江戸初期の大阪 |         きんぱこ(^^)v  

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      砂坂を這う蟻  たそがれきんのすけ

2011年11月。NHK「江」では丁度大阪の陣をやっていますね。


これが江戸時代前期の大阪です。



昔の大阪城は大きかった。

左の川は淀川なんですが、今の
大川(おおかわ)です。
中之島って聞いたこと無いですか、天満橋、北浜、淀屋橋と流れてる川です。この大川が昔の淀川でした。

この頃の大阪城は、西は今の
松屋町筋(人形や花火を売っている通り)まであって、南は長堀通りと千日前通りの間まである大きなものでした。


上の写真では、中央下側に横に走る川があります。

これは今でもあって、東横堀川といいます。




この川に並行して上側が松屋町筋

下側が堺筋通りです

梅田や大阪駅は画面の左下方になります。




この川の右端の切れ目から直角に下に曲がって道頓堀川(どうとんぼりがわ)となります。

つまり「なんば」は画面の右下方になります。




写真右上に空堀が三角形になったところがありますよね。道のような筋が逆『く』の字になっているところです。

ここが、真田幸村がいた通称真田丸(さなだまる)」といわれるところです。




堀の中に柵を設けて徳川軍が中に入れなように工夫されていました。




真田丸を含めて写真右奥にのびる空堀(水の無い堀)までが大阪城です。




この空堀が大阪城の外郭堀だったんですね。




そして、この外郭堀の外は、田圃と畑が広がり、徳川軍で埋め尽くされていました。

外郭掘は秀吉が死ぬ前に秀忠のことが心配で、外堀の外に、地形を生かしてもう一重大きな掘りを作らせたものです。



写真の右上に少し濃い茶色の塊があります。

ここが「四天王寺」です。

写真の左の淀川から分かれて上に流れている川は大和川(やまとがわ)です。

知ってる人は「えっ!なんで?」と思うでしょう。

今の大和川は奈良から大阪市と堺市の間を流れています。

全然違いますよね。今の大川が昔の淀川のあった位置みたいですしね。

この大阪城に何十万人という豊臣軍が籠城していました。

        きんぱこ(^^)v  -豊臣大阪城

秀吉が残した金はいくらだったか、今でも算出仕切れていません。

小判だけでも分かっているだけで(一枚十万円とすると)70億円ほど。銀貨とか合わせると.150億とも200億円とも言われています。
それ以外に「
太閤分銅金(たいこうふんどうきん)」といって、小判にする前の金塊が城の蔵に数えきれないほどあったそうです。
二千枚吹き、とか言って、一つの分銅金で大判二千枚(小判なら二万枚)作れますから大変なものでした。

二千枚吹きが100個あったら、2000億円になりますね。ひょっとすると1兆円ほどあったのかもしれません。


だから何年も大阪城に籠城が出来たみたいです。

けど、大阪城にいる武士は浪人の集まりです。

戦争も無くなって、武士は必要無くなりました。

今風に考えると、釜ヶ崎の労働者や浮浪者が大阪城に集まって、大阪城からお金をもらっていた。

もらう者は、最初は喜ぶでしょうが、いつか金が無くなると自分の生きる場所も無くなると感じていたでしょう。

最後の決戦のとき、大阪城の豊臣側の武将は、相手と戦いながら
死場所を見つけた喜びを胸に感じながら、笑いながら死んでいった様な気がします。