【内裏の火事と平安後期の天変地異】
平安時代の内裏(だいり)は実に何度も火災にあっています。
それとともに、内裏の代理として、貴族の屋敷などを借りて里内裏と呼んで政務を行っていました。
平安末期になると天皇がどこにいるのかわからないほどに里内裏で過ごすことが増えています。
鎌倉時代以降になると内裏の改修は行われずに、現在の京都御苑に落ち着くことになるのですね。
画像が重たかったらすいません。
上の表を見てください。クリックして隠れた右側も見てください。
平安時代中期以降の主な地震・災害を表にしました。
これをみてもわかりますが、平安時代後期というのは地震や火災、飢饉が沢山発生した時代なのですね。
表の中で二重線になっているところは、NHK大河ドラマ「平清盛」1月16日放映(二回目の放映)の頃になります。
ドラマでももうすぐ登場するでしょうが、平安末期は後白河天皇が院政を敷こうと七転八倒するわけです。
そんな中で、地震や災害、飢饉などのおかげで資金が思うように集まらなかったりします。
京都を襲った大きな災害を書いておきます。
【太郎焼亡(たろうしょうぼう)、次郎焼亡(じろうしょうぼう)】
1177年に起こった、平安京最大の大火災です。後にこの火災は太郎焼亡と呼ばれました。
NHK大河ドラマ「平清盛」でも物語中盤から後半に出てくると思います。
火の手はオレンジの矢印の通り、今の五条河原町付近から出火して北西方向に広がってゆきました。
当時下鴨神社(「オレンジの枠が」の「が」のあたり)に住んでいた鴨長明が書いた随筆「方丈記」 には
火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。
と書かれています。威の刻と書かれていますので夜の8時頃に起こった火災ですね。
平清盛の子供の平重盛の館も焼けてしまいます。
当時の高倉天皇は内裏(下の画像の緑四角)にはおらず、里内裏として閑院(緑の四角の右下あたり)にいましたので迫りくる火の手にあわてて避難して無事でした。
大惨事も癒えぬ翌年(1178)には、現在の京都駅の東側から西へと広がった次郎焼亡という大火災が起きます。
ここで、いくつか当時の平安京のことで解ることがあります。
上の画像の通り上から見れば太郎焼亡の火災範囲はオレンジ枠の平安京全体の約1/6ほどになります。
しかし、方丈記を書いた鴨長明の目は「すべての都のうち、三分の二」と言っています。
さらに火の手は風向きが西向きなのに朱雀大路より西(左側)には広がりませんでした。
上の画像は当時の里内裏の場所です。赤いピンのところがそうです。ここに移って政務を行っていました。
NHKの大河ドラマ「平清盛」も本来殿上人で会えるはずもない白川院に狭い庭で舞子と平忠盛が拝謁していました。白川院が狭い里内裏にいたとしたら、あんな感じで謁見出来るのもうなずけると思います。
貴族の一番下は従五位下。それより下の位階では貴族とは認められずに天皇への拝謁は許されなかったはずですが、こういった律令の規律も平安時代後期では崩れていたのかもしれません。
さて、鴨長明が見た大火災ですが、彼の目では「3分の2」と言っています。実際は6分の1なのにどういうこtでしょうか。
内裏から南の羅城門まで伸びる1本の大通りである朱雀大路より西(左)は、ほとんど人が住まなくなっていた荒地だったと聞きます。だから太郎焼亡も次郎焼亡も朱雀大路より西には火災が広がらなかったとみてよいのではないでしょうか。
大内裏の西側も平安後期には塀が崩れ落ちて獣が棲む不気味な場所だったと言われています、大内裏(だいだいり)の中にある内裏は朱雀大路より東側にあったので、朱雀大路より西(左)へは何もないので火災が広がらなかった。
当時の平安時代末期の平安京は朱雀大路よりも東(右)側だけになっていたことがわかります。
下の図の里内裏の場所を見ても、皇族貴族の居住は今の御池通りより北で同志社大学のある今出川通りまで、そして朱雀大路よりも東(右)側にしか住んでいなかったと思います。
(文献からは今の5条通りから京都駅の間にも居住区が集中していたそうです)
そうすると、鴨長明が6分の1ではなく3分の2と言った意味が解ります。
平安時代末期の人口統計資料は、全くないそうです。
方丈記などに記されている内容などをもとに学者が計算した平安京後期の人口は10万人から15万人だったそうですね。
太郎焼亡で亡くなった人の数も、史料から計算するとざっと4,5万人だったそうです。
京都の半分から3分の1に上る人が、この大火災で死んだことになります。
そして翌年の次郎焼亡も考慮すると、1177年、78年で平安京の人口は半分以下になり、京の都は焼け野原になった。
そして追い打ちをかけるように、1181年に養和の大飢饉が起きます。
想像してください。平安末期は羅城門は崩れ果て、大きな水たまりでぼこぼこになった朱雀大路の西側は朽ち果てた家が草に覆われた野原になり、東側は今の京都駅から三条通りまでが黒く焦げ崩れたた家が改修もされずに異臭を放ち、御池通りから京都御苑あたりだけ僅かにに貴族の館が残り、寂しく明かりを灯すという情景を。
やがて平清盛が亡くなると、室町の時代まで都は一挙に見捨てられるわけでしょうね。



