-----------------【70年目の原爆ドーム】----------------
原爆記念日に追記しました。
私が撮った70年目の原爆ドームを貼り付けておきます。
下の説明から、再度単純に考えますと
〇 原爆投下後に家族の安否や現場に向かった多くの人々は、解りやすく言えば今の福島原発の建屋内にどんどん入って行ったようなもの
〇 1シーベルトを超える被ばくをすると、白血病を誘発して血液を入れ替えない限り死ぬこと。
この二つははっきりとしているのではないかと思います。
今だったら原爆や放射能が解っているから、無謀な行動はとらないでしょうが、当時は原爆や放射能の事をほとんどの人がしらなかったわけで、こうやって想像してみれば、言葉がありません。
私も含めて現代の人々が当時の様子を想像するとしたら、こういった考えで想像するといいのかなと思っています。
-----------------以下の記事は2012/3/8に公開したものです
【福島原発と広島原爆の比較】
参考にした資料は 放射線影響研究所 のサイトが中心で、その内容を基にきんのすけが図で表しました。
【広島・長崎の原爆】
下の図は広島、長崎の原爆です。
ヒロシマはウラン原爆で長崎はプルトニウム原爆でした。
どちらも地上500~600メートルで爆発し、地上は灼熱地獄と化し上空には成層圏まで灼熱の核物質が舞い上がり、やがて冷やされて黒い雨となり地上に降り注ぎました。
核爆弾は爆発時に90%のガンマ線を放出し、10%の中性子線を放出したのだそうです。
この中性子線が怖くて、放射性物質で無いものを放射性物質に変えてしまうそうです。
原爆が爆発した時は地上が火の海だったのでだれも近寄れませんでしたが、数日してから安否を気遣った人々が家族や友人知人を探しにやってきます。
しかし、放射能は浮遊した状態だったので、助けに来たはずの人々がどんどん被ばくしてゆきました。
当時、被ばくや原爆病なんて言葉もなかったし、被ばく量を表すシーベルトなんて単位すらありませんでした。
ちなみに、物の被ばく量を表すのがグレイで人間への被ばく量を表すのがシーベルトです。
【被ばく者の様子】
以前にニュースで出ていましたが肥田舜太郎さん(95)という医師の話です。被ばく患者はどこも悪くないのに物凄く体がだるく、やがて数日後に理解できない事が起きます。急に熱が出て紫斑が体に現れ、髪が抜け落ち、吐血して亡くなっていったのだそうです。体がだるくて仕方がないそうで「原爆ぶらぶら病」と呼んでいた。
今でこそ内部被ばくという言葉がありましたが、このころは無かったので、何日もたってからバタバタと倒れてゆく姿に医師として何もしてやれない悔しさが、今でも残っているそうです。
○この二つの忌まわしい爆弾は、どれほどの被ばく量だったのかをまとめてみました。
放射線影響研究所の調べでは、広島原爆の場合爆心地では0.64グレイの最大被ばく線量だったそうです。
1グレイ=1シーベルトと考えてよく1時間の被ばく線量になりますので、爆心地にいた人はとてつもない被ばくを受けていることになります。
【1999年東海村原発事故で被曝致死量がわかった】
昔東海村の原発が事故を起こした時に、3人の作業員がホウ酸を手に抱えて炉心に入り、ホウ酸を注入したことによって日本の一大事を救ったという事件があったのをご存知でしょうか。この時の勇敢な3人によって、人の命と被ばく量の限界がわかりました。
35歳の作業員は16~20シーベルトも被ばくして、染色体破壊が激しく血液をすべて交換しましたがそれでも症状が再発して、とうとう事故から3か月弱で多臓器不全で亡くなりました。
40歳の作業員は6.0~10シーベルトの被ばくで、同じく染色体破壊がひどくつまりは白血病の状態で、血液をすべて交換しました。その後人と話せるようになりましたが7カ月を過ぎて多臓器不全で亡くなりました。
1~4.5シーベルトの被ばくを受けた54歳の作業員は一時白血球がゼロになり骨髄移植を行いました。その後回復して死ぬことは免れました。
つまり、人間が生きていられる被ばく量の限界は1~4シーベルトということになります。
勿論、1時間での被ばくの話ですよ。
【広島原爆と福島原発事故を比較】
広島原爆後に起きた火災が収まって3日後に爆心地に家族を探しに行った人がいたとします。
上の図から、その時の被ばく線量は80ミリシーベルト(80,000マイクロシーベルト)でした。
しかしその人はその場に二日間いたとすれば80×48で3840ミリシーベルトつまり3.8シーベルト被ばくしたことになります。もちろん骨髄移植なんて出来ませんから、白血球が無くなって死んでいったでしょう。
治療をしなければ少なくとも1シーベルト(1000ミリシーベルト、1000,000マイクロシーベルト)被ばくするとすぐに白血病になって死んでしまうことになります。
爆心地から1キロ離れると被ばく線量は百分の一(1/100)になるそうです。
二日後に爆心地から1キロ離れた所に来た人は、0.8ミリシーベルト(800マイクロシーベルト)被ばくすることになります。
1時間に0.8ミリシーベルトなので1500時間で1200ミリシーベルトつまり1.2シーベルトで致死量とすると、1500時間÷24時間は約62日なので、約2か月で致死量を超えて、この人は原爆から2か月後に謎の死を遂げてしまうことになります。
福島原発の原子炉の状態は 例えば 福島原発原子炉の状態 原子炉の放射線量 でわかります。
1号機は計器故障、2号機は10シーベルト、3号機は2.8シーベルト。これは炉の中の値なのですごく大きいです。東海村の作業員三人は、今でこそ10シーベルトですからもっと高い線量の時に炉にホウ酸を流し込んだのですからどれだけの勇気と覚悟がいった事でしょう。
2011年4月の段階で原子力保安院が公表した原子炉建屋内の被ばく線量は、
1号機で毎時10~49ミリシーベルト
3号機で毎時28~57ミリシーベルト
だった。
原子炉建屋内の被ばく線量を50ミリシーベルトとすれば、広島原爆投下後2~5日の間が80ミリシーベルトなので爆発一か月後に福島原発の原子炉建屋に入るということは
広島原爆が投下された後、約一週間してから爆心地に行くような感じ
ということがわかりました。
その後原子炉は冷却されて被ばく線量もかなり落ちているでしょうがそれでも10分の1はあるでしょうね。広島原爆では爆心地から500m離れると放射線量が10分の1になるそうなので、そう考えると
現在でも原子炉建屋に入るということは
広島原爆が投下されて一週間後に、爆心地から500m離れた所まで近づくようなもの
という感じですね。
そう思うと勇気がいります。作業員の方々はくれぐれも注意して作業してほしいです。
こう考えると、広島・長崎の原爆が投下された後に、家族知人の安否を心配して助けに来たり探しに来たりした沢山の人々は、今でいえば無防備でどんどん福島原発の原子炉建屋に入ってゆくようなもので、とても危険なことでした。当時はそんなことはだれもわかりませんでしたから後になって原爆後遺症などで沢山の人が命を落としたり、健康を壊したりしたことになります。
亡くなられた人々へのご冥福をお祈りいたします。
(注意)
これはあくまで放射線影響研究所の資料と過去の事件からたそがれきんのすけが割り出した結論ですので、正式には受けとらないようにしてください。そのうち専門家がまとめてくれるでしょう。