大学の本学に移った頃、坂道に建った家に間借りをしていた。主たちの住んでいるのは玄関のある2階と3階、私が借りていたのは1階の十畳一間。専用のトイレ、出入り口と台所、共用の風呂があったが、風呂に入るとき以外に大家が降りてくることはほとんどなかった。

 

家から私鉄の駅までの途中に小さな女子短大があり、すれ違うときの香水の香りが新鮮だった。1人暮らしの広い部屋、しかも絶好の環境となれば、よからぬことを思いついて当然だろう。しかし誰にも信じてもらえないが、女性と何を話していいかもわからなかった当時の私は、たとえ何度かすれ違ったことのある女学生から微笑みかけられても、顔をこわばらせてぺこりと頭を下げるのが精一杯だった。

 

 その日は講義がひとつしかなく、昼近くになって大学に行った。教室に入ると黒板に“休講”の文字。友人は

「ヤリィ!」

と私に声を掛け親指を立てて見せ、ガールフレンドと伴にどこかに消えた。わざわざこのためだけに来たのに、「はいそうですか。」と折り返し家に帰るのも癪で、1人校舎前のベンチに座り足元を忙しげに過ぎて行く蟻を眺めていた。

 

 時折吹く風が、背中に立つ大きな銀杏の新緑の葉を揺らしていく。

「あのぉ、確か同じ講義を…」

少し息を切らした声が、どうやら自分に話しかけているらしいとわかるまでしばらくかかった。

「えっ?」

視線を上げると、件の講義でよく見かける女性だった。肩で切りそろえたストレートの髪、切れ長の目。いつも青いファイルを抱きかかえ、ヴィトンのバッグを肩から下げていた。背が高く清楚な感じで、少なからず気になる存在だった。

「ああ、すみません。いや、どうも休講のようです。」

「そうですか。…わざわざ来たのに、残念。」

そう言ってファイルを抱きしめると軽くため息をついた。

陽はまだ高く、空は雲ひとつなく晴れ渡っている。

「何時もいちばん右奥に座ってますよね?」

少し離れてベンチに腰をおろしながら彼女が言った。

僕のことを知っている?え?驚いた!いや、嬉しかった。

「あ、その…あそこだと退屈になった時抜け出しやすいから。」

「そうなんですか?でも、抜け出すより、寝てることが多いみたいに思いますけど?」

こちらを諭すような視線とは裏腹に、頬には笑みが浮かんでいた。

「え、見てたんですか。まいったな。」

「ふふっ、隣に座ったこともあるんですよ。」

「えっ、噓でしょう!? 」

「本当ですよ、他に空いているとこなかったから。一応、起こさないように気を付けたけど。」

目を覚まさなかったことを悔やんだが、いまさらどうしようもない。ちょっと待てよ。彼女はさっき“わざわざ”と言った。つまり、これから予定がないということじゃないのか?

チャンスだ!この際思いきって…。いや、断られたらどうする?毎週同じ講義で顔を合わせるのに、気まずくなるんじゃないか?いや2人きりのこんなチャンス、また来るなんてないだろう。どうする?

「では、また来週。」

こちらの迷いを打ち消すかのように、彼女は立ち上がりそう言った。

「はい…さよなら。」

「さようなら。ふふっ。」

意味ありげな微笑みに、しばしボーっとしていた。

 

しかしこのことがきっかけでそれから言葉を交わすようになり、講義を休んだときには互いにノートを貸し借りした。付き合っているというより、たまに一緒に喫茶店で彼女の問いに答えるようにして田舎や高校時代のことを話すのが楽しかった。

 

 しばらくそんな関係が続き校庭の楓が赤く染まりだした頃、いつもの喫茶店で思いやりの話題になった。自分が他人のために何をせねばならないか、そしていつもどういう行動をとろうとしているのかをお互いに話しているとき、彼女は私の話を途中でさえぎりこう言った。

「ねえ、あなたが親切とか優しさと思っていることの中に、おせっかい、傍迷惑が混じっていることに気がついてる?」

一瞬、ムッとした。

「よく『相手の立場に立って行動しろ』って言うじゃない?でもあれは嘘。だって、相手の立場に立っていると思っているのは自分で、本当に相手がどう思っているのかは誰にもわからない。違う?」

確かに相手がどう思っているかは、自分の推測でしかない。

「じゃあどうすればいいのか。ベターなのはよく知った身近な人を思い浮かべればいい。その人だったらどうするだろうか、ってね。そうすれば、相手に対する見方も変わるし、どういう行動をとればいいのかも解ってくる。」

吸った息を一旦止め、さらに言葉を続けた。

「ある日、あなたは庭の落ち葉を掃き集めいた。ふと隣の家の庭を見ると、同じように落ち葉だらけ。そこでその庭の落ち葉も集めて焚き火をし、せっかくだからとお芋を焼いた。やがてお隣さんが帰ってきたので、お芋をおすそ分けに持っていく。隣の人は掃除してくれたことに感謝し、喜んでお芋を受け取る。あなたの考えるストーリーはこうでしょうね。」

コーヒーカップの縁をゆっくり指でなぞりながら、まるで推理小説の謎解きのような口調で彼女は話した。

「ところが、その人は落ち葉で栞を作ろうと考えていた。庭を掃かなかったのは、たくさんの落ち葉のなかから気に入ったものを見つけたかったから。ところが誰かさんのおかげで計画は丸つぶれ、あろうことか大切な落ち葉を燃やして焼いたお芋が、自分の手の中にある。」

彼女は両ひじをテーブルにつき、指を絡めてその上に顎を乗せた。どちらかというと否定的な話をするときに、彼女がとる仕草だ。

「あなたはとても優しい。これは本当よ。だけど人には色々な考え方があるってことを頭に入れておかないと、いつまでも“お節介なお人好し”のままなの。」

 

ショックだった。それまで考えても見なかったことだ。愚かな自分に対する警告、いや、自分自身を否定されたような気がした。好意と思ってしていたことが、実はその人にとっては迷惑なことだった。独りよがりの自己満足…

 

 果たして自分は、どれほど他人に迷惑をかけてきたのか。