平安貴族って艶やかで、女性も髪が長くて十二単を着てなんだか優雅な印象があります。
その半面、人間はどうしても生理現象があるわけで…。
上の図の、オレンジの格子の部分だけが平安時代の平安京です。
この中に10~15万人の人間が住んでいました。
今日は臭い話ですいません。特に平安中期になると中央の朱雀大路より向かって右側に人口の殆どが住んでいたわけです。それだけの人々が、毎日大小の排泄物を流すとなると、それなりの施設が必要になります。
下水道と水洗トイレ。
現在では当たり前の施設ですが、当時はどうだったのでしょうか。
実は水洗トイレは奈良時代からあったのです。
上流に水を溜めておき、溝を跨ぐようにして用を足して、終わると溜まった水を流す。
もちろん沿いならば、木で作ったトイレがあったそうです。
これが川屋と呼ばれるようになり、厠となったと聞きます。
ところが、平安時代の遺構がそこそこ出ている京都ではありますが、平安時代に使われた下水はまだ見つかっていないそうです。
それどころか、今では生鮮品のお店が並ぶ錦小路は、平安時代は「糞小路」(くそこうじ)と呼ばれていたらしく、排泄物の溜まり場で悪臭が漂い、人が近づかなかったと聞きます。錦小路といえば四条通りより一筋上(北)の通りです。
もうひとつ、平安時代って大きな家で、寝床が中心に作られている寝殿造りという屋敷も有名ですが、実はこのように人が住む大きな屋敷にトイレが無かったそうです。
どうやって用を足していたのでしょうか。
これは小便用の簡易トイレ。
これが大便を兼ねたトイレだそうです。
上の写真のトイレはイマイチわかるようなわからないような(笑)
下のトイレは想像が付きますね。蓋を開けて鳥居のような取っ手の方向に跨いで用を足す。と!思いきやそうではなかった!
実は鳥居のような取っ手は「絹隠し(きぬかくし)」と呼ばれて、こちら側がお尻になるそうです。鎌倉時代あたりからしゃがむ向きが反対になって、鳥居ではなく板になって、きぬかくしがキンカクシになったそうです。
平安時代の女性はもちろんパンティーなんかはいていません。十二単(ひとえ)とはいっても、十二枚もの着物を着ているわけではないのですが、どんなに着ていても前はパカッとまくれるようになっていたそうです。
それで、部屋の隅に置いておき、用が出来ると部屋の隅に移動してこの箱を跨いで、お尻の方が汚れないように、このキヌカクシの上に着物の後ろ側をかけておこなったそうで、これなら着物でこの箱がスッポリと隠れてしまいますね。手には扇子を持って顔を隠しながら用を足したそうです。
この簡易トイレを「樋箱(ひばこ)」と呼びました。箱の中に砂を敷きます。用が終わると「樋洗(ひすまし)」と言われるトイレ係の人がいて、中の箱を取り出して「樋殿(ひどの)」と呼ばれる野ツボのような所にほかしに行ったそうです。
しかし、いつも樋洗(ひすまし)さんがいるわけでもなく、平安時代の部屋は結構臭かったと言われています。そのために女房共はお香を焚いたとも言われています。
そうすると、大阪城を建てた豊臣秀吉はすごいですね、今でも大阪の中央大通りと谷町筋の少し西南に「太閤下水」と呼ばれる下水が残っています。なんと、この下水、400年以上経った現在も大阪市が現役で使っています。
道路脇から今でも見ることができるようになっている太閤下水。
(下のほうの石垣がそうですよ)
追記
私の大昔の記憶なのですが、実家が農家で桑畑や栗畑や田圃が回りにあり、お風呂も五右衛門風呂だったし、米も釜で炊いていた記憶があります。
農家は排泄物の利用がしっかりしていたので、トイレの糞尿を汲み取って肥料として畑に撒いていた。
だから、風向き次第で、肥えの匂いが部屋に漂ってきました。ちょうど汲み取り屋さんが来た時の匂いを柔らかく薄めた感じ。
嬉しい匂いではないけど、慣れると自然の匂い、例えば朝早く森に入った時に嗅ぐ「草いきれ」なんかは精子の匂いに近いですよね。
平安時代の人も当たり前の匂いには違和感を覚えなかったでしょうね。