これまでに書いた2018年の帰日は、度々の実家帰りとおなじ。
帰りには母をいっしょにメルボルンへ連れてきて、クリスマス、お正月を過ごすつもりでいました。
帰日中、はじめの数週間は、普通に母と日常を過ごしたあとに、
思いもよらない母の最期の時に、そこにいることができた。
帰国のタイミング、滞在の推移は、なにか上の力がおよんでいると考えることが、一番理にかなっている、と思わせるできごとでした。
子どもをもって私にもわかることは、子どもの帰りを、親はその10倍も楽しみにしているということ。
母は口にせずとも、心細く不安に思いわづらいながら生きていたのだと思う。
娘に心配させないように、大丈夫なふりをしながら。
まさかその後急逝するとは思いもせず、あたりまえにいっしょに毎日を過ごすことができた。
それは、心配して思いを馳せたり、先回りしてなにかしても助けにならない、
自分のちからでは用意することはできないかけがえのない数週間でした。
そして、母の健康が急に悪化して、下り坂をすべるように、たった数日で亡くなってしまったその週に、娘として母を支えることができたこと。
それは母が言葉にしないまま、心で求めていたことだったと思うのです。
お葬式が終わり、弔問客も途絶え、兄たちも自宅に戻った土曜の午後。
しばらくぶりに、一人になったことに気づいて。
しんと静かになった母の家で、母の遺影の前にすわると、涙がこみ上げて止まらない。
私、母が死んでから泣いたっけ?
そのときに、メルボルンの友人から私をいたわるショートメールが届きました。
まさにこの友人から、一人になったこのときに。![]()
私はひとりじゃないよ、と。神さまがおなじ部屋にいてくれているようだった。
私を思い出して、ことばを届けてくれる人がいる。
それは、人をとおして、神さまからの贈り物を受け取ったのだと思うのです。
偶然みたいなことを、神さまの働きだと受け止めることは、実はとても自然なことで、
そう受け止めて小さな毎日を生きること。
友人がメールしてくれたように、思いをもって人につながることが、私の信仰です。
もっと大変な思いをして介護されている方、悲しみにいる方、途方に暮れる方に、
私のはなしは陳腐で届かないかもしれない。
でも、普通の毎日に、まわりにいる誰かを通して、あるいはあなたに直接、神さまのまもりが伝わることを祈ります。
死は終わりじゃない。
生をささえた同じ神さまが、死もつかさどる。
同じ神さま、だから絶対怖くない。
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わたしがあなたと共にいる。それで十分ではないか。
わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現われるのだから
コリント人への手紙Ⅱ 12:8-9 https://my.bible.com/bible/83/2CO.12.8-9
