下の浮世絵は最後の浮世絵師と言われた月岡芳年の作。
月岡芳年は「血まみれ芳年」とも言われたことがあり、壮絶奇怪かつグロテスクな作品を描く浮世絵師でしたが、この話は後程ということにしたいです。
ここでは斉藤利三。勿論明智光秀の腹心の一人です。
この絵はいつの時の利三なのでしょうね。
私は、本能寺の変の後、中国大返しで淀川を登ってくる秀吉軍を待ち構える姿かなと思っています。
長槍を逆手に持ち、淀川に流れ込む円明寺川(小泉川)の向こうをじっと見つめている姿でしょうね。
この場所は丁度名神高速の大山崎インターチェンジ(長岡京市)がある場所で今はダイハツ工業の敷地になっていると思います。
(月岡芳年「月下の斥候」で描かれた斉藤利三)
秀吉を迎え撃つこの時、斉藤利三は先鋒として対峙します。
利三は「私のせいで殿(明智光秀)の運命を変えてしまった」と思っていたと思います。
明智軍の№2か№3の武将でありながら、最前線で秀吉軍を迎え撃とうとした気持ちは、(殿のためには私がここで敵軍を一歩も通すわけにはゆかぬ)という悲壮に近い決意があったと思っています。
実は斉藤利三には、本能寺の変の前に揉め事があったのです。
光秀の家臣となる前は、美濃の稲葉一鉄の家臣だった利三は、一鉄とは相性が悪く喧嘩別れのような形で稲葉一鉄のもとを離れ、遠縁の光秀を頼ったと言われています。
しかし一鉄はこれを許さず、信長に抗議をしたので話がややこしくなった。
信長は光秀に利三を一鉄に返せと言ったにもかかわらず、光秀はそれを断ったために信長が激怒し、光秀を酷く折檻したといわれています。
噂によれば、光秀の頭を敷居に押し付けて足蹴にしたとか。(定かではありません)
それでも光秀は利三を離さなかった。
結局信長が折れて、黙認するような感じになったそうです。
しかしこれが光秀の本能寺の変にかかわってゆく原因になったと考える人もいるくらいで、斉藤利三にしてみれば、「殿はそこまでして私を必要としてくれたのか・・・」と感無量だったとおもいます。
こうなれば、殿(光秀)のためなら死をも厭わないと考えるのも道理です。
上の浮世絵はそういう気持ちを秘めた斉藤利三の心が伝わってくるかのような絵に見えます。
結局斉藤利三はこの山崎の合戦で敗走し、捕縛されてさらし首になりました。
しかし、確実ではありませんが斉藤利三とその家系は織田・豊臣・徳川の時代に大きく関わっているのが不思議でもあります。
美濃の斉藤道三とはかかわりはありませんが、美濃の斉藤氏の一族で土岐氏の流れをくむ血筋で、明智光秀とも血縁があると言われています。
さらに不仲だった稲葉一鉄の娘との間に生まれた「お福」は、江戸時代の徳川家光の乳母となった春日局です。
江戸時代になってから、春日局の実兄である斎藤利宗も、なぜか秀吉の時には加藤清正に使えており江戸時代になって家光の旗本になっている。
江戸の時代のある日、老いた家康の前に、春日局の手引きで紹介されたとある老僧が家康に対して「おひさしゅうございます」と言ったとか。
その老僧は、徳川のお抱えとなり、やがて日光東照宮に桔梗の紋を飾るほどになり、明智平(あけちだいら)という地名まで付けたといわれています。
この、謎の人物はひょっとすると斉藤利三だったのでしょうか。
この戦国の動乱の中心で揉まれていながら、江戸時代まで家系を失わずにいた斉藤利三。
こんな風に想像すると、なんとも不思議な人物に思えてきます。