1985年の今日12/31 | Toshitadaのブログ

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1985年の今日12/31
立川 清登 死没

音源
↓★六甲おろし
https://youtu.be/yV814_p2fxE?si=DzGdKKmvn2D72KHf

本日は他に
テオドール・エステン(オーステン)の誕生日(1813)[独]
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=4649817081796938&id=100003060756147

アーネスト・オースティンの誕生日(1874)[英]
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2110307852414553&id=100003060756147

アーネスト・ジョン・モーランの誕生日(1894)[英]
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2351702314941771&id=100003060756147

フランク・スキナーの誕生日(1897)[米]
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=5458391424272829&id=100003060756147

シルベストレ・レブエルタスの誕生日(1899)[墨]
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1300534110058602&id=100003060756147

ジェニファー・ヒグドンの誕生日(1962)[米]
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1805127622932579&id=100003060756147

フランツ・イグナーツ・ベックの命日(1809)[独→仏]
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2412861392159196&id=100003060756147

シャルル・ケクランの命日(1950)[仏]
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1374555505989795&id=100003060756147

シリル・スコットの命日(1970)[英]
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エリオット・ワイスガーバーの命日(2001)[米→加]
https://www.facebook.com/100003060756147/posts/3336988083079851/

立川清登
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
立川 清登(たちかわ すみと、1929年〈昭和4年〉2月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月31日)は、日本のバリトン歌手。二期会所属。本名は立川 澄人(たつかわ すみと)。旧芸名は立川 澄人、所属レコード会社はビクター音楽産業(現在のJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)。洗足学園大学客員教授も務めた。
来歴・生涯[編集]
大分県大分市出身。大分県立別府第二高等学校(現在の大分県立芸術緑丘高等学校)、東京芸術大学卒業。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、中山悌一に師事し、1953年『椿姫』のジェルモンでデビュー。歌劇を始めミュージカル、テレビ番組への出演も多く、NHK紅白歌合戦にも1963年から1966年まで連続4回出場した。代表的な役は『こうもり』のファルケ博士や『フィガロの結婚』のフィガロなど。1960年代後半、芸名を「清登(読み方は“すみと”のまま)」に改名。姓名判断の大家の先生に診てもらったところ、「澄人という名前は強すぎてそのあまり、悪いことが身内に降りかかってしまう」と言われる。実姉を飛行機事故で亡くし(後述)、従弟も交通事故に遭ったことで「他にも影響が及ぶかと思うと怖くなった」と思って改名したという[1]。
代表曲は『みんなのうた』で放送された「大きな古時計」、1980年にリリースされた「阪神タイガースの歌」など。オペラ以外にも童謡、歌謡曲など幅広いジャンルで歌唱を残している。
立川は細い目をした親しみやすい風貌、オペラでも上記の役やパパゲーノ、レポレロなど喜劇系を得意としたユーモラスなキャラクター、機知にとんだ語り口から本業の歌手以外でも司会等、テレビタレントとしても活躍。NHK『世界の音楽』や『音楽をどうぞ』の司会、フジテレビ系列『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員などでも知られる。この他、FM東京系列『新日鐵アワー・音楽の森』の2代目パーソナリティー(初代は山本直純、立川の没後に羽田健太郎が引き継ぐ)や、NHK教育テレビの小学2年生向け学校放送番組『うたって・ゴー』にも出演した。1983年8月6日からには、同年4月の八木治郎の急逝で空席となっていた毎日放送(MBS)の土曜朝のワイドショー番組『すてきな出逢い いい朝8時』の2代目司会を務めた[2]。
1973年、立川の出身地でもある大分県の民話にちなんだ創作オペラ「吉四六昇天」(清水脩作曲)の主役として特別出演した。
ところが1985年12月10日、鳥取県米子市内のホテルで開かれたディナーショーにて最後の曲「メモリー」を歌唱中に身体の不調を訴えそのまま入院、持病の高血圧が原因による脳幹出血により意識不明となった。立川も一時は意識を回復したものの、左半身麻痺を併発して12月31日に治療の甲斐もなく都内の病院にて脳溢血のため死去した。56歳没。
翌1986年1月4日、立川が司会を務めていた「いい朝8時」では追悼企画を組み、サブ司会者のうつみ宮土理と野村啓司(当時MBSアナウンサー)が立川の思い出を振り返った。また、同年1月13日、審査員を務めていた「オールスター家族対抗歌合戦」で追悼特番を放送、同じく審査員の近江俊郎が弔辞を読み号泣した。
姓の読みは「うたって・ゴー」のオープニングでも自ら「こんにちは、たちかわのおじさんだよ~!」とコールしているが、正式には「たつかわ」である。テレビ・ラジオ等に出演の際紹介される度に「たちかわ」と思い込んだ視聴者・聴取者からの「誤りではないか」との問い合わせが放送局に相次ぎ、混乱を防ぐためにやむなく芸名として「たちかわ」とした経緯がある。
1966年3月5日に富士山上空で発生した英国海外航空機空中分解事故では、夫の転勤先のミャンマーへと向かう実姉とその家族を亡くしている。
出演番組[編集]
テレビ
音楽をどうぞ(NHK、歌と司会)-1960年~1966年
世界の音楽(NHK、司会)-1968年1月~1974年3月
みんなのうた(NHK、「大きな古時計」ほか)
ドリトル先生航海記(NHK、ドリトル先生の声)
ゲーム ホントにホント?(NHK、黄色席)
うたって・ゴー(NHK教育)-1977年~1985年
ハテナ?ドンぴしゃ!(日本テレビ)
おあじはいかが(TBS、司会)
世界びっくりスペシャル(フジテレビ、レギュラー解答者)-1971年10月~1972年3月
夜のヒットスタジオ(フジテレビ)1976年8月9日 (四季の歌を歌唱)
オールスター家族対抗歌合戦(フジテレビ、審査員)
スターどっきり㊙報告(フジテレビ、司会)
あじのある旅(毎日放送、司会)
すてきな出逢い いい朝8時(毎日放送、司会)-1983年8月~1985年12月
ラジオ
立川清人の世界の街から(TBSラジオ)
あおぞらワイド(ニッポン放送)
立川清登のミュージックダイアリー(ニッポン放送)-1978年4月~1985年12月
新日鐵アワー・音楽の森(エフエム東京)
映画[編集]
がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-(パラマウント映画、本人役)
CM[編集]
ヒゲタしょうゆ
日本マクドナルド
本田技研工業「パルフレイ」(スクーター)
スズケン「さんけん茶」
メガネの相沢
NHK紅白歌合戦出場歴[編集]
年度/放送回
曲目
対戦相手
1963年(昭和38年)/第14回
運がよけりゃ
江利チエミ
1964年(昭和39年)/第15回
オー・ソレ・ミオ
岸洋子
1965年(昭和40年)/第16回
教会へ行こう
朝丘雪路
1966年(昭和41年)/第17回
イエスタディ
岸洋子