そろそろこんばんは!!

暇すぎてまた奥多摩に行きたくなってきた田中です。

前回の千羽の記事を見て「ん?」と思った方もいるでしょう。

奥多摩シリーズはどうしたのか?いつものように終がついていないんだがと。

…サボって千羽の記事を書いてしまいました。

あんまり長いシリーズは好きじゃないですよ、田中は飽きちゃうんで(言い訳)

仕切り直して今回が本当の最後となります。

最後にふさわしい物件、「奥多摩寮」を紹介します!

寮の名にふさわしいこぢんまりとした物件になります

崩壊が進んでいるからか、モノが結構残っているので大満足でした。

また奥山掴で触れたスリルの味を覚えた廃墟でもあります。

それでは本編へ


奥多摩ロープウェイからバスに乗りおそらく使う住民などいないだろうバス停に降りた。

鴨沢小中学と奥多摩ロープウェイはバスが通る新道付近にあったが、奥多摩寮は「奥多摩むかしみち」と言われている旧道沿いにあり高低差があるため直接繋がっている道は少ない。

しかしむかしみちの地図をよく見ると小さな道が記されていたのだ。

Googleマップには載っておらずストリートビューでも確認できない。

ドキドキして現地に着いたが、ちゃんと道は存在した

よく覚えていない上Googleマップなどで様子を確認できないが、かなり道が急で階段はところどころ壊れていたが通れた


いざ奥多摩寮へ

意外にも道を通る車が多く入るのはためらわれた。

周りには潰れたはなれ(後に写真あり)があり、雰囲気は抜群だ。


まずは簡単に侵入できるが何もない建物

空に浮いていた部屋は完全に床が抜けて壁が少し残るのみだ。

おいおい、なんだこの意味ありげなロープは。

当時の私たちはくくるには穴がデカすぎると笑ったが、よく見ると首がちょうど入りそうな小さな穴もある

しかし不可解なのは天井が高い割に踏み台らしきモノがないことだ。


侵入が大変な方、こちらが本編

倒れたタンスに取れまくった扉、それに割れまくったガラス。

王道ではあるがなかなかインパクトがある。

モノがほとんどないような簡単に行ける廃墟にしか行ったことがないのでこれはなかなか興奮した。

思いっきりうつるオーブはこれが初めてではない。

暗いとこではよくあることでなんとも思わない

比較的モノが残っている。

今後も紹介するがガスコンロなど生活の跡があった。

ロープを天井に吊るした道具がどこかに写ってますねぇ…


私の大嫌いな塩ラーメン。

さっぱりし過ぎているからだが、どう見ても最近のものだろう。

他にに2022年(訪問したのは同年8月)の頭で賞味期限が切れているお茶もあった。

やはり誰が住んでいたのだろう。

確かこちらの方が年代が1987年だったので、ちゃんと使われていたのはこちらだろう(後述)

食器が綺麗に残っているのには訳がある。

炊事場に行くまでの部屋が崩落しており、床は大きく崖側に傾いている。

走らなければ落ちてしまうかもしれない

下を見ると奥多摩湖までの高低差がありすぎて水面がよく見えない。

ぼんやりして周りと水面の境界が掴めないのだ。

この光景を見たからか危険な奥山掴に行く愚行をしてしまうのだった。

友達はどうやこれらのスリルを感じる場として廃墟が好きになったようだ。(無論私は違うううう!!!)

1人では行っていないようだが、彼の寿命は短いだろう

ハエ叩きでどうにかなるレベルの蚊ではない


ちなみにこの下の床は抜けており、これを書いた人は床が抜ける前か浮遊ができた可能性がある。

ちなみに広田秀樹さんは新潟県の長岡大学の教授である。

長岡大学は一時偏差値も高くない地方の大学で学級崩壊を起こし、退学率が20%にも達していた。

しかし彼と学長らは生徒には「私語厳禁」「遅刻・途中退室禁止」先生には「生徒を甘やかさない」などを徹底させる改革に取り組み、退学率を減らすことに成功した。

取り組みはかなり過激であり守らない者は彼ら教授と生徒10人で構成される「マナー部」が乗り込んだそうである。

…もしかして広田秀樹さんらによって居場所を奪った荒れた生徒なのかもしれない。(広田秀樹さんは現在まで長岡大学と長岡短期大学にしか講師として在籍していない)

まあ他の考えられる要因を挙げたらキリがないが改革の時期は2004〜07年で物件が既にネットで紹介されいてもおかしくはない。


その位置は確かに目につくけど普通に不便なカレンダー。

現役の時は従業員にティンカーベルでもいたんですかねぇ…

確か1985年だった気がするので2年ラグがあることになる。

おそらく面倒だったので変えなかったのだろう

扉を開けたらそこは崖

正確には崩落しているだけだがかなりビビった。

扉は閉まっていた気もするし危ない、すごく暗かったし

完全に崩壊した離れ

どうやら寮母がおり別の建物に住んでいたらしい


果たして寮とはなんなのか?

どうやら小河内ダムの従業員が使っていたものらしい

いつ破棄されたかは不明だが、カレンダー通りなら1980年代末となる。

またどこかで現役時代の人が泊まっている写真を見た気がするのだが調べて見つからなかった。

何かと混ざっている可能性もあるが、知っている人は教えてほしい。


これにて奥多摩シリーズは終了だ。

書いていたら行きたくなってきた。

まだ行ってない廃墟もいくつかあるので行きたい。


評価

4/5 残留物の多い良い廃墟。その正体は謎が多い


行き方

奥多摩駅からバスで板小屋下車

近くの階段を降り、旧道を奥多摩駅方面に戻ってすぐ


23/10/18一部修正