うす暗い空間は四方に果てしなく伸び、低い周期的な音が小さく唸るように響いている。空気は湿って重く、かすかな黴臭さ、腐敗臭が生温かい風の中に漂う。
ずいぶんと迷った。もちろん、来るべき場所でないことも分っている。しかし徐々に膨らんでいく気がかりに、このままでは押しつぶされてしまいそうだ。誰かに意見を求めたい。そう、自分と対極にいるあの相手に。
彼はある日突然現れた。どこからどうやって来たのかはわからない。もちろん素性など知る由もない。しかし彼の存在は大きい。それまで私は自分の考えに疑問など抱いたことはなかった。主の行動はすべて私の思う方向へ行われた。ところが彼はすべてを否定し、主の価値観を揺るがせた。かく言う私もそうだ。はじめて彼にあった時に浴びせられた言葉で全身が凍り付き、それまでの自分を恥ずかしくさえ思った。自分に全く自信が持てなくなったといっていい。だから今日も…。
薄明かりの中あたりをうかがうが、薄暗がりの中には誰もいないようだ。さては、行っているのか。ならば出直すしかなかろうが、このどうしようもない気持ちにあとどれだけ耐えられるだろうか。
「ほう、これはこれは。ここでまた会うとは…」
不意に、右肩越しに声が聞こえた。いたのか。全身黒づくめで現れたこの人物こそ、不本意ながら話を聞いてもらおうとしている相手だ。まるで獲物を待ち伏せしていた蛇のように、まったく気配を感じなかった。初めてここに来たとき、不意に出現した彼に息を飲み危うく
悲鳴をあげるところだった。
「まあ、掛けたまえ。」
いつの間にか椅子が二脚、向き合う格好で現れた。
「失敬して足を組ませてもらうよ。足を組むクセと言うのは、身体のゆがみが原因らしい。なんとか言うストレッチをやれば改善されるらしいが、どうもあの動きは好きになれん。なにせ、私は鋼の関節を持っているのでね。ところで、かなり思いつめたご様子。一体何があったのだ?」
「いや…ちょっと、その、胸につかえたものがあって、そのことであなたの意見を聞きたくて。」
「ほう、私ごときの意見を聞きたい、と。」
相変わらず嫌味な言い方だ、決して自分を謙遜などしていないくせに。顎を上げ人を見下したような視線、勝ち誇ったような響きのある話し方には反吐が出る。
やがて椅子の背にもたれかかると、ひじ掛けに乗せていた両手を口の前で合わせた。しばらくその格好でこちらを見つめていたが、軽く頭を左に傾け、話の先を促した。傲慢だと思っているのが態度に出てはしまいかと、軽く一つ咳払いをして続けた。
「他人を助けようとした行為、つまり自分がある人物に対して良かれと思って取った行動を、果たしてその人物が正当に評価してくれているのかが気になっている。ひょっとして見返りを期待しているんじゃないかと変に勘繰られてやしまいか、と。」
「貴様が取った行動が、正当に評価されるのかどうかが不安?相変わらず人目ばかりを気にして、自分の行動ががんじがらめになっておいでのようだ。そもそも、なぜそこまで他人のことを気にかけるのだ?他人を助けるために、自分の時間と労力を使うことは楽しいことか?」
「楽しいとか楽しくないとかではなく、困っている人を見かけたら助けるのは当然のことだろう?黙って見過ごすことはできない。」
「ふん、困っている人を見かけたら助けるのは当然だと‥。だが、たまたま見ず知らずの人間が困っているのを見かけたからと言って、彼のために尽くしてやることは貴様の義務なのか?そうではなかろう。むしろ限られた時間の中、己を高めることを考え己のために生きていく、それこそが我々に与えられた義務であり特権だと思うが。」
静かに椅子から立ち上がると、ゆっくりと後ろを向いた。
「人は自己実現のために行動を起こし、達成感を味わうことによって満足し、また同じ感覚を味わおうと行動を起こす。自分が達成感という喜びを味わいたければ、まず考えなければならないのは今から起こそうとしている行動が、自分にとつてプラスなのかマイナスなのかだ。その判断をしなければならんときに、第三者のためになど…」
「しかし、それはあまりにも自分の事しか…」
右手を肩の高さにあげ私の話を遮った。
「そう利己的だ何だと批判せずに、まあ聞きたまえ。」
軽くうつむいて2,3歩進み、こちらに向き直った。
「貴様の好きなたとえ話をしよう。夏の暑い日に貴様は山道を登っている。朝から歩き尽くめ、疲労はピークに達している。喉はからからで頭はふらつき今にも倒れそうだ。ひょっとしたら熱中症になっているのかも。しかしまもなく行くと水場がありそこで水を飲み、小さいながらも木陰で涼をとり休もうと考えていた。そのとき、足元で音がする。立ち止まり下を覗くと、たぶん滑り落ちたのであろう、一人のハイカーが怪我をした体を引きずりながら這い登ってくる。さて、どうする?」
「考えるまでもない。走り降りて、連れて上ってくる。」
「だろうな。貴様は躊曙することなく助けに走るだろう。おめでとう、期待通りの模範解答だ。しかし、その行為は貴様にとって、いいや、彼にとってプラスかね?」
「何を言う、傷を負って死にかねないような人間だぞ。命を救うのに、プラスもへったくれもあるか!」
「命は尊い。私は人の生を決して軽んじている訳ではない。もっとも、生きるに値する命であれば、だが。」
そう言うと、私の左から後ろへと移動した。
「しかし、こうは考えられまいか。彼が困難に遭遇しているのは、自らで問題を解決し今後の幸運をつかむ力と知恵を身につけるため。であるならば、他人が成長するための試練を受けているときに水を差すような行動は慎むべきだ。」
反論しようと私が振り向くと同時に、言葉を続けた。
「ところがこうも考えられる。これはその人間を助ける方法を考え実行することで自分が成長できる機会なのではないか、と。さて、どちらが正しいのか?助けるべきか、そのまま見過ごすのか。」