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「絶歌」を読んでみました。
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神戸連続児童殺傷事件、元少年が手記出版
今週(おそらく今日)、1997年に起きた酒鬼薔薇聖斗事件(神戸市連続児童殺傷事件)の加害者が書いた手記を基に「絶歌」という本が出版されるみたいです。(太田出版)
早ければ本日10日と朝日新聞デジタルには書かれていましたが・・・。
被害者の家族も感じているみたいですが、今年に入って加害者が書いた手紙の内容が変わってきたと言われていました。
そのことについて、今年の三月にもブログに追記しましたが(下の記事参照)、こんなものなのでしょうね。
反省し、罪を認め、心から謝るという行為は、自分の未来や希望、生き方や信じてきたものを捨てるということにつながりやすいと考えるので、なかなか出来ない。
年が経ち、体力も気力も衰え始め、自分の力だけではどうにもならなくなりかけて、生きることより後何年で死ぬかを考え始めた時に、初めて「自分」の部分を捨てて、相手のことを考えるようになってくるのでしょうか。
映画「ショーシャンクの空に」で、主人公デュフレーン(ティム・ロビンス)の友人だったレッド(モーガン・フリーマン)が、毎年行われる仮釈放の面接で「もちろん反省しました・・・・」と答えているうちは釈放を認められなかった。
デュフレーンが脱獄し、サミュエル・ノートン所長(ボブ・ガントン)が不正を暴かれ拳銃自殺した何年も後(服役40年目)に、例によって仮釈放の面接が行われた。
レッドは「仮釈放・・・そんなものはもう私にはどうでもいいことです・・・」と話し始め、罪について反省した時、初めて仮釈放が認められました。
少年とレッドでは、年齢も違うし犯罪の経緯も意識も目的も全然違いますが、人を殺めてその人は帰ってこないのだということは、間違いなく共通点です。
仮釈放審査のシナリオの部分でレッドが言ったセリフを忠実に書いておきます。
更生?
更生ね・・・
どういう意味だか・・
更生というのは
国が作った言葉です
君たちに
背広やタイや仕事を
与えるために。
犯罪を犯して後悔しているのか知りたいのですか?
後悔しない日などない
犯罪を犯したその日からです。
あの当時の俺は
一人の男の命を奪ったバカな若造でした
彼と話したい
まともな話をしてみたい。
今の気持ちとか・・・
でも無理だ
彼はとうに死に、この老いぼれが残った。
罪を背負って。
更生?全く意味の無い言葉です。
もう不可の印を押してください。
これは時間の無駄です。
正直言って・・・
仮釈放などどうでもいい。
このセリフ自体は素晴らしい言葉でもありません、しかし今までの面接時に言っていたことから、今回大きく変わったのは「自分のこと」を言うのではなく「相手の気持ち」を言いだしたということです。
要するに私が言いたいのは内容の共通点ではなくて、反省するには40年もかかったということ。
そして付け加えますが、被害者が加害者を許すことは無いでしょう。
しかし、加害者がようやく自分が犯した罪に対して真摯に受け止めたかどうかがわかった時に、被害者は加害者への怒りの呪縛から解放されるということでしょうね。
そんなものなのでしょうね、そんなものなのだろうと思うのです。
いまでも、酷い事件は後を絶ちません。
北海道で何キロも少年を引きづり殺して、何とも思っていない男など・・・
ただ、凶悪な事件は全体的に減っているのは確かです。
犯人がいくら反省しても、亡くなった人が戻ってくるわけでもありません。
しかし、犯人の心理や気持ちの変化、事件の背景や、社会的環境など、読むことによって今後の事件に対して予防犯罪として生かせることがあるかもしれないと思いますので、読んでみたいと思います。
本人の手記がベースだとどうしても自分を守る部分が出てくるでしょうが、そのあたりも考慮しながら読んでみます。
またあとで、感想文でも書きます。
追伸)
土師守さん(当時小学6年の土師淳君の父親)は、出版の差し止めを言っているみたいです。
本は買えないかもしれませんね。
しかし、これで被害者の家族が苦しむならば、無理に読むこともないでしょう。
読まないと被害者の家族の気持ちも、加害者の今の心理もわかりませんが、読まずともわかる部分もありますので、私にはなんとも言えません。
無理してまで読む必要はないかと・・・、難しいですね。
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【酒鬼薔薇聖斗 18年目の反省と誠意の心】
神戸市連続殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)の経緯は下段に纏めています
この事件は、私の認識に間違いがなければ、少年の殺人事件としては、前例のない特別な更生プログラムを使って社会復帰することができた数少ない例になると思います。
1997年、事件当時は10歳だった山下彩花さんが亡くなって18年が経ち、加害者から山下さん宅に(弁護士を通じて)手紙が届いたそうです。
その内容は明かせないそうですが要旨は
「事件そのものに初めて触れており、事件に向き合っていることがわかる言葉がいくつもあった」
というものでした。
(過去に8回送られている手紙の中では一番長かったそうです)
お母さんの話によると
「手紙からは、奪ったものの大きさに打ちのめされた様子が伝わってきた」
とのことです。
内容はわかりませんが、被害者のお母さんの話から推測すると、ようやく本当の意味での「罪」を受け止めて「誠意」を持った懺悔と後悔の気持ちを被害者の両親に伝えられるようになってきたのだなと感じられます。
心から「誠意」を相手に伝えるという行為は、できそうでなかなか出来ないものです。
うわべの理屈で意識して謝ってみても「偽善者」や「ペテン師」としか受け止められないだろうし、かといって「誠意」を持ったお詫びをしないままならば、被害者はいつまでも怒らざるを得ないことになります。
私は、この事件が終わって、その内容を調べなおし、未必(みひつ)の故意での殺人はなくて、れっきとした殺人を犯す人間のことについて何度か考えてきました。
(島根県女子大生殺害事件、足利事件、そして先日の川崎中一殺害事件などです)
犯行の現場に出会ったような場合、ドラマなどではよく「落ち着け、冷静になれ」などと言っていますが、殺害犯側から見れば、多くの心理は、「冷静」なはずなのです。
殺人犯というのは、殺害を行おうとしている自分がいて、さらにその外側から実行者のを見ている自分がいると思うのです。
普段は同一人物なので、実行する自分と見ている自分には何らかの繋がりがあって、罪の意識や道徳観念は連携できるようになっているはずなのです。
しかし、殺戮ができる人間は、必ずと言っていいくらい、行動の自分と意識の自分は分離しているはずだと思っています。
この辺りは酒鬼薔薇聖斗の手記などを読んでみればわかります。
酒鬼薔薇聖斗の場合は当時まだ中学生で、道徳観念やその知識・経験も浅く、何が罪なのかという部分が身についていない内に、動物などの虐待や死に直面して、いつの日か行動する自分と考える自分のかい離が始まった。目に映る映像の世界と自分の頭との連携が無くなり、テレビゲームのように一方通行な伝達になってしまっている。
(意識の自分から行動の自分への一方通行、結果の確認は視覚と本能のみ)
考える自分の指示に対して行動する自分が思うように操れなくなると怒り出し、思った通りになればその結果は(かい離しているので)本能と反射神経だけが脳に伝わり興奮する。そして自慰行為を行うことによりその興奮を収めようとする。
(伝わるのは本能だけなのだからこうなって当然ともいえます)
成人した大人ならば、いろんな経験や判断力・理性が強くなって、こういった分離は難しくなっています。
だから「考える側の人間」が「実行する人間」との関係を無理にでも分離させようと色々考える。
イスラム国やオウムのような場合は、国家を作るという(勝手な)大義名分、ジハードの(これまた勝手な)拡張解釈。
三重県の女子中学生殺害は、過失致死なので「俺は殺すつもりはなかった」という部分。
たとえば、練炭殺人の木島佳苗(かなえ)などは、実行される状況を視覚的に見ないようにすることによって罪の伝達を断っています。
舞鶴高校生殺害事件の中勝美の場合は、私の想像ですが、自らをひ弱な偽善者になりきる一種の催眠術を心得ているのかも。
といった感じでしょうか。
特別だと思われるのは、先日の川崎中一殺害事件の犯人F。
この男は、行動の自分と意識の自分を分離せずに犯行を行ったと感じています。
「嫉妬」だけで人を殺す。殺す意思もある(喉という急所を狙って何度もカッターナイフで傷つけたから)。
果たして、できるでしょうか?
私には、犯行が完結できたのは、イスラム国の事件と、周りが暗くてよく見えなかったという理由しか思いつきません。
実行中は、間違いなくイスラム国を意識していたはずです。
でなければ絶対にできないと思うのです。
これらの事件の中では、酒鬼薔薇聖斗だけが18年目にしてようやく初めて「罪」を受け止めて心から謝るようになった気がします。
【損害賠償命令制度】
2007年以降は、裁判では「損害賠償命令制度」というものが出来て、刑事裁判でもこの制度の適用を申し出ると、本来民事である損害賠償を請求が刑事裁判でできるようになりました。
これは被害者にとっても民事裁判・刑事裁判と同じような審理を行わずに済み、裁判所も手間が省けて、良いと思うのです。
しかし、まだこれはこれで地方裁判所に限られるみたいなので、それもおかしいなと思っています。
三重県の事件は家裁から逆送で地裁での裁判なので適用できます。これによって寺輪さんのおとうさんは1億円の請求を行いました。
酒鬼薔薇聖斗の被害者である山下彩花さんのご両親は8000万円(しかしこの時は損害賠償命令制度はなかった)
(加害者家族は出版された本の印税と、本人と家族での毎月のわずかな返済で返済中)
川崎の上村くん殺害事件も間違いなく家裁から逆送で地裁での裁判となるでしょうから、損害賠償命令制度での請求となるでしょう。
ともあれ結果的には「誠意」がないということで、大概は損害賠償にまで発展しますが、被害者はお金がほしいのではなくて、犯人の「誠意」を見ているわけですよね。
「誠意」の意味がわかっている人はここまでの犯罪も竹刀のでしょうが、いずれの事件を見ても、犯人は自分から逃げるケースばかり。
こういうものなのでしょうか。
こういうものなのでしょうね。
酒鬼薔薇聖斗の場合は国をあげて?更生プログラムを実行しました。
しかし、それにかかったコストは相当なもののはずです。
川崎の犯人Fにも同じことをやるでしょうか。
三重県の寺輪さん殺害のSにはどうでしょうか。
川崎のFのほうが故意の殺人ですから、重くないといけません。
そして、更生プログラムによって改心するかといえば、可能性はあります。
三重県のSはどうでしょう。
過失致死なので川崎のFよりも罪が軽いでしょう。
しかし、こちらの方が厄介です。
この少年Sは、間違いなく
「たったこれだけのことで俺の人生が全部終わるなんて納得できない」
と思っています。
必ず思っています。
ゆえに、心から反省するには酒鬼薔薇聖斗ほどの年月はかかるでしょう。
私は犯罪の中でも殺人だけは特別だと思っています。
過失であれ、故意であれ
殺人だけは少年法の適用外にしてほしいくらいです。
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【酒鬼薔薇聖斗事件 当時からの経緯】
1997年(平成9年)
当時14歳の中学生による連続殺傷事件
2名が死亡し、3名が重軽傷
犯行声明文に酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と書かれていたことからこの事件を酒鬼薔薇聖斗事件と呼ぶ。

1997年(平成9年)2月10日午後4時 須磨区路上 小学生女児二人がショックレスハンマーで殴られ、一人は重傷。
被害者親が被害届を出し、中学校に生徒写真をみせてほしいと頼んだが学校側は拒否。
1997年(平成9年)3月16日午後0時25分 須磨竜が台の公園 小学四年女児に八角げんのう(金槌)で頭部僕打
3/23 女児は脳挫傷で死亡
1997年(平成9年)3月16日午後0時35分 小学三年生女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺す。
胃を貫通するほどの重症も命は取り留めた。
1997年(平成9年)5月24日午後 通称タンク山 小学五年生男児 靴紐で絞殺後に遺体を隠す
翌日、首を切断。(詳細は割愛)
翌々日 首を自宅に持ち帰り、洗浄 手紙を書く
27日 中学校校門前に首と手紙を置く
1997年(平成9年)6月28日 逮捕
1997年(平成9年)6月29日 神戸地裁に送検
1997年(平成9年)7月02日 FOCUSが顔写真掲載
1997年(平成9年)7月15日 通り魔事件で再逮捕
1997年(平成9年)7月16日 通り魔事件で送検
1997年(平成9年)7月25日 神戸地裁に一括送検(通り魔、殺害) 神戸少年鑑別所に移送
少年審判は非公開
1997年(平成9年)10月13日 関東医療少年院に移送
矯正教育計画 新課程「G3」疑似家族による治療開始
1997年(平成9年)10月頃 母親のように慕う女性精神科医を院生が「色っぽい白豚」と発言。それに激高してボールペンで院生の目を突こうとした。
1999年(平成11年) 女児遺族と8000万円の慰謝料で示談
2001年(平成13年)11月27日 東北中等少年院に移送
院生からいじめ。さらに院生が教官の資料から少年が酒鬼薔薇であることに気づきいじめがエスカレート
2002年(平成14年)6月 いじめにより半裸で意味不明の奇声。カッターナイフで周りを威嚇後、自身の性器を切り付ける。
2002年(平成14年)7月 神戸家庭裁判所は収容継続の判断
2003年(平成15年)3月 少年院仮退院申請
2004年(平成16年)3月10日 少年院仮退院(事件から7年) 法務省から被害者家族に連絡
2004年(平成16年)秋 法務省関係者と同居。フィランソロピストの一人が経営する工場に勤務。きわめて真面目。退社後に保護司宅で面接。
毎週一回、精神科医のカウンセリング、月に3回ほど実母と面接。
身元引受人と養子縁組、名前を変える。22歳。体重70キロを超えて昔の面影はなくなる。
2005年(平成17年)1月1日 本退院
2005年(平成17年)5月24日 被害者の八周忌。弁護士を通じて献花の申し出も遺族は断る
2007年(平成19年)3月 死亡した女児に対して退院後初めて謝罪の手紙。
「必死に生きようとする姿が見えてこない」とは遺族の言葉。
一橋文哉が、2004年秋に法務省幹部に取材を行ったところ、「ある団地の一室で法務省関係者と同居し、一緒に炊事や買い物を行うなど社会勉強中です。少年院で取得した溶接の資格を生かし、仮退院の数日後から毎朝8時、篤志家の一人が経営する工場に歩いて出勤し、仕事ぶりは極めて真面目。夕方5時に退社後は、保護司宅で面談を受ける日々です。ほかに毎週1回、精神科医のカウンセリングを受け、10日に1回程度は、母親とも会っているようです」と語っている
(参考:一橋文哉 『未解決 —封印された五つの捜査報告—』、WIKI)


