「まだ?」

シートを起こすと、少し遠慮気味に尋ねてきた。

「眠ってたんじゃなかったの?」

「ううん。あなたからの言葉ずっと待ってたんだけど、シビレ切れちゃった。」

「何を?」

「またそうやって気を使ってる。いいのよ、はっきりきいてもらって。」

「だから何を?」

「答えは『イエス』よ。」

照れ隠しか視線を落とし、伸ばした足を交互に2,3度揺らした。そのさまがかわいらしくて、素直に口に出た。

「ありがとう。」

「だから何に?」

「え?つまり…その…」

「はい、分ってます。ちゃんと毎朝起きてご飯を作ってあげます。いえ、作らさせてください。でも、1回でちゃんと起きてね。でないと、せっかくの御飯が冷えちゃうから。」

視界を遮っていた霞が晴れたかのように、一緒に暮らすさまが見えてきた。多分頬も緩んでいたと思う。

 車は既に九州自動車道へ入り、車の流れが多くなっている。私の好きなカーブを逆方向から右、左へと揺れ、間もなく国道へと降りるインターチェンジだ。そこから彼女の家までは10分とかからない。

「ねえ?」

「ん?」

「少し体が冷えたから、暖まって帰らない?それに…プリンも食べなきゃ。」

ゆっくりと左腕に手をからめ頭を預けてくる。

「賛成だね。僕も同じことを考えてた。」

「素直な言い方、好きよ。」

そう言うと、太腿に置いた手を少し進めた。

 

 交差点を左折、彼女の家に背を向け小高い丘へと軽やかに登っていく。はやる心は、車にも伝わったようだ。

 

                                                                                     了

 

 日田市内を抜け高速に乗った頃には、陽はとっぷりと暮れていた。去年豆田のひな祭りに連れ出した時には、こんな時間まで一緒にいなかった。豆乳鍋で有名な店で昼食をしているとき楽しそうにしてはいたがなんとなくよそよそしさを感じて、食事を済ませると早々に引き揚げた。そう、鍋の表面でゆっくり出来上がる湯葉を何度かすくった後、

「時間持て余しちゃう。」

とつぶやいた彼女の一言が気になったのだった。

 

「すっかり暗くなっちゃったね。」

「ああ、まだ6時を過ぎたばかりなのに。」

「朝からこんな時間まで一緒にいるのって、初めてじゃない?」

「そうだっけ?」

「だって私が朝苦手なのを知ってるから、 あなたからの誘いは全部お昼頃からだったでしょ。」

「それにしては今日は早く起きれたね、30分遅刻はしたけど。」

「あーごめんなさい。でもその分、道は走りやすかったでしょ?」

「遅れたことを正当化する気?」

「そんなつもりないけど。でもいいじゃない、とりあえず今日は仲良く温泉を楽しめたんだから。」

「どこかで聞いたようなセリフだなあ。」

「そう?」

おどけて肩をすくめると、少し傾けたシートに身を預けた。

 

 上りに差し掛かり軽くアクセルを踏み込むと、昼間の雪道を思い出した。しかし、もうタイミングをはかる必要はあるまい。お互いへの思いは同じようだから。『隠し事はしないで』、との彼女の言葉にも救われた。

 今日はほんとに色々なことがあった。なんとなくまだよそよそしさを感じていた今朝の車の中、陽の下で初めて観た彼女の胸、ガラス屑のカーテンのような景色、色合いの違う乳白色の温泉、蕎麦の味。そしてあの奥さん。人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、あれほどまで強い女性はそうそういまい。事実を知った時はさぞご主人の事を憎んだだろうに、冷静にふるまい自分のとった行動を分析し原因を見極めようとした。二度と同じことを起こさないために。危機を乗り切った夫婦の絆はより深まると聞く。だからこそ今は家庭を大事に思い、仲が良いのだろう。

 

緋乃からの言葉は待ち望んでいたものであり、とてもありがたかった。しかし、もし緋乃と伴に歩き始めて危機が訪れた時、それをうまく乗り越えられるほどの揺らぎない信頼をこれから築いていくことができるだろうか。

「え、違うの?」

「いや、ただそう思ってもらってたことに驚いただけ。」

「"うれしい驚き‟ってこと?」

そのとおりだ、と言うのは恥ずかしい。頭の隅から、『思春期の子供でもあるまいに、何はしゃいでるんだ?』と声が響いた。面映ゆい気持ちで顔が赤くなりそうだ。答える代りに、緋乃の手をそっと包む。

「あなたは優しいから、こうやって気持ちを伝えるのよね。初めは何も言わないから、冷たい人だと思ってた。でも、これもだんだんわかったんだけど、言葉にしない代わりに何気ない仕草でその時の気持ちを教えてくれる。」

「そんなんじゃないよ。ただのテレ屋さ。」

「認めたね。そう、しかも意識してなくても気持ちが表に出ちゃう。隠したいときでもね。」

「あ、それ嘘をついたらわかるって言うさっきの話? 参ったなぁ、違うって。たまたま同じことやってるだけだって。」

「違うよ。だって、普段そんなことするところなんて見たことないもん。だからちゃんとわかる。」

「どんなことやるっての?」

「それはね…だーめ。 教えてしまったら、あなたのいいようにもてあそばれてしまう。」

「もてあそぶなんて、人聞きの悪い。ただ、みっともない仕草だったら、直したほうがいいと思って。」

「その手には乗らなわよ。」

「だめか。手強いな。」

「今頃気づいた?私、あなたが思っているほどおバカさんじゃない。ちゃんと分別のある、大人の女なんだから。」

「じゃあ、隠し事したいときは電話で話すことにしよう。そうすればその仕草とやらを見られることはない。」

「つまり、電話をかけてきたときは要注意ってことだ。」

「あー、まったく可愛い気のない。だからあくまでそれは…イタッ!」

 赤信号で止まっているのをいいことに、左耳を引っ張ったまま耳元で囁いた。

「好きな人をからかうのって、楽しい!」

 

斜めに背もたれにもたれ対向車のライトに浮かんだ顔には、いつもの悪戯な表情。

しかし、目元は優しく笑っている。