出せないまま何度も何度も繰り返して考え、しまいには腑抜けになっているかもしれません。

仕方がないと諦めきれるかどうか・・・どういう風に想像してみても基に戻ることは絶対に無理ですね。

しかし家族に兄弟がいたら、遺族は腑抜けになっているわけにはゆかない。

心を強く持って前を向いて頑張るしかないということになると思います。

加害者を許すことは絶対にないでしょうが、少年院から社会に帰ってきた以上、彼がどういう気持ちで遺族・被害者のことに悩み・考え、そして詫びているかは知りたいところではないのかと思うのです。逆に加害者のことを忘れたいと思っているかもしれません。



【遺族の了解無く絶歌を出版した彼の気持ちを考える】


今回「絶歌」の出版について、遺族が了解なしに出版したことを怒っています。

元少年が遺族の了解を得ることを飛ばしたことは、とても失礼なこと。

遺族が怒るのも無理はありません。


しかし、この本のあとがきを読むと、どうしてもこの本を書きたかった理由と、お詫びが書かれています。

わざと遺族の了解を得ずに原稿を出版社に持ち込んだ。


遺族に見せると反対されるだろう、しかしどうしてもこの事件の真相や今の自分を、人として生きるという事が解りかけた今のうちに書いて、わかってもらいたかったということなのでしょうかね。



【彼の人格は「普通の人」に戻っている】


彼は今、人としての心が自分自身に残っていて、そのことに自ら驚いて感謝し、「これが人として生きるということなのか」ということが解って来たということを書いています。

それが故に今は無くなった二人や遺族に対してどれだけとんでもないことをやったかが解ってきた気がするという事なのでしょうね。

殺人を犯した人間と言うのは、いわば人格が崩壊して、善悪や感情というものが解らなくなっているわけです。

だから殺めた人間を見ても何も感じない。

いや、殺害に生理現象が伴ったのは、例えば猿が危機の時に性器をどこかにこすり付けて落ち着かせるように、本能で生理現象が起きているるだけのことです。これは異常なのではなく生死にかかわった時に湧き出す人間の種族保存の本能。


殺人者の立場で世の中を見てみると、多くの人が善悪の判断でああだこうだと騒いでいて、それを見ていると滑稽に思えてくるわけでしょう。

だから、感情の無い目でヘラヘラと笑って、みんなとは違う場所(高い所)から見下ろすような錯覚に陥って、場合によっては人々を見下ろす立場にいる自分は神なのかもしれないとまで思ってしまうのではないでしょうか。

(映画の「レッドドラゴン」などがその一つのケースを物語ったものだとおもいます)


こうなると、もう元の場所には戻れなくなるのかもしれません。

ところが彼は戻ってこられたわけです。


私はこの本を読んで、今の彼はモンスターではなく人間の端くれに戻ったと感じました。


ただモンスターは彼の心の奥に潜んでいるはず。恐らくは思いだしたくもない強烈なコンプレックスで抑え込んでいるはずだと思っています。


彼は人間に戻ったことによって逆に強烈なコンプレックスを抱え始め、このモンスターを封印している。


彼は彼で、人とはなにか幸せとは何かが解るにつれて、自分がどれだけとんでもないことをやり、それは何をやっても、どう考えても、どうしようもなく取り戻せない事だというレベルの悩みになって来た。

遺族が悩み苦闘しているレベルにようやく近づいてきたということではないでしょうか。


今の彼で私が心配なのは、解決できない過去の罪にどうすることも出来なくなり、淳君や彩花ちゃんのお墓の前で蹲って死んでしまわないだろうかとまで思います。


人殺しなのだから死ねばいい・・・・ですか?、では何のために生かされ、社会に戻されたのかです。




前述の補足になります。

普通の人なんていう書き方をすると、多くの人は「普通の人?馬鹿か、彼は人殺しだぞ、普通なわけないだろう」と言うでしょう。

私が言う普通の人というのは、殺人者ではない人の考え方と精神状態という事。

私が引いている境界線は「殺人者かそうでないか」です。

殺人者でない者は、たとえ詐欺をやろうが人を殴ろうが「人」だということで、殺人者は人ではないということです。(だからといって詐欺や暴力をやって構わないとは言っていません)


一部だけ抜粋させてもらいます。

これはあとがきの一部です。


絶歌

まず、赤線の部分。

専門家も指摘していますが、彼は過去の事をスクリーンショットで撮った画像のようにして記憶にとどめています。

この本では、過去の(彼にとって)忌まわしい出来事は、あまり克明には語られていません。

人を殺めたシーンも露骨ではありません。

もし昔のモンスター(殺害者の人格)ならば、読み手が驚き慌てるであろう言葉を詳しく書きながら楽しむかのような書き方になるでしょう。

少なくとも、この文章はそういう書き方を理性で抑えているか、心の奥にしまい込んで記憶に薄い状態または強いコンプレックスによって詳しく書かないようにしているところがポイントになると思います。

つまり酒鬼薔薇聖斗というモンスターを、今の人格が心の奥深くに閉じ込めているのだろうと私は想像するのです。

幼稚園から小学校の時に受けた虐待が、彼の心を壊した重要な要素だと私は思いますが、そのことについてはほんの1行程度しか記載されていません

表現が抑えられていても、この文面で、殺戮者の心理や感覚が良く解りませんか?


次に青い線の部分です。

この文章は、殺戮者の心理ではありません。人を殺めた人間なら絶対にこんな文章は書けないはずです

(過去にあった殺人事件の犯人の言葉や文章などをかれこれ6年ほどもかき集めてブログに書いてきた私が感じていることです:嘘だと思ったら私の過去のブログを読むか自分で調べてください)

殺人を犯した人は、どこか超然としています。別の世界から皆が騒ぐ姿を見て、皆を蔑んでいます。

専門家なら私が書いていることがわかるはずです。


マゼンタの線は、人間の心を見出して生きるということがなんとなく解りだすにつれて、相反する自分の過去の行為と罪が彼の心を襲いだしたということでしょう。

これは、恐らく被害者の家族が悩んで苦しんでいるレベルに近づいてきたということを表しているように思うのです。

(被害者の場合は、本当だったら一緒に生きているはずの我が子がいないという相反性ということになります)


この本を書いた本人は更生の途中段階で、まだ、反省をする、遺族や社会に対して詫びるということを少ししか解っていない(というかようやくわかりかけてきた)と思うのですが、私は殺戮者がこのことを少しわかるという事自体奇跡的なことだなと感じているのです。

遺族に充てた十一回目の手紙は少し長かったけれど、今までとは変わってきたという遺族の話があったことはテレビでも放映されていました。

それはきっと、この事なのかなと感じたわけです。


何度も言いますが、人を殺めた人間は絶対にこんな心理や考えにはならないはずです。

人格が人としての人格に変わっていることが伺われる部分でした。




【加害者のことを考えてみる】


確かにこの本の出版は、「手順」を誤った流れになっています。


出版前に原稿を遺族に見せて、了解を取るべきだった。


出版本の文面から想像すると、意識して遺族への了承のプロセスを飛ばしたように見受けられます。

恐らく、原稿を見せても遺族は出版を許してくれないだろうと思っていたはずです。


医療少年院を退院して世間に戻るというのは、彼自身がそれを希望しようがしまいが、カリキュラムに組まれた流れで社会に戻されたと言っても過言ではないと思うのです。


私は彼を許しませんが、彼が社会に戻された以上、彼がまっとうに生きてくれることを望みます。


前述しましたが、彼が「絶歌」を書いたのは、人として生きることを理解し始めた今だからこそ、自分なりに私はこう考えていたのだという事実を伝えたかったのだと思うのです


追記:

ほかに考えられるとすれば、コメントにも書きましたが、今まで管理され、非難され、抑圧されてきたプレッシャーの中で、彼としてはほんの少しだけ自分の意志で行動をして自分の考えを出してみたかったのかもしれません。(当然怒られるのは覚悟の上でです)



【どうして「絶歌」を読んだか】


彼がどういう考えで生きているか。

保護観察を離れ一人で生きていても、我々には今彼がどういう気持ちと心で生きているのかは全然わからなかったわけです。全くわかりませんでした。どこに住んで誰が彼なのかもわからない状態で、もし彼がモンスターのままだったらどうするのだということです。

・彼が犯行に及んだ時の彼自身の考えや心理

・彼の犯行前の意識の変化や衝撃的な事柄など記憶に残している事は何か

・真面目に生きるということに正面を向いて取り組んでいるのか

・遺族に対する彼の気持ちはどのようなものか

・彼の反省は、どのレベルまで来ているのか

・今後何を恐れ何を考えどうやって生きてゆこうとしているのか

・そもそも今はモンスターのままなのか、人間なのか


これらすべてが、この本でわかるとは限りませんが、彼自身の意思と考えが書かれた資料としては、一般国民が唯一見ることが出来るものだと思うのです。


もし、この本で彼が福田和子が出した本のように自己中心的な自慢話と恨みつらみばかりを書いた内容だったら、徹底的に危険人物として非難するつもりでした

私は福田和子の手記は最後まで読まずに捨てました。

本を買うときには、いろいろと考えました。

遺族はどう思っているのか(私が買ったのは出版日の翌日でしたがさっそく批判の声が上がり始めていました)

出版社や印税については、10万部というのは知っていました(増刷もあるみたいです)。

本人には1500万円ほどでしょうが税金を引かれると翌年の住民税がとても高くなることも踏まえると、1000万円と少しになるでしょう。会社を辞めて本を書いてその後の批判なども考えると1年分くらいは貯めておかなければだめだと思います。それらを全て引いた残りは大体6,700万円ほどかもしれないでしょうが、これは遺族に渡さなければいけない金だと思います


残りのお金は、遺族や被害者の顔の上に乗って得た収入なので絶対に渡してほしいと思うわけです。

ただ、このお金を使って免許が取れるなら取っておくべきだろうし、何かの為にカードも使えないだろうから残しておかなければいけません。

注意しないとだめなのは、翌年の住民税が高くなることです。



遺族の了解を得なかったことはまずかったですね。

今となっては残りの金を渡して謝り続けるしかないでしょう。



【出版社の悪意?と彼の今後を危惧】


私が一番恐れているシナリオがあります。


元少年が出版社に話を持ちかけた・・・との噂がネットで流れています。

出版社は彼の住所と名前を把握し続けられることになってしまう

これは非常にまずいと思うのです。

そこに彼が気づいているかどうか・・・。


噂の出所が出版社でないならば、噂が出ていた弁護士筋か、彼が働いていた職場の人間で、この本を読んだ人でしょう。


この先一、二年、彼の運命がとても危険な状態にさらされる気がします。


噂が広まり、居場所がなくなって収入が途絶え、生活ができなくなった時


彼はどうするでしょうか。


舞鶴女子高生殺害事件の中勝美は、一昨年に万引きで懲役1年となり、昨年秋に出所しましたが、生活保護が支給されるまでの一か月を乗り切るお金がなかった。

中は生活に詰まって、とうとう以前に働いた場所でお金の無心をするしかなかったが、断られて店主を刺した。


彼とて、右を向いても左を向いても批判者で囲まれて、働くこともできず身動きさえ取れなくなった時に、どうするでしょう。

追い詰められて犯罪を犯すととりあえず警察や検察に保護される。

もしくは自らの命を絶つ

ひょっとすると、世間はやっぱり誰も信用できないと、彼がひねくれた気持ちになった時に、再び昔のモンスターが顔を出して何かをするかもしれません。


その時にやっぱりあいつは殺人鬼だと批判できますか。

批判していいのでしょうか。


彼は犯罪者(殺人)にしてはしっかりとしています。普通の犯人は生きることを半ば放り出して生きているような連中です。しかし彼はたとえば仕事を辞めるにしても、わずかなお金をがんばって貯めていて、誰かを騙したり生活保護を頼ったりしていません。(これもまともというべきものです)


しかしひょっとすると彼はこの原稿を出す時に、死んでもいいと思って出したかもしれません。

逆に自転車操業のような生き方ではいつか息切れすると思ったのかもしれません。


もし死んでもいいと思ったなら、死んではいけません。どうしようも無くなった時は以前の保護観察員や世話になった人に一度だけという気持ちでシグナルをだしてほしいです。


【モンスターは何時、どうやって出来上ったか】


私は、彼の中でモンスターが肥大化したきっかけは、上級生からのいじめといじめの強要による人格崩壊だと思っています。

上級生が彼を殴る蹴る、それだけでも異常だし子供の彼は「なんで、なんで」と思っていたでしょう、さらに彼の友達を殴れと強要される、自分が被害者なのに、加害者にされてしまう状況。

「悪いことをしてはいけませんよ」「人をたたいたりしてはいけませんよ」という言葉を教えられ、素直にそれを聞く5,6歳の頃に、善悪の判断力を崩壊させるようなことをさせられたことが、彼をひねくれさせて、判断基準が破壊されていった原因だと思うのです。


モンスターというのは、例えて言うならば今の韓国で問題になっているMARSウイルスみたいなもので、幼少期の子供の誰もに宿す可能性があるものではないのかと思うのです。

(別に幼少であるとは限りません)




 精神科医の分析では、彼は解離性同一性障害(DID)ではないと分析しています。要するに二重人格ではないということ。


 しかし、私は間違いなく解離性同一性障害があると思っています。
 祖母が亡くなる小学校5年生以前はふたつの人格が見え隠れしているところが、この本でもうかがわれますが、その後事件から少年院までの彼は、モンスターがずっと表に出続けていたのではないでしょうか。

つまり、人格が分離する時期の事を彼は専門家にも誰にも言っていないから、解離性同一性障害(DID)ではないと分析したのではないだろうかと思っています。


 今の彼はこういった経緯と特別な教育を思春期に受けているので真面目な性格ではないかということを、この本から推測できます。

 それに対して、モンスターは小学校からマルボロをくわえ、ひねくれ、歪んだ空想を破壊や死そして性と結び付けて考える人格です。


 モンスターが表に出ているときは、彼の言動や判断などですぐにわかるはずです。


 先ほども言いましたがこれを抑えているのは彼自身が持つコンプレックスと表の顔(今の彼)の善悪の判断力でしょう。
 もし、これを潰されることがあるとしたらそれは、ネットやマスコミなどの情報から受ける誹謗中傷が原因になるのではないかと思っています。
 本を読んで、彼は他の殺人者と違い、知的レベルも高く精神力も強いほうだと感じました。
 それでも、今の人格での人間である限り、心が折れて荒むことがあるかもしれませんが、その時は危険だと思います。


こうやって社会に出された以上、彼が「人」として生き続けることを願います。





遺族の方は、この本の内容を怒っているのではなく、了解のプロセスを無視されたことを、それによってさらに遺族や被害者の気持ちを踏みつけて、自分の意見が述べられたことを怒っているのだと思います。(怒っておられるのはこのことで、本の内容ではない気がするのです。了解なしに事件のことをさらされるのは辛いでしょう)


そのことは遺族が怒られている通りだと思います。


しかし、専門家の方は読むべき資料だと思います。

専門家でなくとも、例えば私のように、以前から殺戮者の犯罪モラルについて考えてきたような人は、読んでみてもいいと思うのです。

気になるのだったら、遺族に向けて、たとえば

「私は予防犯罪の観点から、資料としてこの本を読ませていただくことをお許しください」

と伝えて読めばいいと思います。

印税が気になるだけの方は、人から借りて読めばいいではないですか。


何度も出版されるべきことや内容ではありませんが、加害者本人の直接の考えや心理が分る唯一の資料であることは間違いないと思うのです。


予防犯罪として重要な資料にもなり、少年法の是非についても、この本は必要な気がしました。

そういう観点も踏まえて、遺族と加害者との間で何とか問題が解決されないかと願います。