テニアン戦 米軍上陸後の守備軍の夜襲 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

テニアン戦 米軍上陸後の守備軍の夜襲

米軍にチュルビーチ海岸から上陸を許した

日本軍はラソ山に集結していた

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ラソ山集結地

夜中の0時をもって夜襲攻撃をする準備だ

攻撃隊は中央に海軍の雉・隼部隊

左右を歩兵50連隊と135連隊第1大隊で固め

米軍を包囲するように攻撃する計画であった

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ラソ神社跡

そして攻撃命令が出て突撃した

ラソ山北端から中央第一線に歩兵135連隊第1大隊和泉文三大尉、戦車中隊の軽戦車8両鹿村一男中尉が攻撃

北東から歩兵50連隊第2大隊神山新七大尉が攻撃

南方から歩兵50連隊第1大隊松田和夫大尉、海軍第56警備隊大家吾一が攻撃

しかし、米軍の砲撃があまりにも強烈であったため

一歩も進めぬまま夜が明けてしまった

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ラソ山から上陸地までの地

このあたり一帯で日本兵は2500名の死者を出した

米軍上陸の24日と翌日の朝の二日間で

テニアン島の守備軍は半数ほどになっていた



兵士達はいつまで持ちこたえられるか

連合艦隊の援護はいつ来るのか

不安であったが覚悟は決まっていた

そうした中で、海軍の高級将校らは

この激戦地からの脱出計画が遂行されていた

潜水艦による脱出であった

この計画が漏れたあとには

玉砕覚悟で戦っている時に

司令官の脱出とは許しがたい!

陸軍の兵士達は怒りと不安で士気は無くなっていった



28日には米軍は戦車を先頭にどんどん南下してきた

サイパンのように高い山は無く

さとうきび畑や放牧地では日本兵が隠れるところも無く

米軍の進攻は比較的楽であった




この日、緒方守備隊長は陸海軍大臣宛の電報を発した

「在テニアン邦人1万5千名中、16より45才のもの3,500名、義勇隊を編成し軍に配属、奮戦敢闘しつつありて、皇国人としての伝統を遺憾なく発揮しあり。老人婦女子は集合の上、爆薬により処刑す。」


陸軍はカロリナス台地に集結し

最後の突撃を覚悟していた